最終話(上) 篠平の若狐と仮初めの花嫁

プロローグ 父親の申しつけ

 篠平に出発する夜、いつもの見回りを終えて山から帰ってくると、壬は護に呼ばれた。

 なんとなく用件は察しがついた。今回の篠平行きは、大人の思惑が大いに絡んでいる。自分が行かされるのも、その思惑の一つだと壬は十分に理解していた。

 護の書斎に着き、「来たよ」と声をかける。中から「壬か。入れ」と、護の声が返ってきた。

 壬が襖を開けて中に入ると、護は脇息きょうそくにもたれかり、ちょうど詰将棋つめしょうぎをしているところだった。足付きの貫禄のある将棋盤を睨みつつ、手の中で駒をころころと遊ばせている。

「まあ座れ」

 護がもう片方の手で目の前の畳を指差す。壬は神妙な顔つきでそこに胡坐あぐらを組んで座った。

「準備はもう済んだか?」

「うん。それで、話って何?」

「まあ、そう構えるな」

 腹を探るような息子の目つきに護は苦笑した。

「大したことじゃない。篠平に行くにあたって、一つ二つ伝えたいことがあってな」

「……篠平にはカツオを食べに行ってくればいいんだろ? 心配しなくても俺は父さんのからな、余計なことをするつもりも言うつもりもない」

 壬がきっぱりとした口調で答える。護が口の端に満足げな笑みを見せながら、盤上にパチッと銀将の駒を指した。

「悪いな、損な役回りで」

「まさか」

 壬が肩をすくめた。そして彼は少し含みのある目を護に向けた。

「本当に損な役は俺じゃないだろ。圭に、あんまり重いものを背負わせるなよ」

「……背負えるように儂も母さんも、それから先生も、皆そのように圭を扱ってきたつもりだ」

「それが重いって言ってんだよ」

 イラッとした口調で壬が言い返した。

 小さい頃から圭は何でも出来た。昨日まで自分と同じように出来ないことも、「はい、今日から出来るようになりましょう」と言われたら、あっという間に出来るようになる。それが圭だ。

 当然、圭の方が褒められることも多かった。「圭はやっぱり違う」が、いつでも大人たちの誉め言葉だ。

 今になって、あの言葉はある種の呪いだと壬は思う。

 何と比べて違うのか、どう違うのか、何がやっぱりなのか。誰もそこを明言はしない。しかし、明言を避けながらそれでも大人たちは繰り返し自分たちに言い聞かせていた気がする。

 自分も当然のように、圭が谷を継ぐものだと思っていた。圭は自分とは違う、自分より出来て当たり前、そこに何の疑問も持たなかった。

 おそらく圭もそうだろう。「やっぱり違う」ということを暗に求められ、そうなるように必死で頑張っていたのではないか。誰よりも努力家なのは、近くにいる自分が一番知っている。

 だから、自分が妖刀・ほむらを引き継ぐことになった時も、「なんで俺?」と、疑問しか湧いてこなかった。これは圭の役回りなはずだと。

 しかしその疑問も、護から篠平行きを命じられたことで、すとんと腹に落ちた。

 焔を自分が引き継いだのは、きっと圭を助けるため。自分は圭を守る駒で、そのために焔は必要な力なのだと。同時に、結局一番重たいものを背負わされるのは圭だと分かり、壬はひどく心が苦しくなった。

「俺が動くことで圭が少しでも楽になるのなら、篠平にカツオでもなんでも食いに行く」

「そうか」

 口の端に笑みを浮かべて護が頷いた。

「なら、あとは自分の目で見て感じた通りにやってこい」

 護が玉方ぎょくかたの金将で攻方せめかたの銀将を取る。そして彼はふいに顔を上げると、あらたまった様子で盤上に両肘をついて身を乗り出した。

「ところで、」

「?」

 何だろう? と壬が耳を傾けると、護がくぐもった声で言った。

「イマちゃんのことなんだがな……」

「伊万里がなんだよ? 心配なら、俺だけ行かせればいいじゃんか。伊万里は置いていくよ」

 正直、伊万里を連れて行くことは反対だった。篠平の跡目争いがどこまでこじれているのか分からない以上、身の危険だって考えられる。

 しかし父親の口から出てきた言葉は、全く予想外のものだった。

「おまえ、イマちゃんのことどう思っている?」

「は?」

 思わず壬が言葉に詰まると、護が少しむっとした顔をした。

「だから、イマちゃんと一緒になるつもりがあるのかどうか」

「なっ、何を唐突に?!」

 壬は顔を真っ赤にしながら裏返った声で護に言い返した。

「今、そんなこと関係ないだろがっ」

「そんなことあるか。ほら、なんと言っても二人旅行だし」

「へ? ふ、ふた、二人──…」

 今回の篠平行きをそういう視点で全く見ていなかった。

 二人旅行って、二人旅行って──。

「うん、二人で旅行。部屋で枕投げでもするつもりだったのか。というか、何するか、分かる?」

「平然と高校生の息子相手に何の話だっ、ああ?!」

 さらに顔を真っ赤にし、壬が腰を浮かせて護に喰ってかかった。すると、今までふざけ半分だった護が、一転してひどく真面目な顔になり、静かな口調で壬に言った。

「姫が持つ焔の鞘をどうにかしてこい」

 刹那、壬の真っ赤な顔がすっと真顔に戻る。彼は浮いた腰をすとんと元に戻して座り直した。

「鞘をどうにかって──」

「鞘は姫の体から取り出さないといけない。それぐらいは分かっているな」

「分かって……いる、けど」

 しかし、伊万里は焔の存在をいまだに認めていない。だから、彼女の体の中にあるという焔の鞘は、当然ながらそのままで、それを彼女は自分に渡すつもりもない。

 鞘のことは、二人の間で触れちゃいけない話題だ。

「別に今しなくてもいいじゃんか」

「いや、今だからこそだ」

 護が再び手の中の駒をころころと遊ばせ、今度は飛車をぎょくのすぐ側に指した。

「谷を離れ、見知らぬ土地に行けば、少し気分も変わるだろう。おまえに鞘さえ渡せば自由になれると、そう話してやれ」

「自由?」

「体の中に鞘があるから九尾の嫁というしがらみがまとわりついてくる。それさえなければ、ただの姫だ。縛られず、どこへ行ってもいいし、誰を好きになってもいい」

「ちょ、ちょっと待って」

 壬が片手を上げて護の言葉を止めた。

 話がどんどん思いもよらない方向へ行っている。

 父親はいったい何を言っているのだろう? どこへ行ってもいいって、誰を好きになってもいいって、伊万里は伏宮の、俺の──。

 にわかに動揺する壬に対し、護が落ち着いた口調で言葉を続けた。

「姫はそうなることが幸せと教えられこの谷へ来た。しかし、もっと自由な選択があることも教えてやりたい。鞘さえ渡してもらえれば、焔のことはおまえで完結するし、九尾の盟約の話など、こちらの一存でどうとでもなる。違うか?」

「……違うくない。でもっ、」

 壬は必死に言い返した。

「婚儀の礼までやって、お披露目したのに? 谷にもやっと馴染んで、学校にだって行き始めて──、」

 いや、違う。どれも伊万里を自由に出来ない本当の理由じゃない。

 上辺だけの言い訳を挙げつらねている自分に気づき、壬はぐっと唇を噛み締めた。そして彼は戸惑い気味に目を伏せ、ひと呼吸置いてから、ぽつりと言った。

「……俺が、伊万里を手放したくないって言ったら?」

 護がいつもの穏やかな目を息子に向けた。

「姫のことが好きか?」

「……」

 壬がおろおろと視線をあちこちに泳がす。ややして、彼はほんのわずか、分かるか分からない程度に小さく頷いた。そして彼は、囁くような、しかしはっきりとした声で答えた。

「伊万里と──、一緒になりたい」

「だったら、そりゃ、おまえ、全力で口説くしかないな」

 護が少しからかうような口調で言いながら笑った。

「その昔、儂が母さんにそうしたように」

「……なんだよ、それ」

「ま、頑張れ。どうなるにしろ、イマちゃんを鞘の呪縛から解放してやれ」

 そう言って、護はぎょくで飛車を取り、「これで、詰み」と最後にぎょくの頭に金将を指した。

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