母と娘(7)
ぎらりと光る猿師の刃を見て、信乃がぎょっと目を見張った。
「しっ、知っています! 教えます! 私は気持ちよく住む場所が欲しかっただけで……」
「伊万里に
「わ、私は、言われたことをやっただけ。何も知りません」
「知っとると言うたり、知らんと言うたり、ころころ変わる奴じゃの」
信乃が「ひっ」と叫び声を上げて、拓真から逃れようとじたばたと暴れた。刹那、猿師の切っ先が信乃の肩を貫いた。
「痛いっ、痛い!」
「都合が悪くなったら子供ぶるな」
泣き叫ぶ信乃に猿師が冷たく吐き捨てる。そして彼は、口早に何かを呟き、信乃の肩に刺さった刀を深く突き立てた。
信乃が唸るような呻き声を上げる。
その時、
「先生っ、イマが!!」
千尋が声を上げた。猿師と拓真がとっさに千尋と伊万里を返り見る。
突如、伊万里の体に巻き付いていた蔓がずるずると動き、蔓先が土色に変色した。そしてそれは、ボロボロと崩れ始めた。
一瞬、拓真たちの気が伊万里へと逸れる。
そのほんの一瞬を信乃は見逃さなかった。
彼女は渾身の力で拓真を払いのけると、突き刺さった刀をでたらめに体から引き抜いて、そのまま外へと飛び出した。
「あっ!」
慌てて拓真が追いかける。しかし、信乃は素早く垣根を乗り越え、あっという間に姿をくらましてしまった。
「いい、放っておけ」
猿師が拓真を止めた。そして、彼は柄を拳で叩いて血のりを払うと、静かに刃を鞘に納めた。
「奴には
そう言って猿師は伊万里の枕元に素早く駆け寄った。拓真がそれに続く。
猿師は伊万里の傍らにひざまずくと、明らかに勢いを失い土色に変色し始めた蔓を彼女の体から払いのけた。
「これは──、猿師」
「うむ、」
見ると、伊万里の蔓の根が腹部から浮き上がり、まさに分離しようとしている。死体のような
猿師が大きく頷いた。
「いけるな。分離する。拓真、伊万里の体を押さえてくれ」
「分かった!」
拓真が伊万里の体を両手で押さえる。猿師が片膝をついて蔓の根を掴むと一気に引き抜いた。
伊万里の小さな呻き声とともに枯れた蔓の根がずるっと体から剥がれる。拓真が小さく「よしっ」と叫んだ。
「伊万里っ、もう大丈夫じゃ。」
言って彼は、伊万里の頬を両手で包み込んだ。
ややして、両の
「伊万里!」
「拓真……?」
かすれた声で伊万里が呟く、拓真が眉根を寄せて彼女に何度も頷き返した。
「よう頑張った。死ぬかと思ったぞ!!」
「ここは──」
拓真の腕にしがみつき体を起こす。拓真がそんな彼女を抱きしめた。
「儂の部屋じゃ。もう大丈夫、なんの心配もせんでええ」
「……」
紫の瞳から自然と涙が溢れ出た。
喜びと悲しみ、安堵と
まだ、
しかし、頭上の角に彼の唇が触れた時、伊万里の意識は一気に覚めた。
(ダメ──)
そこに唇が触れていいのは一人だけ。
伊万里は拓真の体をそっと押し戻した。
「ありがとう、拓真がここまで運んでくれたのですね」
できるだけ自然に、彼女は拓真に微笑んだ。
きっと、彼は命がけで自分をここまで運んで来てくれたのだろう。
本気で自分を思う彼の気持ちが痛いほど伝わる。
(先に出会っていたなら何か変わっていただろうか)
ふと、そんな思いが頭をよぎる。
拓真のことは嫌いじゃない。こうして感じる体温も、実のところ不快じゃない。
(でも──)
そうだとしても、今はもう彼の気持ちには応えられない。
「もう大丈夫です。ありがとう」
拓真がはっとその手を緩めて彼女から離れ、複雑な顔で目を伏せる。伊万里に軽く線引きされたことを理解した顔だった。
しかし、彼はすぐさま笑い返すと、脇に追いやっていた掛け布団を伊万里に押し付けた。
「今のは役得じゃ。九尾には内緒にしておいてやる」
そう言われて初めて、自分の着ているワンピースが引き裂かれていることを知る。伊万里は慌てて掛け布団を肩までたくし上げた。拓真が可笑しそうに笑った。
すると、そんな拓真を押しのけて千尋が伊万里に抱きついた。
「イマッ」
「千尋、来てくれたんですね」
伊万里が嬉しそうに笑った。千尋が涙ぐみながら、涙で濡れる伊万里の頬を撫でた。
「痛いところない? もうっ、心配させないで!」
「巫女の導きで戻ってこれました。千尋のおかげです」
千尋が眉根を寄せて泣き笑いながら顔を左右に振った。
そして、千尋や拓真の背後、伊万里はゆっくりと猿師に目を向けた。
「先生──」
「姫、よく頑張りました」
猿師が伊万里のもとへ詰め寄り、目を細めて笑った。
次の瞬間、
「先生!!」
伊万里は猿師に抱きついた。猿師が驚いた様子で伊万里を受け止める。
「母上が──、母上が──!」
猿師の胸にしがみつき、伊万里は必死に口を動かした。伝えたいことが喉につかえて言葉にならない。すると、猿師が落ち着いた口調で伊万里に言った。
「姫、長い夢でも見ていましたか?」
「夢……?」
「意識を失くし、深く眠っていましたので」
猿師が穏やかに頷く。
伊万里は大きく息をついた。
そうだ。母親はもう亡くなっている。
だからあれは、
伊万里は藤花が最後に見せた満面の笑みを思い出した。
「……母上に会って来ました」
伊万里は涙を拭いながら笑った。猿師が黙って頷き返す。その表情から、自分の言葉を信じていないのが分かる。
でも、それでいい。これは、自分と母親との最初で最後の秘密の話。
伊万里は晴れやかな気持ちで猿師に言った。
「本当に、思っていた以上に、はちゃめちゃな方でした。恨み言など一つもなく、腹が立つくらい幸せそうで」
まるで実際に会って来たかのような伊万里の口ぶりに猿師が少し驚いた顔をした。そして、彼はほんのわずか、いつも気難しくへの字に結んでいるその口に穏やかな笑みを浮かべた。
「……自由奔放な方でしたから」
「先生の気苦労が想像できます」
当時を懐かしむように表情を和らげる猿師を見て伊万里は笑った。
それから彼女は、きゅっと顔を引き締めると、目の前にいる猿師たちの顔を順に見つめた。
「ご心配をおかけしました。今こそ、母から受け継ぎ、お預かりしていたものを二代目九尾さまに献上したいと思います」
もう迷わない。壬だけを見て、前に進む。
刹那、伊万里の腕の中、漆黒のような深い赤の鞘が現れた。彼女はそれを握りしめ、瞳に力強い光を纏わせた。
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