こんな間違い、気の迷い(2)

百日紅さるすべり先生、いつからそこに?」

 伊万里は顔をまっ赤にしながら取り乱した様子を必死で隠しつつ言った。

 猿師がにこりと笑う。

「今しがた。何も見てはおりませぬゆえ、ご安心を」

「……見ていたんですね」

 伊万里は穴があったら入りたい気分になった。

 しかし、彼女は心の中にくすぶる疑問を思い出し、咳払いを一つして冷静な表情に戻った。

「ちょうど良いところに。実は、先生に聞きたいことが、」

「どうされました?」

「なぜ壬と圭には封印が施されているのです?」

「やはりお気づきになりましたか」

 猿師が特段に動揺した様子も見せず答えた。伊万里が小さく頷く。

「二人とも出来ることと出来ないことがあまりにチグハグで──。これは先生の仕業しわざですか?」

「まさか。これも九尾の知恵にございます」

「知恵……。力を封じることがですか?」

「姫、ここは人の国なんです」

 猿師が言った。

「力のなんたるかも知らず、ぎょし方も分からない子どもを野放しで育てられるほど霊力に寛大な世界ではないのです。身の丈に合わない力は相手も自分も傷つけてしまう」

「でも、二人は谷を継ぐ者ではないですか」

「そのとおり。なので、単に力を押さえ込むような封印ではありません。封印は力を使い、ぎょし方を覚え、その成長に応じて自然と解けるようになっています。必要がなければそのままに。必要があれば、その必要に応じて。護やあさ美が良い例です。いや、伏見谷の妖狐全てが、その封印に守られていると言ってもいい」

「あの、先生……」

「なにか?」

「先生は私が嫁ぐべき御方、二代目さまをご存じなのでしょうか?」

「どうしてそのようなことをお聞きになる?」

「いえ、なんとなく。ご存じなのかと……」

 猿師はただ黙って笑い返した。

 しかし、彼はすぐ真顔になると、周囲をチラチラと確認し、ずいっと伊万里へと歩み寄った。

「それより姫、お伝えしたいことがあります」

 猿師が押し殺した声で言った。

九洞方くどぼうがおそらく谷に来ております」

洞方どぼう……!」

 伊万里の顔が一気に厳しくなった。



 

 その日の伏宮家の夕飯は、いまだかつてないほど重苦しい空気に包まれていた。いつも笑顔で食事をする伊万里がにこりともせず、押し黙ったまま食べようともしない。

「……」

 護やあさ美、圭に千尋、誰もが伊万里のただならぬ様子に箸を持つ手が止まっていた。

 当の伊万里はというと、「九洞方くどぼう」という名前が喉の奥にひっかかり、食べ物も通らない状態だった。

 九洞方──、かつて伊万里の寝込みを襲った男であり、文に呪詛をかけてきた男でもある。自尊心が高く、野心家で、執念深い男だった。数年前、傍若無人ぼうじゃくぶじんな振る舞いが鬼伯きはくの怒りに触れ、里から追放されたと風の噂で聞いた。奴がこの谷に来ているというのであれば、先日の百目ムカデの呪詛も納得がいく。彼は呪詛を得意としていたからだ。


義父とうさまや義母かあさまには内密にと先生にお願いしたけれど……)


 こんなことが知れたら、二人はなんて厄介な嫁だと思うだろう。これほど良くしてもらっているのに、自分がすることと言えば迷惑をかけることだけだ。

 少しでも役に立てばと水のたまり石を探しに行けば、圭が狛犬に襲われ怪我をする始末。

 落ち込んでいる壬を励まそうと思ったら、いきなりあんなことになる。

(あんなこと……)

 はたと、伊万里は壬に思いがけず迫られたことを思い出し、思わず両手で顔を覆った。

 思い出すたびに胸がドキドキして息苦しい。


「おい、母さん、今度はまっ青からまっ赤になったぞ。イマちゃん大丈夫か?」

「え、ええ」

 座卓の向かいに座る護とあさ美が小声で言い合っている。

 こんな時、壬がいれば「なにやってんだ」と突っ込みの一つでも入れてくれそうだが、その肝心な壬も部屋から出てこない。

 一緒に食卓を囲んでいる千尋と圭も

(何かあったのかしら?)

(何かあったな)

 と思ったが、今それを口に出すことはこの場所に爆弾を投下するような気がして、ひたすら黙っていた。

 しかし、しばらくして意を決したあさ美が、やんわりと伊万里に声をかけた。

「イマちゃん、」

 伊万里が弾かれたように顔を上げた。

「はっ、はい。なんでしょう?」

「ええと、そうだ。壬は落ち込んでなかった?」

「え?」

「お茶を持って行ってくれたでしょ?」

 伊万里が「ああ」と頷きながら目をあちこちに泳がせた。

「すごく元気でした!」

 棒読みな言い方が適当感満載だ。あさ美はくじけそうになりながらも伊万里にさらに尋ねた。

「そう。じゃあ、どうしたのかしら? 二階から降りてこないし」

「いや、えっと、さあ……」

 なんと答えていいか分からず、伊万里は笑顔を引きつらせながら首をかしげた。

 まさか「頭を冷やしているのではなかろうか」なんて言えるわけもない。

 するとあさ美が言った。

「イマちゃん、悪いけどもう一度様子を見てきてもらえる?」

「私がですか? どどど、どうして私が──」

 伊万里がぎょっとした顔をした。

「えぇ? いや、嫌ならいいのよ」

「いえ、嫌じゃない───! ちがうっ、嫌じゃないって言うのはそういう意味ではなくてっ。どういう意味かっていうとなんて言うか……」

「分かった、分かったから!」

 あさ美が慌てて伊万里をなだめる。

 伊万里が気まずい顔をしながら「すみません」とうつむいた。


 再び沈黙。


 しばらくして、伊万里がすくっと立ち上がった。

「皆さんすみません。私、部屋で少し休みます」

 そう言うと、伊万里は「ごめんなさい」と頭を下げて居間を出て行った。

 そして、伊万里の気配が完全に消えたとき、その場にいた全員が「ぷはー」と大きく息をついた。

「……疲れた」

 護がぐったりとうなだれる。その隣であさ美が圭を睨んだ。

「ちょっと、どういうこと?」

「し、知らないよ」

 圭が首をぶるぶると横に振る。

「だいたい夕方、いたって普通だったじゃん。俺、あれからずっと部屋で休んでいたし」

「そうなのよねえ。あの後、壬の様子も見に行ってくれたんだけど。喧嘩でもしたかしら? 壬は壬で部屋から出てこないし」

「さあ?」

 圭は首をひねった。とはいえ、何かあったのであろうことは容易に察しがついた。

「食べ終わったら、とりあえず壬の様子を見てくるよ」

 圭は気を取り直し、大盛りのごはんを口に放り込んだ。

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