1)旅のはじまり

旅のはじまり(1)

 月の光に導かれて牛が引く網代あじろ車は濃紺の空をゆったりと進んでいた。空一面に輝く星は、まるで散りばめられた宝石のようだ。

「綺麗──…」

 車の小窓から夜空を眺めながら、深紫の瞳を細め伊万里は嬉しそうに呟いた。秋の夜風が頭の角に当たって心地よい。ふと視線を感じて振り向くと、壁に寄りかかり片ひざを立ててゆったりと座る壬がこちらをじっと見ていた。

「ごめんなさい、寒かったですか?」

 伊万里が慌てて小窓の引戸を閉める。

「ううん、嬉しそうだなって思って。ガキん頃に電車の窓から外を眺めてよくはしゃいでたけど……、あれに似てる」

 壬が笑った。

 車の中は外で見るよりわりと広かった。がらんとした簡素な造りではあるが、中央には六尺四方ほどのふかっとした敷物も敷いてある。長旅になるであろう二人に対するせめてもの気配りだ。しかし二人はそこには座らず、両側の壁と壁にへばりついて座っていた。

 中央の敷物は、まるで二人を隔てる大きな川のようだ。本来なら、二人でそこに座るか、今は夜だし朝まで長いので二人で休むか……。

(むっ、無理です!)

 伊万里は心の中でぶんぶんと首を振った。

「あのっ、篠平はどんなところでしょうか。谷の外に出るのは初めてなので、ちょっとわくわくします」

 伊万里はわざと大げさにはしゃいで見せた。そうでもしないと場が持たないからだ。壬が「そう?」と軽く首を傾げる。そして彼は、あらたまった口調で彼女に言った。

「それより、そこじゃ尻が痛いだろ。敷物の上に座れば?」

 伊万里が戸惑いながら首を振る。

「そんなダメです。壬が座っていないのに、私だけ座るなんて」

「じゃあ、俺が座ったら伊万里も座る?」

「え? や、そういう意味では……」

 焦る伊万里をよそに、壬がよっこらせと敷物の中央に体を移動させた。

「はい、伊万里も座れよ」

「で、では……」

 伊万里がおずおずと遠慮がちに敷物の隅にちょこんと座る。壬が不満げに口を尖らせた。

「そんな隅っこじゃなくて、ほらこっち」

 言って彼は自分のすぐ隣をぽんぽんと叩いた。伊万里はほんの少しだけ内側に寄った。

「おまえ、こっちに来る気ないだろ?」

「ちゃ、ちゃんと寄ったではないですか」

「もうちょっとこっち!」

 壬が膝をついて体を伸ばし伊万里を自分の元へと引き寄せた。体勢を崩した伊万里が壬の懐にころんと転がり込む。伊万里は慌てて座り直して壬に背を向けた。

「そんなに警戒するなって。何もしねえよ」

 言いながら壬が伊万里の背中にもたれかかる。そして彼は、腰からお腹にかけてするりと両腕を回した。

(なっ、何もしないって、これで──?!)

 伊万里が思わず身を固くする。するとそんな彼女の肩に、壬はあごをずしっと乗せた。

「篠平では余計なことは何もしないよう言われてある。これは、ガキのお遣いみたいなもんだ」

 壬がさらりとした口調で呟いた。

(あ、真面目な話だ)

 伊万里の体の緊張が少しだけ解ける。

 出発の前、壬は護に呼ばれ何か話をしていた。きっとその時に護から言われたのだろう。彼女は頬に触れそうなほどすぐ側にある壬の顔を意識しながら、前を向いたまま彼に尋ねた。

「……しかし、それでは篠平は怒ってしまうのでは」

「怒らせたいんだろ。で、あっちがどう出るか──…」

 壬がため息混じりに答えた。

「父さんが欲しいのは大義名分だ。谷が正々堂々と篠平の跡目争いに介入するっていう……。あんなジロ兄づてのお願いじゃダメってことだ」

 伊万里が少し考え込む。ややして、彼女がしっかりとした口調で言った。

「では、私たちは篠平に嫌味を言うために行くのですね」

「そうなるかな。ごめん、場合によっては危険だから本当は連れて行きたくなかった」

 申し訳なさそうに壬が言った。伊万里は彼の両腕に手を置いた。

「いいえ。これも本家の嫁の務めだと思っています」

 彼女は落ち着いた声で壬に答えた。正直、怖くなどなかった。

 それどころか、今こうして二人で知らない土地へ向かい始め、少なからず心躍る不謹慎な自分がいる。

(私は悪い子)

 伊万里は思った。

 護に篠平行きを命じられた時、これは「本家の嫁として務めを果たせ」という意味だと彼女は感じた。

 篠平で相応の立ち振舞いをし、壬を助けることはもちろん、彼に全てを差し出すこと。そう、自分が待つほむらの鞘も含めて。「一緒に行け」とは、きっとそういう意味なのだと。

 しかし、

(私には鞘を差し出す気持ちがない)

 それだけは絶対に嫌だ。そんなことをするくらいなら、一生これを体に抱えて生きていく。それが、壬と結ばれず、一人で生きていくことを意味することだとしても。

 篠平行きを言われてから出発までの間、いろいろ悩んで伊万里が出した結論だった。だから、護やあさ美には申し訳ないが、これは正真正銘ただの二人旅行なのだ。

 しかし、そう決めてしまうと彼女の気持ちはとても軽くなった。この時ばかりの仮初めとは言え、壬の伴侶として彼の傍らに立つことが出来る。嘘でもなんでも彼との甘い思い出を作ることが出来る。

 今も背中に壬の体温をこれでもかというほど感じ、伊万里の心は溶けてしまいそうだった。 

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