ないものねだり(3)

 その日の夕方、伊万里は千尋の家を訪ねた。玄関で呼び鈴を鳴らすと、すぐに母親の千里が出てきた。

「イマちゃん、ごめんなさいね。今日は部屋に閉じこもって出てこないのよ。さあ、上がって」

「お邪魔します」

 言って伊万里は家に上がると、そのまま二階の千尋の部屋に行った。

「千尋、私です。入っていいですか?」

「……どうぞ」

 蚊の鳴くような声が返ってきて、伊万里はドアを開けて部屋に入った。すると、部屋の隅で千尋が膝を抱え、そこに顔をうずめて座っていた。


 いつもは爽やかなライトブルーのカーテンも、今日はどんよりした鬱陶うっとうしい青色に見える。

「あの、きよ屋の栗ようかんは──…」

「いらない」

「ですよね……」

 甘味でどうにかなる落ち込みっぷりじゃない。伊万里は、きよ屋の紙袋をテーブルに置くと、千尋の隣に並んで座った。

「木戸さんから聞きました。圭と喧嘩をしたみたいですね」

「私、ひどいことを言っちゃった……」

 千尋が顔を埋めたまま呟いた。

「圭ちゃんをすごく傷つけた」

「では、謝りましょう? 許してくれます」

 すると千尋が小さく首を振った。

「もういい。圭ちゃん、私のことなんて好きでもなんでもなくなったんだから、いっそ嫌われていた方がすっきりする」

「またそんな、なぜそのように投げやりに?」

「……」

 伊万里が尋ねると、千尋は黙り込んだ。しばらくして、彼女は躊躇ためらいがちに口を開いた。

「キス……してくれなかった」

「え?」

「おねだりしても、おでこにチューしかしてくれなかった! あんなの、『さよなら』って言っているようなもんじゃない!!」

「ほ、本当に実行したのですか?!」

 伊万里の声が裏返る。千尋が顔を上げてきっと睨んだ。

「やれって言ったの、イマじゃない!」

「それはそうですが、昼日中ひるひなかの学校でなんて、どれだけ大胆なんですかっ」

「だって、圭ちゃんの気持ちを知りたかったから──」

「あ、ああ、なるほど……」

 驚きのあまり、もう頷くしかない。

 そして、さらに落ち込む千尋に伊万里はおろおろと声をかけた。

「あの、でも、必ずしも額にチューが、『さよなら』という意味ではないと思うのですが」

「デコチューされたことないくせに、なんで分かるのよ」

「わっ、私だって、額にチューぐらい──」

「あるの?」

「へ? あ、いや──、あるような、ないような?」

 いきなり突っ込まれ、伊万里は慌てて誤魔化した。そして、「そんなことより!」とあらたまった口調で言った。

「何があったのです? 昨日、圭もひどく落ち込んだ様子で帰ってきました」

「別に、これと言って何もない。こっちはモモちゃんに振り回されている圭ちゃんを見て腹が立って、向こうは木戸くんと話している私が気に入らなかっただけ」

 千尋が答えた。そして彼女は、最後にぽつりと付け加えた。

「ただ、人間と比べるなって言われちゃった」

「人間と、ですか?」

「私、そんなつもりじゃなくて。何かにつけて、『千尋は俺たちあやかしとは違う』って圭ちゃんが言うから、思わず木戸くんはそんなこと言わないって言っちゃって──」

「あー……」

 伊万里が苦笑した。

「それは、きっとヤキモチです。ただ、圭の気持ちも少し分かります」

「なに?」

 千尋が少しむすっとした顔で伊万里を見る。伊万里が優しく笑いながら答えた。

「私は鬼なので、自分が狐でないことに時どき引け目を感じます。壬も圭も、義父とうさまも義母かあさまも、誰もそんなこと気にしていません。でも、どうして自分は鬼なのかと、谷には狐がいっぱいいるのに、どうして自分はその一人に生まれなかったのかと、そう思うんです」

 これだけ人間がはびこっている世界。あやかしであっても人間を意識せずに生きるなんて不可能だ。想い人が人間ならなおのこと。

「この人間の世界で、自分があやかしであることは、不利になっても有利になることはないと、圭はきっとそう思っているのだと思います」

「……今さらそんなことで悩まないで」

「今だから悩んだのだと思いますよ」

 千尋が再び膝の中に顔をうずめた。そして、誰に対して言うともなく、「ごめん」と呟いた。

 伊万里が千尋の肩を優しく抱いた。

「さあ、栗ようかんを食べましょう。それから、圭と仲直りする方法を一緒に考えましょう?」

 すると、千尋が気まずそうにぼそっと言った。

「イマ、誰にも言っていないことが一つあって、」

「なんです?」

「薄黒い……汚れ」

 千尋が俯き、下唇を噛む。伊万里の表情が少しだけ険しくなった。

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