藤の深山(3)

 別邸の離れでは、壬が一人することもなく、縁側でぼんやりと物思いにふけっていた。

 鞘の問題をもっと軽く考えていた甘い見込みと、どうにもならなくなって立ち往生してしまった不甲斐なさに嫌気が差した。昨日の夜、彼女の気持ちに答えれば良かったのかと考え、すぐさま何の解決にもなっていないと思い直すことを何度か繰り返す内に、睡眠不足も手伝ってか、そのまま疲れて眠りに落ちた。

 首がかくんと落ち、はっと目が覚める。と、辺りはすっかり薄暗くなっていた。

 ずいぶんと眠ってしまっていたようだ。

(もう、夕飯の時間かな……)

 ぼんやりと考えながら壬は目をこすった。今晩は一人で食べることになる。今夜をどう乗りきろうかと考えていた壬にとっては、伊万里が亜子の部屋で寝泊まりしてくれるのは助かった。

 しかし同時に、昼間、拓真に宣戦布告されたことが気にかかった。

 ここは拓真の屋敷だ。亜子の部屋がどこなのか教えられもしなかったが、彼のことだから伊万里のもとに行っているかもしれない。

 内心、穏やかではいられないが、不思議と拓真本人には腹が立たない。自分も彼のことを気に入っているからだと壬は思った。

 率直な物言いがやんちゃに見えはするが、拓真は人を良く見ているし、ここぞという時の判断も冷静だ。何より裏表がなく、図々しいくらい真っ直ぐだ。面と向かって「伊万里に惚れた」などと宣言するあたりも、彼らしいと壬は思った。

 とは言え、他の男に口説かれる伊万里なんて今まで想像もしていなかった。なぜなら、伏見谷に来た時から伊万里は伏宮家の嫁で、自由に恋愛することを許されていなかったから。

 そして、そんな彼女の状況を利用している自分がいる。

 ちゃんと伝えなくても、必死にならなくても、伊万里は自分のものだった。でも、それが彼女が心から望んだことだという自信はどこにもない。それほど、彼女にとって「九尾」は絶対の存在なのだ。

(伊万里が好きなのは、俺ではなくて九尾)

 まるでくさびのように心に刺さっている思い。

 彼女の本心を知りたいのなら、このお膳立てされた今の関係を解消するしかない。でも、そうする勇気がなくて、自信がなくて「俺を信じて」なんて言葉で誤魔化した。ちゃんとするつもりもないくせに、何を信じてと言うのだろう?


 その時、


 庭先の暗闇にぼんやりと白いものが浮かび上がった。

 なんだろうと目を凝らす。それは手のひらサイズの人形ひとがたに切り取られた紙で、のっぺらな顔の部分に口だけがにんまりと笑みを浮かべていた。

「な……んだ?」

 式神だ。壬はとっさに身構えた。

 ゆっくりと式神の口が開く。

「……死ヌゾエ。姫ハ、死ヌゾエ……」

「は?」

 すぐには言っている意味が分からず、彼は顔をしかめた。人形ひとがたがおかしそうにケタケタ笑った。

「姫ハ、死ヌ。死ンデシマウゾエ」

「なんだ、おまえはっ?!」

 次の瞬間、壬の口から炎が飛び出した。人形ひとがたがひらりとそれをかわして宙を舞う。

 壬はとっさに亜子の部屋にいるはずの伊万里を思った。彼は人形ひとがたを睨み付け、そのまま踵を返して足音も荒く母屋へと向かった。

「伊万里!! ──おいっ、拓真!!」

 広い屋敷の廊下に壬の声だけが響く。ややして、慌てた様子で信乃がやってきた。

「壬さま、いかがいたしました?」

「亜子さんの部屋に伊万里がいるだろ。顔を見るだけでいいから、案内してくれないか」

 信乃が少し戸惑った様子を返す。壬が「早く!」と急かせると、彼女は躊躇ためらいがちに口を開いた。

「伊万里さまは、拓真さまと夕方頃にお出かけになりました」

「出かけたって──…」

「はい、深入ふかいりという場所です。夕食までには帰ってくるかと──」

「……それはどこ?!」

 信乃の言葉を途中で遮り、壬が声を荒げた。信乃はびくっと震えて言葉を飲んだ。そしてひと呼吸置くと、北西の方角をおずおずと指差した。

「この屋敷から北西に進んだ山奥です」

 そこまで言って、信乃は壬の背後を見てぎょっとする。壬が振り返ると、さっきの紙の人形ひとがたが彼の背後でゆらゆらと漂っていた。

「壬さま、それは一体──?」

 刹那、人形ひとがたがケタケタと笑い声を上げてひらりとひるがえる。

「あっ、待て!!」

「死ヌゾ。早ク来ナイト、死ンデシマウ」

 歌うように言いながら人形ひとがたが廊下から外へ飛び出した。壬も一緒に裸足のまま飛び出した。

「亜門さんに伝えてくれっ。俺は、あいつを追う!」

「はっ、はい」

 信乃がおろおろになりながら頷く。人形ひとがたが庭の竹垣を越えて闇へと消えていく。壬は地を蹴って自分の背丈ほどある竹垣を越えると、そのまま狐の姿になって人形ひとがたの後を追った。


 


 その少し前、深入では拓真と伊万里が太一郎と対峙していた。拓真はふらつく伊万里を片手で自分のもとへ引き寄せた。

「伊万里、しっかりしろ」

 しかし、伊万里は呆然とした面持ちで、ただぼんやりと頷き返すのみ。拓真は、太一郎をぎっと睨んだ。

「太一郎、ここが伊万里の母親の始末場所とはどういうことじゃ。おまえが──、殺したんか?!」

「不義を犯した姫の始末は、月夜の御意ぎょい。それに従ったまで」

「月夜の御意だかなんだか知らんが、そんなもん知ったことかっ。それを……、鬼の下僕に成り下がりおって、」

「篠平はもう道がない」

 太一郎が冷たい声で言った。

「じきここも人間に奪われる。そうなる前に力を手に入れねばならん。力さえ手に入れれば、排除できる。目障りな東篠の者たちもおまえも、どうとでもなる。篠平を儂の手の内に納めることもできる」

「とどのつまりが、私利私欲だろうがっ」

「全ては力よ」

 太一郎が目を細めて伊万里を見る。そのねぶるような目付きに拓真はゾワッと嫌悪を感じた。と、同時に、彼の目的が何であるかを理解した。

「まさか、妖刀を手に入れようと思っておるんか?」

 拓真が太一郎に投げかける。太一郎は答えない。ただ、その無言の不気味な笑みは、返答には十分だった。

「馬鹿なことを……」

 拓真は信じられないと頭を左右に振った。

「兄貴は……祥真にいは、このことを知らんのだな?」

「……あのような臆病者が知っているわけなかろう」

 太一郎が軽く鼻を鳴らす。拓真は怒りで体を震わせた。

 この男は、ずっと兄をないがしろにしている。いや、兄だけではない。父親も最後はこの男の言いなりだった。

 そして今、妖刀さえも我が物にしようとしている。

「おまえ、絶対に許さんぞ!」

 拓真は唸るように言った。

 こいつだけは許さない。何としてでも篠平から排除しないといけない。

 すると、太一郎がさらに目をにんまりと細めた。

「そんな儂にばかり目を向けていていいのか?」

 言って伊万里をすっと指さす。

「姫の様子がおかしいぞ」

「──え?」

 思わず拓真が振り返る。伊万里が大きく目を見開いてよろめいた。

「伊万里?!」

 彼女が「な、に──…」と胸を押さえて前のめりになる。

 どくん、と伊万里の胸が大きく脈打った。体の奥、何かがぞわぞわと動き出す。

「呪いの種だ。もうすでに姫の体に仕込んである」

 刹那、伊万里の腹部から服を突き破り赤黒い双葉が二つ芽吹いた。伊万里ががくんと両膝をつく。そしてそれは、そのままずずっと蔓となり、彼女の体に這いずり始めた。

「弱っている心にはよう根付く」

「伊万里!!」

 太一郎の下卑た笑いと、拓真の声がぼんやりと伊万里の耳に届いた。

 体温が一気に下がり、力が抜けていくのが分かる。

 

 その時、

 

 ばりばりっという音とともに、黄金こがね色の狐が人形ひとがたの式神と一緒に雑木林の中から躍り出た。

 口から吐かれた炎が式神を一瞬で焼き尽くす。

「伊万里!!」

 壬が人の姿に戻るのと、伊万里が目を閉じるのが同時だった。

(壬、助けて──…)

 胸の奥、ほの暗い沼のようによどんだ気持ちがゆっくりと沈んでいく。

 伊万里はそのまま意識を失った。

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