旅のはじまり(3)

 伊万里はまどろみの中、肩にかかるもふっとした毛布を握りしめた。しかしそれが壬の大きな尻尾であることに気が付いて、彼女は一気に目が覚めた。

(そうだ、ここは車の中)

 自分が篠平に向かっていることを思い出し、ゆっくりと体を起こす。紺色のワンピースのスカートが少しめくれ上がっていて、彼女は慌てて裾を下ろした。ふと傍らを見れば、黄金こがね色の狐がうずくまり、静かな寝息を立ていた。

 昨夜、角にキスをされたあたりから混乱し始め、首筋に消えないあざを付けられたところで頭の中がぶっ飛んだ。

(あれはどういう意味でしょう??)

 とりあえず深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。壬はこの痣を「俺のものだっていう印」と言った。

(そりゃ、私は二代目様に嫁ぐべく来たわけですから、そういう意味では壬のものになるわけで──…)

 昨日のことを思い出し、あの時の感触が甦ってきて、伊万里は再び頭がくらくらした。

 あの後、何を話したか、正直あまり覚えていない。出発前に圭と何を話したかとか、伊藤屋いとうや右玄うげんの日記のこととか、そんな話をした気がする。それから、さすがに休まないといけないとなり、壬は狐の姿になった。おそらく二人で横になることに躊躇ちゅうちょしている自分を気遣ってくれたのだろう。

 伊万里は、傍らで気持ちよさそうに眠る大きな狐をじっと見つめた。

 壬の狐姿が好きだ。尾に行くほど黒光りを増す黄金こがね色の毛並み、ぴんっと立った耳に精悍な顔、そして大きく立派な尻尾。

 人間の姿の壬も好きだが、雄々しい狐姿の壬は見惚れるほどだ。

 壬の背中をそっとなでる。ふわふわの毛が指の間をするりと抜けていく。

(私、ないものねだりをしてもいいですか。壬?)

 第一印象はこれが本家の狐なのかと思うほど、たいした霊力も感じない普通のあやかしだった。だから、「ああ、二代目様はこの人ではないんだな」と少しがっかりした。

 相手が決まっていないことは猿師から事前に聞かされていた。それでもと淡い期待を胸に伏見谷へ来た。がっかりしたのは、二代目九尾がやはりどこにもいないと分かり、今この谷で自分が恋い慕える者はいないのだと思ったからだ。

 でも違った。壬はこんな余所者よそもので種族も違う自分を、ただの女の子として扱ってくれる。毎日いっぱいどきどきをくれる。「この人ではない」と思っているのに、気が付くと大好きになっていた。

 その壬が妖刀・焔を引き継ぎ、二代目九尾を名乗る。あまつさえ、自分を抱き締め甘い言葉を囁いてくれる。印などわざわざ付けなくても、とっくに自分は壬のものだ。

 もう二人の間に何の問題もないのではないか、伊万里はふとそんな風に思った。昨日は胸がいっぱいで、まともに寝ていない。

 小窓の隙間から朝の光が漏れ入って来る。伊万里は膝をついて小窓まで行くと、引き戸をそっと開けた。

 途端に眩しい光が車の中に射し込んだ。

 小窓から外の様子を伺うと、朝日に照らされた山の連なりが眼下に広がっていた。南の方向には海も見える。平野部が少なく海と山に挟まれた土地。

 すると、伊万里の頭上で声がした。

「もう着きそうだな」

 いつの間にか起きた壬が、人間の姿となり伊万里の背後から小窓を覗き見ていた。

「お、おはようございます」

 慌てて伊万里が挨拶すると、壬が柔らかな笑みを返した。

「おはよ。眠れた?」

「はい。おかげさまで」

 本当は眠れていないが、そこは建前的に嘘をつく。

 壬は「そう」と頷くと、大きくひと伸びしてから伊万里を背後から抱き締めた。

「俺はあんまり眠れなかった」

 そして、彼女の肩にあごをずしっと乗せる。伊万里は昨夜の再現になるのではと焦ったが、壬はそれ以上は何もせず、小窓の向こうに見える風景を鋭く見つめた。

「狭い土地だな。どこの土地でも平野は人間が好んで住むけれど、伏見谷と違って山と平野が近い」

「そうですね。篠平はどの辺りでしょうか。どちらにせよ、人間が容易に入り込んできそうで心配ですね」

 網代あじろ車が、ゆっくりと下向し始めた。平野を横目に山間部へと入っていく。しばらくして、山間やまあいの奥、集落のある開けた平地が見えてきた。あちこちに家が点在し、大きな屋敷も見える。車がさらに下向する。

「あれが篠平の里──」

 伊万里が呟くと、壬がぐっと彼女を引き寄せ、耳元で囁いた。

「伊万里、俺の側を離れるなよ」

「はい」

 伊万里はきゅっと口を結び、壬の腕を握りしめた。

 


 それからほどなくして網代車が着地した。ずんっと地に着く振動が体に伝わり、そして車は動かなくなった。壬が二人の荷物を持つ。

 すると、車の外から女性の声が聞こえた。

「待っていたよ。遠慮せず、出ておいで」

 壬と伊万里はお互いに頷き合う。そして、まずは壬が先頭に立って御簾みすを開けた。そこは、どこかの屋敷の庭だった。手入れの行き届いた植木に庭石と池、まるでお手本のような日本の庭園だ。

 壬に続き、伊万里も車から降りる。

「長旅は疲れなかったかい?」

 二人を出迎えたのは、長い髪を後ろでキュッと一つに結んだ女性だった。

東篠とうじょう亜子だ。はじめまして、お二人さん」

 凛とした瞳に意思の強さを感じる。白シャツにジーンズというシンプルな格好で、「かっこいい」という言葉が似合う大人の女性だった。彼女は腰に手を当て、首を傾げてニッと笑った。

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