旅のはじまり(4)

 亜子は二人の顔を交互に見ながら人懐っこい笑みを浮かべた。

「壬と伊万里だね。二人のことは次郎から聞いているよ。話のとおり、可愛いらしいねえ」

「東篠、亜子……」

 壬が亜子の名前を繰り返すと、彼女は小さく頷いた。

「ご当主から聞いているかい?」

「はい、頼れと」

 壬が答えた。亜子がすかさず人差し指を口の前に立てた。

「篠平には谷と繋がりを持つことを嫌う者もいる。今回の事情を詳しく知らない者もいるから、私から話を出さない限り内密に。あと、公の場であからさまに庇ったりは出来ない。申し訳ないが、そのつもりで」

「ああ、はい」

 慌てて壬が頷く。亜子は満足そうに笑った。

「いい子だ。うちのバカ拓真と合いそうだ。ほら、荷物を貸しな。先に部屋へ運んでもらおう」

 亜子が壬から荷物をさっと奪い取り、大股で歩き始める。その颯爽とした後ろ姿がかっこいい。すると伊万里がぐいっと壬の腕を引っ張った。

「壬、あの方は何者です?」

「だから、今回ジロ兄を通じて伏見谷へ打診してきた篠平の狐。俺も父さんから名前を聞いてるだけだけど」

「そんなことを聞いているのではありません。次郎さまと、どのようなご関係なのかと聞いているのです!」

「どうって──」

 言われても。

 壬が返答に困っていると、亜子が立ち止まって振り返った。

「次郎は、私にとって一番信用できる狐だよ。私も、あいつに一番信用されていると思っている。まあ、そんな感じだ」

 さくっと答えて亜子が再び歩き出す。刹那、壬の隣で伊万里が両手を握りしめ、ふるふると震えた。

「す、素敵……」

「伊万里?」

 見ると、伊万里の目がハートになっている。そして彼女は興奮気味に言った。

「一番信用し、一番信用されているだなんて──! これはどう考えても、あの次郎さまとただならぬ仲。それを、あのように表現されるとは! かっこ良すぎます!!」

「や、おまえがなんで感激してんの?」

「つまりは、あの次郎さまと恋仲ってことですよ、あの次郎さまと! だって次郎さまですよ!」

 久しぶりに聞く伊万里の「次郎」コール。きっと一生、総次郎にはかなわない気がする。

「意味分かんねえし」

 壬はムスッとしたまま歩き始めた。伊万里が慌ててその後をついてくる。しかし、彼女はそのまま壬を追い越して、小走りに亜子に近づき声をかけた。

「亜子さま、次郎さまとはどこでどのようにお知り合いに?」

「あん? もう長い付き合いだからね、どこでどうって言われても──」

「ではっ、お二人はいつも行動を共にされているのですか?」

「いやあ、お互い忙しいから連絡もたまにしか……」

「それは遠距離恋愛! 離れていても気持ちは一つっていう……」

「いや、なんか違う──。たぶん、おまえさんが想像しているのとは違う」

 すると二人に追いついた壬が会話に割って入った。

「なあ、ここが篠平本家なのか?」

「いや。ここは、次男坊の別邸だ」

 亜子が助かったという顔をしながらすかさず答える。不満そうな伊万里をひとまず無視して、壬は聞き返した。

「……兄弟なのに、別々に住んでるのか?」

「そうだ」

 言って亜子は、縁側まで来ると「信乃しのっ」と屋敷の中に向かって声をかけた。すぐにパタパタと足音が聞こえて来て、奥から小学生くらいの女の子が一人出てきた。黒髪を後ろで三つ編みにし、体も小柄で顔も幼い。

「客人の荷物だ。部屋に運んでおいてくれるか」

「はい」

 信乃しのと呼ばれる女の子が、ちらりと壬と伊万里を見る。そして彼女は黙ったまま一礼すると、荷物を持って少し頼りない足取りで奥へと消えて行った。

「あんな小さい子にやらせなくても俺たちで持っていくのに」

 壬が申し訳なさそうに信乃を見送る。すると、亜子が笑った。

「彼女は山童やまわろだ。見た目はああだけど、年齢はそこそこあるよ。少なくとも、おまえらより年上だ」

「え? そうなんだ」

「もともと本家の使用人だったんだけどね。訳あって、今はうちの使用人だ」

 そして亜子は、すっと真剣な顔になった。

「ゆっくりともてなしたいところなんだけど、そうもいかない。着いた早々で悪いが、拓真と年寄どもに会ってくれるかい」

「年寄? あのロクでもねえジジイのことか」

 あからさまに嫌な顔をする壬に亜子が苦笑する。

「婚儀の礼では、かなりの非礼を働いたと次郎から聞いた。その時のことを直接本人に謝らせたいところだけど、残念ながら奴は本家側の者でね。今日ここにはいない。本当に悪かったね」

「俺じゃねえよ、伊万里だ」

「私はもう──。過ぎたことですので」

 壬の隣で伊万里がふるふると首を振った。亜子がそんな伊万里の頭を撫でる。そして彼女は、伊万里の髪をひとすくいして、吐き捨てるように言った。

「こんな愛らしい姫をさらし者にするなんざ──。西郷の古狐ふるぎつねは相変わらずいい趣味してるよ」

「西郷の古狐?」

「ああ、そうだ。篠平家長男の付役つきやく、西郷太一郎。頭の隅にでも入れておきな」

 亜子が含みのある笑みを口の端に浮かべ壬たちに言った。

 すると、

付役つきやくが『太一郎』とは」

 伊万里がくすりと笑い声を漏らした。

「なんとも欲張った名前にございます。決して『太』も『一』も使わない稲山とは大きな違い」

 総次郎が稲山家の長男にも関わらず『太郎』でも『一郎』でもないことを受けての言葉だ。稲山は分家であることをわきまえ、自戒の意味も込めて長男であろうと一番を意味する漢字を名前には使わない。だから大叔父も「勝二」だ。

 亜子が肩眉を上げて鋭く壬と伊万里を交互に見る。

「二人とも、伏宮のご当主から何かことづかったことは?」

「……別に何も。ただ、カツオを食ってこいとだけ言われた」

 壬が答えると亜子が吹き出した。

「ははっ、カツオをかい」

「あとは、誰も信じるなと」

「悪くないね」

 亜子が面白そうに口の端を歪めた。彼女はちらちらと周囲を気にしながら、壬たちに小声で言った。

「二人とも、ご当主の言い付けを忘れるんじゃないよ。知らない土地に来た時はなおのこと。必要なら、私も信じなくていい」

「あんたも?」

「当然だろう。次郎にそれぐらい教わらなかったのかい?」

 亜子がにやりと笑い返す。そして彼女はあごで壬たちを促し、再び歩き出した。

「ちょうど一週間後、評定ひょうじょうがある。そこで跡目が正式に決まる。それまでにうちの拓真に跡目を名乗らせる」

「……なあ、なんでそんなに揉めているんだ?」

「どこかの誰かさんが篠平を食い物にしようとしているからさ」

 亜子が振り返りもせず吐き捨てるように言った。壬と伊万里は互いに顔を見合わせた。

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