6)こんな間違い、気の迷い
こんな間違い、気の迷い(1)
一方、伊万里は台所に着くと、開口一番あさ美に言った。
「あの、義母さま。壬も疲れていると思うので、何か飲み物を持っていこうと思うのですが。壬は自分の部屋に戻ったのでしょうか」
嫁として手伝いをしないといけないと思ったが、それ以上に姿を消した壬のことが気になった。あさ美が苦笑いをする。
「悪いわね、あれこれ気を遣わせて」
「いえ、そういうつもりでは。ただ、」
「ただ?」
「私がみなさんの生活をかき乱しているのは確かなので」
「んー、まあ、それはそれ。イマちゃんのせいじゃないもの。なるようにしかならないし、なるようになるもんよ」
あさ美が伊万里に優しく笑いかけた。そして、グラスに氷とお茶を入れた。
「じゃあ悪いけど、このお茶、壬に持っていってくれる?」
「はい」
元気よく伊万里が頷いた。
壬は誰もいない大広間で一人ごろんと大の字なって寝転んでいた。ここは普段の生活空間から少し離れた場所にあるので、一人になりたいときはいつもここだ。
夕暮れ時の涼しい風が頬に心地いい。壬は、ぼんやりと昔のことを思い出していた。
圭は昔からなんでも良くできた。走るのも、木登りも、剣術も、学校の勉強も、壬はいつだって圭にはほんの少し
先日から習い始めた狐火にしても圭の方が要領が良かった。責任感も強く、人当たりも良く、誰もが伏宮の跡取りは圭だと思っている。千尋も圭のことが好きだし、今日は狛犬も手なずけた。
それでも壬は別によかった。圭が伏宮の跡取りであることは当然のことだし、自分より出来て当たり前、いや、そもそも自分と比べたことなんてなかった。
そんな自分が、初めて圭に嫉妬した。
壬には双子の兄が全てのものを手に入れているように思え、そんなことを考える自分がひどく惨めに思えた。
「壬、こんなところにいたんですね」
カランという氷の涼しげな音に壬がはっと体を起こすと、グラスに入ったお茶をお盆にのせ白いワンピース姿の伊万里が廊下に立っていた。
「お茶をお持ちしました」
壬がふいっと顔をそらす。伊万里は彼の傍らにお茶を置き、自分もその場に座った。
背筋を伸ばして正座をし、両手をきちんと膝の上で重ねる姿がいかにも伊万里らしい。
伊万里が気遣うように言った。
「圭が軽い怪我をしましたが、千尋も無事でしたし、何より狛犬を手に入れました。『終わりよければ』だと思います」
「そんな気休め、別にいい。圭のところに行けば」
壬がぼそりと言い返す。
「圭には千尋が付いています。私がいてはお邪魔かと」
「おまえはうちの嫁なんだから、いいんじゃない? 伏宮を継ぐのは圭だし、俺なんかにかまったところで何の得にもならないぜ」
我ながら嫌な言い方だと思った。
案の定、伊万里がふうっとため息を吐いた。
「……なんとまた器の小さきものの言いよう。それは癖ですか?」
「癖じゃないしっ。悪かったな小さくてっ。ほっといてくれよ」
「ほっときません」
「なんっ──」
「私におにぎりをくれたではないですか」
伊万里が言った。そして彼女はずいっと壬に詰め寄った。
「
「伊万里……」
「私は、この伏見谷に壬がいてくれて良かったです。だから、そんなこと言わないでください」
そう言うと、伊万里は優しく笑った。
壬の胸がどくんっと鳴った。
今日の自分はどうかしている。独りよがりでわがままな感情が体の中を一人歩きして、腹の奥がずっとざわざわしっぱなしだ。
壬はふいに彼女の手を握った。
「だったら伊万里、俺をなぐさめてくれんの?」
そう言いながら壬は伊万里の指先に自身の唇を重ねた。
「あ、あのっ?!」
驚いた顔でびくりと手を震わせて、伊万里がとっさに手を引き抜こうとする。しかし、壬はさらに彼女の手を強く握った。
「まだ、ダメ」
壬がぐいっと伊万里を引き寄せた。バランスを崩した伊万里が、壬の胸の中になだれ込んだ。
「ちょっ、──!」
伊万里が思わず顔を上げたところへ、壬が首を傾け静かに顔を近づけてくる。伊万里は頭が真っ白になった。
「壬?!」
唇と唇が触れそうになったその時、壬がはっと我に返り、伊万里を押し戻した。そして彼は信じられないと片手で口元を覆った。
「ご、ごめん。頭冷やしてくる───!」
言って壬は慌てて立ち上がった。そして彼はそのまま顔を背けて、足早に大広間から出て行ってしまった。
「……」
一人取り残され、伊万里は呆然としながら唇を両手で押さえた。
(今、何をされそうになった??)
まっすぐに見つめる壬の顔が蘇ってくる。顔がかあっと熱くなり、火が噴くのではないかと思うほどだった。胸がどきんどきんと高鳴り、息をするのも苦しい。
何がなんだか訳が分からない。
確かに壬をなぐさめるつもりで来た。
(でも、あんな意味じゃない)
何か気に障ることをしてしまっただろうか。
自分をふいに引き寄せた壬は、怒っているようにも見えた。
その時、庭の方から「コホン」と小さい咳払いが聞こえた。伊万里がビクッとして見ると、そこに猿師が立っていた。
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