母と娘(3)
亜子たちが部屋から出て行くと、それと入れ違うように信乃がお盆におにぎりとお茶を乗せて現れた。
「失礼します」
細い両腕には包帯がぐるぐると巻かれ、頬も大きなガーゼが貼られていた。千尋がすぐさま立ち上がった。
「怪我をしているのに、ありがとう。あなたも
「はい……」
「怖かったね」
信乃がこくりと頷いた。そして、千尋がお盆を受け取るために彼女の手に触れた時、バチッと激しい音とともに信乃の手が弾かれた。
そのはずみで茶碗が倒れ、お茶がこぼれた。
「ああ、すみません!」
信乃が慌てて
「ああ、すまんな。圭が千尋に結界を結んでいる。そのせいだ」
「また、過保護だのう。誰にも
その様子を見て拓真が苦笑する。猿師は「そうだな」と返しながら、信乃からお盆を受け取った。
床を拭き終わったところで、信乃が頭を下げて部屋から退出しようとした。すると、拓真がふと「待て」と信乃に声をかけた。
「おまえも疲れただろう、信乃。ここで休め」
「でも、」
「いいから」
「はい……」
少し戸惑い気味に信乃がこくりと頷いた。
誰かの呼ぶ声が聞こえた。
伊万里は重たいまぶたを無理やりこじ開けた。目を開けたのに何も見えない。体も鉛のように重たく、すぐには動かない。彼女は、やっとのこと顔を左右に動かした。辺りは、静寂な暗闇に包まれていた。
虫の音も、風に吹かれて揺れる葉擦れの音も、何も聞こえない。ここはどこだと、伊万里は思った。
「早く、起きよ」
優しい柔らかな女性の声が聞こえた。なんだか分からないが起きないといけないらしい。体を起こそうとして、自分が蔓に巻き付かれていると知る。なるほど、どうりで体が重たいはずだ。
体に巻き付いた蔓はそう簡単に外れそうにない。伊万里は片手で鬼火を起こした。青白い炎が蔓を焼き切る。体が自由になったところで、伊万里は上半身を起こした。
そして、ふと自分が胸に大事に抱えているものを見て、伊万里はぎょっとした。
黒に近い、深い深い赤色の、それは鞘だった。
「これは……」
伊万里自身、初めて見る。焔の鞘だ。
同時に、ぼんやりとしていた記憶も戻ってきた。拓真と一緒に母親の手がかりを探しに
(そう。壬が来てくれた)
彼女は思い出した。
では、ここは?
刹那、その答えを出す間もなく、無数の蔓が地面から伸びてきて伊万里を襲う。
思わず飛び退き、再び鬼火で蔓を燃やす。しかし、蔓は何度燃やしても再び地面から伸びてくる。そうこうしているうちに、足を絡めとられて伊万里は転んだ。そこへ蔓が伊万里を捉えようと一気に襲いかかった。
その時、
自分のものではない青白い炎が蔓を焼き払った。
「さあ、立ちなされ」
驚く伊万里の耳に、再び柔らかい女性の声が聞こえた。彼女の傍らにぼうっと淡い光が浮かび上がる。なんだろうと目を凝らして見ていると、それは徐々に人の形を成していき、一人の女性が現れた。
しかし、人間の女性ではない。深紫の瞳に、頭には一本の角、彼女は伊万里と同じ鬼だった。
艶やかな長い黒髪を後ろで一つにゆったりと結び、鮮やかな藤色の小袖を着ている。
まさか──…。
伊万里の鼓動が早くなる。そんな馬鹿なと頭が否定するよりも強く、心がそうだと言っている。
伊万里は震える声を絞り出した。
「母上……ですか?」
女性はにっこり笑った。
「大きくなったものよ。伊万里」
伊万里は初めて会う母親を前に、言葉を失っていた。聞きたいことも言いたいこともいっぱいあったはずだ。しかし、実際に彼女と対峙して、何を聞き、何を言いたかったのか、全てが真っ白になった。そして、ようやく出てきた言葉は、一番どうでもいいものだった。
「ここは、どこです?」
藤花がふふっと吹き出した。
「ここは、そなたの意識の中。母に対する初めての言葉がそれか?」
「なぜ、ここにいるのです?」
「それは、藤の実に導かれて」
藤花が答える。伊万里は
こんなことがあるのだろうか。死んだ者が現れるなど、夢でも見ているようだ。いや、自分の意識の中なのだから、夢なのかもしれない。
そんな伊万里の戸惑いを感じ取ったのか、藤花が苦笑した。
「私は、藤の実に残った藤花の思念。まあ、夢だと思えば良い。とは言え、かような味も素っ気もない場所では、夢だとしても面白うないの」
伊万里は、ただただこくんと頷き返した。
なんというか、拍子抜けた。
もう少し娘に会えた喜びを口にするとか、必死で娘に詫びるとか、何かないのか。
目の前の女性は、なんの違和も感じていない風にこちらに話しかけてくる。
折しも、地面から再び蔓がざわざわと伸びてきて二人を襲った。
藤花が驚く様子も見せずに一瞥し、さっと鬼火で蔓を焼き払う。彼女は、やれやれとため息をついた。
「
「……これは?」
「
藤花が落ち着いた口調で答える。
「おまえは死にかけておる。蠱毒に侵され、その鞘ごと魂を無理やり蔓に奪われ、このままでは死ぬるぞ」
「蠱毒? そんなもの、どこで……?」
呪いの毒など、口にした覚えはない。にわかに出てきた「蠱毒」という言葉に、伊万里は眉をひそめた。藤花が「うーむ」と首を傾げる。
「これは古来種ではない。どこかの毒好きが作った新種じゃ。新種は古来種より造りがずさんだから、何かに紛れ込ませるのは難しい。大概、
「甘露──」
伊万里はすっと青ざめた。
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