ないものねだり(2)

 大橋モモは、自宅のホールにあるえんじ色の豪華なソファーに寝そべっていた。ひじ掛けに足を放り上げ、およそお嬢さまとは思えない行儀の悪さ。このソファーはどこの舶来品だっただろうか。かび臭いソファーなど、クソくらえだ。

 今日は学校に行く気になれず、最初からラフな私服に着替えた。お手伝いさんには両親に報告しないよう頼み倒して帰ってもらった。向こうも有給休暇をもらえたようなもなので、悪い話ではないはずだ。

 おかげで今日は、この広い家に一人きりだ。


「私、木戸くんに嫌われてないよね」

 彼女は一人呟いて爪を噛む。

 すると、もう一人の声が囁いた。

(大丈夫。それより、あの橘千尋と伏宮圭の怒った顔と言ったら!)

「そうね、うんうん」

 あのあと、モモは二人の後を追って少し離れた物陰からこっそり様子を見ていた。二人の言葉は聞き取れなかったが、大喧嘩になっていることは手に取るように分かった。

(モモの大切な木戸くんに近づいた罰だよ。モモは悪くない)

「そうね、そうだね」

 モモは何度も頷いた。


 小さい頃から両親の期待を一身に背負って生きてきた。その期待に応えようと、わがままも言わず頑張った。友達はうわべだけ、彼女たちは、モモが成績がいいのもピアノが出来るのもすべてお金持ちだからだと思っている。自分がいないとき、散々な言われようをされていることもモモは知っていた。

 そんな笑えない毎日に、さらに笑えないことが起こった。母親に「つまらなそうな顔ばかりして──!」とぼやかれた。

 そうか、笑わないことさえ許されないのか。それからモモは、これでもかと笑うようになった。


 誰も本当の私を見てはくれない。私はいないのと同じだ。


 木戸と出会ったのは、そんな息苦しい毎日に窒息してしまいそうになっていたとき。

「大橋って、頑張り屋さんだよね。でも、息がつまらない?」

 ある日、人知れず塾の課題を学校で残ってこなしているところへ、たまたま彼から声をかけられた。

 それまで、同じクラスだということも知らなかった。いわゆる「地味男じみお」、当然ながら女子の注目を集めるような存在でもない。

 しかしモモにとっては、初めて自分を見つけてくれた人だった。


 木戸は、とてもよく人だった。彼は表面的な見た目だけで決して物事を判断しない。そんな彼に「頑張り屋」と言われたことは、モモにとって何よりも嬉しいことだった。

 そして、さらに嬉しいことは、彼の魅力に誰も気づいていないということ。

 モモは、見る目のないクラスメイトたちに密かに感謝した。


 高校も木戸と同じ一ノ瀬高校にした。両親は街の進学校を希望していたが、塾での成績を絶対に落とさないことを条件に、生まれて初めてのわがままを押し通した。

 木戸は高校でもさえない地味男。誰も彼には気づかない。モモは内心ほっとした。


 そんな中、木戸と対照的な存在が一ノ瀬高校にいた。伏宮兄弟と言われる派手な双子の二年生だ。彼らの存在を中学時代から知っている子もいて、クラスでも何かと話題に上がる二人だった。

 あんな見た目だけの奴らのどこがいいのだろう?

 モモはまったく興味がなかったが、友達と話しを合わせるためだけに自分もファンのような顔をしていた。


 橘千尋についても、知るのにそう時間はかからなかった。彼女はあの有名な伏宮兄弟の幼馴染みで、隣の弓道部の二年生だ。

 あの兄弟の隣にいるぐらいだから、きっとどこにでもいるイケメン好きの女子に違いない。モモはそう思っていた。

 しかし、しばらくしてそうではないことに気がついた。

 千尋は明るく元気、誰にも分け隔てなく接する優しい女子だった。見た目で人を判断することもない。どこか木戸と似ていると、彼女は思った。

 そして、そんな千尋はいつだってきれいな空気に包まれている。いわゆる雰囲気美人ってやつだ。

 本当にきれいな人って、こういう人のことを言うのだろう。

(私もこんな女の子になれたら、木戸くんの隣にぴったりなのに)

 モモは、密かに千尋に憧れていた。

 しかし、作り笑いしかできない自分が彼女のようになるなんて到底無理な話だ。

 同時に、木戸と千尋が知り合ったら、きっと自分はかなわないとモモは心配にもなった。


 幸い、部活が隣同士とはいえ二人に接点はなく、知り合う機会もなかった。

 それに、何より千尋には双子の兄、圭がいた。もっとはっきりと言うなら、圭が千尋を誰にも触らせようとしていなかった。

 見た目だけの人かと思ったら、意外と見る目はある。

(まるで、私と同じ。自分だけを見て欲しいと必死に相手に求めてる)

 モモは、まったく興味のなかった伏宮圭に初めて親近感がわいた。

 しかし、そんな千尋に対する憧れも、圭に対する親近感も、文化祭までだった。


 二学期の初日、月野伊万里が木戸を助けたことがきっかけで、木戸は壬と伊万里と顔見知りになった。そこまでは良かったが、文化祭のお化け屋敷でトラブルに巻き込まれことで、なぜか圭や千尋とも突然仲良くなっていた。

 さらになんの偶然か、文化祭が終わった日、モモは誰もいない家で不思議な女の子の声を聞いた。気味が悪くて、次の日、木戸にすぐに相談した。すると数日後、木戸はよりにもよって千尋に相談したと言い出した。


 そして、その日を境に、もう一人の声が聞こえ始めた。

(橘千尋って、邪魔だよね。向こうも木戸くんをモモから奪おうとしているんだから、こっちもあの女の大切なものを奪っちゃえばいい)

 声がモモにささやいた。心の奥底に絡みつくようなその声は、自分のモヤモヤとした気持ちにぴったり寄り添い、わりと心地が良かった。


 そのあとは、ちょっと二人の邪魔をしただけ。圭と千尋はあんなに仲が良いのに、お互いにどこか遠慮している。

 ちょっと笑顔を見せただけ、ちょっと馴れ馴れしくしてみせただけ、そして耳元で心に絡まる言葉を囁いただけ。たったそれだけで、二人が疑心暗鬼になっていくのが手に取るように分かった。昨日の二人の喧嘩は、まるで安っぽいドラマでも見ているようだった。


 ふと、ホールの中央の壁にかかる絵が目に入る。おかっぱの女の子がこちらをじっと見つめていた。昔、一人で寂しかったとき、よく絵の中の女の子に向かってお喋りをした。彼女はじっと聞き続けてくれた。「忙しいから後にして」なんて言われることもなかった。この絵が大好きだった。

 しかし、

「大嫌い」

 モモは吐き捨てた。

 絵の前で両親は金儲けの話しかしない。誰も私を見てくれない。

 唯一、自分を見つけてくれた木戸でさえ、違う女を見はじめた。

 息ができない。胸が詰まる。誰か助けて。私はここにいる。

「嫌い、嫌い。全部、壊れてしまえばいい」

 モモが両手で顔を覆う。傍らにあるゴミ箱には、文化祭で千尋からもらった手作りの御守り。

(そうだね、モモ。嫌なものは、きっちり壊してしまおうね)

 その首に、黒い蛇が巻き付いていた。


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