母と娘(6)

 母親に抱かれ、伊万里の心の中にあったわだかまりが、ゆっくりと解けていく

 刹那、淡い光が二人を包み、目の前に光の川が現れた。清らかな水は自ら光り輝き、どこからか流れてきては、とうとうとどこかへ流れていく。

「これは……?」

「巫女の清水せいすいの導きじゃ。さすがの蠱毒もこれには手が出せぬ」

 そう答え、藤花が藤の実を懐から取り出して川に投げ入れた。藤の実が小さな舟に変化した。

「さあ伊万里、時間がない。これに乗れ」

 藤花に促され、伊万里は言われるままに舟に乗った。その拍子に舟がたゆんと揺れて、伊万里は慌てて座り込み、船べりを掴んだ。

「母上も乗ってください」

 しかし藤花はそれには答えず、伊万里に言って聞かせた。

「おまえは二代目九尾をお助けせねばならぬ」

「どういう……ことです?」

 伊万里が当惑気味に眉根を寄せ藤花を見返す。藤花が少し困った顔をした。

「瀕死の状態のうえ、怒りで我を忘れ、力が暴走し始めておる。お止めせねばならぬ」

「暴走──?!」

 驚く伊万里に、藤花が冷静な顔で頷き返した。

「そもそも、焔は九尾さまがその有り余る霊力の暴走を止めるために持っていたようなもの。二代目とて同じこと。ぎょせぬ力は、その身を滅ぼす。その鞘を二代目九尾に献上し、荒ぶる魂をお鎮め申し上げろ。さすれば、私たち親子の役目も終わる。あとは、自由じゃ。ただの姫として二代目に抱き締めてもらえ」

 最後は少し茶化すように藤花が言った。伊万里の口から思わず笑みがこぼれた。藤花はそんな娘を見ながら愛しそうに目を細めた。

「さあ、もう行かねば」

「では、早く母上もお乗りください」

 しかし彼女は笑いながら首を左右に振った。

「蠱毒をこのままにはしておけぬ」

「……母上?」

「幸い、この蠱毒は魂と思念の区別もついておらぬ。私を捕らえれば、その務めを果たして消え失せるであろう」

「そんな、では母上はどうなるのです?!」

「私は藤の実に残ったただの思念。泡沫うたかたの夢のようなもの。最初から、そなたの母はどこにもおらぬ」

 伊万里が舟べりに手をかけた。

「私も一緒に戦います。蔓を全て滅すれば良いのでしょう?」

「本来であれば。だが、時間がないと申しておる」

「でもっ」

「伊万里、」

 今にも舟から降りようとする伊万里を押しとどめ、藤花が近づき顔を寄せた。そして、伊万里の耳元で囁いた。伊万里が「え?」と怪訝な顔をする。

 藤花が伊万里の頬を撫で、にこりと笑った。

「私が一生をかけて愛した者の名じゃ」

 伊万里の目が大きく見開く。藤花は満足そうに笑いながら、彼女の肩をとんっと押した。ゆっくりと、伊万里を乗せた舟が清水せいすいの川を流れ出す。

「その代わり約束じゃ。今後、その名をどこで聞こうとも、決して父と呼んではならぬ」

「母上!!」

 伊万里は舟から身を乗り出した。

「いや、行かないでっ。一緒に来て! 母上!!」

「大好きな方をおもむくままに愛せ、伊万里」

 暗闇の中、藤花が艶やかに笑った。蔓が彼女に襲いかかる。泣き叫ぶ伊万里が最後に見たのは、黒い蔓と絡み合いながら美しく咲き誇る藤の花だった。



 ひたすら眠り続ける伊万里の手を、千尋はずっと握りしめていた。

 こんなことをしても無意味かもしれない。しかし、皆が言う「繭玉の気」というものが自分にあるのだとしたら、少しは効果があるかもしれない。

 千尋は伊万里に祈りを送り続けた。

 部屋の隅では、不安顔の信乃がそわそわと落ち着かない様子で座っている。屋敷の外から相変わらず不穏な気をひしひしと感じ、ふと部屋の外に千尋が目をやると、いつの間にか雲行きが怪しくなっていた。厚い雲が空を覆い、ひんやりとした風が吹き始める。

 拓真が立ち上がり顔をしかめて曇天どんてんを仰ぐ。

「嫌な空じゃ。雑蟲ぞうこでも降ってきそうだ」

「……空と大地と、そこに息づくものの気が完全にバランスを崩している。いかんな」

 同じように空を見上げ猿師が厳しい表情で呟いた。

 ぴりぴりとした空気が漂う。日の光が灰色の雲に阻まれ、昼間とは思えないほど薄暗い。

 そんな中、部屋の隅で静かに座っていた信乃が、そろりと腰を浮かせた。拓真がすかざず一瞥し、声をかける。

「信乃、どこへ行く?」

「いえ……。そろそろ大広間へ手伝いに行こうかと」

「そこで休んでいろと言っておるだろう」

 拓真が言った。しかし、「休め」という言葉とは裏腹に、なぜだかその目はひどく冷たい。彼女は戸惑いながら中腰のまま、ちらりと伊万里の様子を窺った。伊万里は状態がこれ以上悪化する様子もないが、相変わらず意識がないままだ。

 この膠着こうちゃく状態に苛立っているのか。それにしても、自分を見る拓真の目は、苛立ち以上のものを感じる。

 信乃はきちんと座り直すことも出来ず、中腰のまま目をあちこちに泳がせた。拓真が首をかしげて射抜くように信乃を見た。

「なんじゃ、落ち着かんの。伊万里が気になるのか?」

「いえ、そういう訳では──」

 その含みのある言い方に信乃はいよいよ目を泳がせた。額から汗が滲み出てくる。

 この別邸の若きあるじの視線は──、何かに似ている。そうだ、獲物を捕らえる時の獣の目だ。

 目を合わせていられず信乃は俯いた。額の汗が顔を伝い、ぽたりと手の甲に落ちた。そこへ拓真の冷ややかな言葉がりかかった。

「伊万里が助かると、何か困ることでもあるんか? のう、信乃?」

「──!」

 刹那、信乃はばっと立ち上がると、床を蹴って中庭に向かって飛び出した。


 拓真が身を翻して信乃に飛びかかり、彼女の足を捉えるとそのまま床に叩きつける。

「がっ──」

 そのまま拓真に組み敷かれ信乃がうめいた。拓真が鋭い視線で彼女を見下ろす。

「どこに行くんじゃ。おまえには、いろいろ聞きたいことがある」

「な、ぜ──?」

「なぜ? そりゃ、おまえがれられなかったからじゃ」

 拓真が口の端に皮肉げな笑みを浮かべた。

「亜子も儂も、とうの前に巫女にれておる。結界に弾かれたのはおまえだけ。つまり、巫女のこれは。性格悪いのう、あの九尾の片割れは」

 そして拓真は猿師を見た。

「猿師、こいつをどうする? 蟲使いの居場所を知っているかもしれん」

「必要ない」

 眼光鋭く猿師がすらりと腰に差した刀を抜いた。

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