旅のはじまり(2)

義父とうさまの話はそれだけだったのですか?」

 気恥ずかしさでいっぱいになり、伊万里は壬に尋ねた。特に気になった訳ではないが、何も話さずじっとしてはいられない。

 すると、彼が言葉を詰まらせた。

「……壬?」

 にわかに黙る壬を不審に思い、伊万里は横目で彼を見た。すぐ側にある彼の顔は少し深刻そうな空気を漂わせていた。

「何か……、難しいことを申し付けられたのですか?」

「ああ、いや、何も」

 不安げな顔の伊万里に気づき、壬はさっと笑顔を返した。

「ごめん、ぼーっとしてた。父さんの話はそれだけ。その他は何もない」

 彼は咄嗟とっさに嘘をついた。鞘の話なんて、いきなり出来る訳がない。伊万里が納得していない表情を見せた。

「でも、難しい顔を……」

「何もないって」

 少し強い口調で言い返し、壬は伊万里の角にキスをした。伊万里が顔を赤らめながら体をすくめ、再び身を固くした。

 とりあえず強引に彼女を黙らせたところで、壬はすかさず話題を変えた。

「篠平では角出しで行くの?」

「あの、鬼の姿の方が舐めれないかと思いまして。義母かあさまにもそう言われて……。壬が嫌ならやめます」

「ああ、ごめん。そういう意味じゃない」

 壬は答えた。文化祭の時、鬼の姿を総次郎にさらして自分が怒ったことを気にしているのだろう。

 今はただ、話題を早く変えたかっただけだ。

 壬は少し後ろめたい気持ちになった。

 嘘をついたのは伊万里のためじゃない。自分のため。

(俺が鞘をもらえば全てが丸く収まる。それでいい。あえて伊万里に自由になれるなんて言う必要がどこにある)

 父親に言われた「鞘の呪縛から解放してやれ」という言葉が壬に重くのしかかっていた。

 焔の鞘をどうにかしないといけないことは分かっている。放っておいても何の解決にもならないことも。でも、鞘をどうにかすることと、彼女を自由にすることとは話が別だ。

 今、こうして彼女は自分の腕の中にいる。何の疑いもなく自分を慕ってくれている。だったら、焔の鞘さえなんとかすればいい。

(伊万里は俺のことだけ見ていればいい)

 触れ合っている部分から、伊万里の温もりが伝わってくる。華奢な肩にかかる髪、その隙間から見える白い首筋はどきりとするほど艶めかしい。

 壬は伊万里を抱きかかえる両腕にわずかに力を込めた。

「土蜘蛛に刺された傷は、もうなんともないの?」

「はい、すっかり傷跡も消えました」

「さすがだな。どんな傷でも癒えそうだ」

 それじゃあキスマークも付けられないな。内心ぼやきながら、伊万里の首筋を眺める。すると、伊万里は「どんな傷でもなんて、」と答えた。

「霊力のこもった攻撃は傷の治りも遅いですし、場合によっては傷跡も残ります。そこは多少の違いはあっても壬と一緒です」

「霊力のこもった攻撃──」

「気のり、反立と同調です」

「やっぱり、またそれ」

 壬が辟易しながら呟いた。伊万里が「そう、それです」とおかしそうに笑った。

 でも、

(そうか。跡を残そうと思えば残せるのか)

 彼はさらに両腕に力を込めると、彼女が逃げ出さないよう後ろから抱き締めた。

「え??」

 突然抱きすくめられ、伊万里がわずかに身動みじろいだ。しかし、壬の力強い腕がそれを許さない。

「な、何……?」

「ダメ。ちょっとじっとして──…」

 言って、次の瞬間、壬は彼女の首筋に唇を押し当てた。

 伊万里がびくっと震え、逃げ出そうとする。そんな彼女をぐっと押さえ、壬はそのまま自分の気を唇にのせ、その柔らかく白い肌に流し込んだ。

「い……たっ」

 伊万里の口から吐息のような声が漏れた。

 ダメだ。加減が出来なくなる。これ以上はと思い、壬は唇を離すと彼女を押さえていた手を緩めた。首筋に赤いあざが付いていた。

「な、ななな、何を──?!」

 顔を真っ赤にしながら首筋を押さえ、伊万里が壬の腕から飛び出した。壬がぱっと両手を上げる。

「ごめん、ちょっとやり過ぎた」

「こっ、このようなところ、誰かに見られたら──」

「大丈夫、ギリギリ髪に隠れるから見えないって。もし見えたとしたら……」

 それは本当にたまたまか、自分のようにそういう目で伊万里を見た奴だけだ。

 顔を真っ赤にして涙目で取り乱し、伊万里が壬を睨んだ。

「何もしないって言ったのに──!」

「でも、印を付けておかないと」

 怒った顔さえ可愛いなと思いながら壬はしれっと答えた。

「だってほら、迷子になったら困るから」

「迷子?」

 その含みのある言い方に伊万里がふと怪訝な顔をする。しかし、壬はかまわず伊万里を再度引き寄せた。

「実は、俺も少し浮かれてる」

 壬は伊万里の耳元で囁いた。頬を染める伊万里が、自分の腕の中でいっぱいいっぱいになっているのが分かる。

 ああ、本当に可愛いな。愛おしい気持ちが溢れかえる。

「これは俺のもんだっていう印」

 壬が伊万里の首筋の赤い痣をそっと指でなぞった。

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