混乱の里(2)
熊ほどの大きさが
「ちっ──!」
亜子が忌々しげに舌打ちをし、エイの背中を蹴り羽虫に向かって飛び出した。そのまま抜刀し、鋭く刀を水平に振るう。次の瞬間、羽虫は上下真っ二つになった。
亜子の着地点へ猿師がエイを泳がせ受け止める。そして彼は緊張した声で言った。
「みな、しっかりエイに乗っていろ。来るぞ」
目前の空間が歪み、無数の雑蟲がそこから湧き出てきた。猿師がすうっと目を細め、雑蟲の群れを鋭く睨んだ。
「このまま蹴散らし押し通る」
そう猿師が言い終わる前に、エイがぶるっとヒレを震わせ矢のごとく雑蟲の群れに突っ込んだ。
「きゃあっ」
千尋が小さい悲鳴を上げ、頭を抱えて圭の胸にうずくまる。
エイがヒレと尾で雑蟲たちを薙ぎ払い、雑蟲たちが地上へと落ちていく。そして、エイはそのまま滑るように旋回し北西に向かった。
「これは……、蟲使いがいる」
猿師が言った。圭が「蟲使い?」と聞き返すと、猿師は視線を前に向けたまま答えた。
「言葉通り、蟲を使役して戦う者のことだ。厄介だな、自身は表に出て来ない」
するとその時、亜子が突然声を上げた。
「猿師、あそこ! 川辺に人影が──、」
山裾のちょうど川が里に向かって流れ出ている辺りを亜子が指差した。圭と千、そして猿師がその方向を見た。その場に座り込む者と、傍らに横たわっている者がいる。
エイが一気に高度を下げる。そして、その横たわっているのが伊万里だと、圭と千尋にもはっきり分かった時、
「拓真!!」
亜子がエイの背中から待ちきれず飛び降りた。
あっという間に落下して、彼女はたんっと川辺に着地した。そして、彼女はそのまま拓真に駆け寄った。
「拓真! 良かった、無事か!!」
しかし、赤毛の少年は、亜子の姿を見るなりばっと刀の柄に手を置き、伊万里を片手で抱きかかえ身構えた。
「亜子、何しに来た……?」
「え?」
その殺気立った様子に思わず亜子は立ち止まった。
これよりほんの少し前。
伊万里を担いだ拓真は、ようやく山の裾野に辿り着いた。
夜が明けて、朝の陽の光が篠平の里と周辺の山を穏やかに照らしていた。悪夢のような夜は終わったが、終わったのは夜だけで悪夢はまだ続いていた。
拓真は自分がどこをどうやって下りてきたのかも記憶にないくらい意識が
自然に別邸へと足が向く。しかし、すぐに彼は立ち止った。里の空気がいつもと違う。昨夜からずっと感じる無機質な殺気、それが
同時にひどい喉の渇きを覚え、拓真はひとまず近くを流れる川辺に下りた。山から下ってきた川がちょうど里に流れ出るそこは、川岸も平らで水の流れも激しくない。
伊万里を傍らに静かに寝かせ、とりあず川に顔を突っ込んで水を飲む。ひとしきり飲むと、彼は腕で口をぐいっと拭った。それから両手で水をすくって、そっと伊万里の口元へ持っていった。しかし、水は彼女の口からぼたぼたとこぼれ落ちた。
「……」
もう一度、水をすくう。今度はそれを自身の口に含ませる。彼は一瞬
意識のない伊万里が口移しされた水を飲み込み、ごくりと喉を鳴らす。拓真はその様子にほっと息をついた。ここに来るまで、もう彼女の死体を運んでいるだけではないかと何度も思った。とりあえず生きている。それだけでほっとした。
喉が潤ったことで、拓真のぐだぐだだった気持ちに少し活力が沸いた。機能停止を起こしかけていた頭が、すっきりと明瞭になり回転し始める。途端に、頭にいろいろなことが思い浮かんだ。
瀕死の壬はまだ無事だろうか、里で何があったのか、亜門や信乃は、里の狐たちは。そもそも、敵は誰なのか。
(情報が無さすぎる……)
拓真は、式神のフクロウをもう一羽放した。里の様子を見るためだ。
とりあえず山は下りた。このまま伊万里をかかえて闇雲に動き回るのも得策とは思えない。
しばらくして、すぐにフクロウの目に映る里の様子が思念で届いた。
(別邸に避難させないと──)
別邸も完全ではないが、それでも家にいるよりましだ。
しかし、そこで突然思念が途切れた。式神が何かに
「くそっ!」
拓真は舌打ちをした。
出来れば別邸の様子も知りたかった。亜門がどうしているか、そもそも亜門に自分達の無事を知らせていいのか、それを知りたかった。
夜、亜子に飛ばした式神は、明け方に彼女に届いた。亜子が応じた。
しかし、それさえも正しい判断だったかどうか分からなくなり、拓真は亜子に飛ばした式神との通信を自ら断ち切った。
(次はどうする──…?)
昨夜からこっち、彼はひたすら一人だった。
そして今、混乱する拓真の前に亜子が現れた。
「拓真!!」
大きなエイがこちらに向かって下降してきたかと思うと、その背中から亜子が飛び降りてきた。
「拓真! 良かった、無事か!!」
いつもの凛とした瞳をくしゃりと和ませ、亜子が駆け寄る。
しかし、拓真は反射的に刀の柄に手をかけ、もう片方の手で伊万里を抱きかかえると、片膝をついて身構えた。
「亜子、何しに来た……?」
「え?」
思わず亜子が戸惑った様子で立ち止まった。ふと彼の腕の中の伊万里に目をやる。ぐったりとした生気のない彼女の様子は、一目で危ないと分かる。
「拓真、どうしたんだい? 伊万里をこちらに渡せ」
亜子が首を傾げて拓真に近寄る。しかし、拓真がじりっと後ずさりした。
「伊万里をどうして渡さなならんのじゃ」
「だって
まるで手負いの獣だ。敵も味方も分からなくなっている。
折しも、猿師のエイが川岸に降り立ち、圭や千尋が背中から飛び降りる。
そして直後、戸惑う亜子の脇をすり抜け、千尋が伊万里に駆け寄った。
「イマッ、イマッ!」
「おまえは誰じゃっ?」
拓真が千尋から伊万里を引き離し、彼女を睨みつけた。顔に血のりが付き、全身傷だらけの殺気立った男に思わず千尋が息を飲むと、圭がすっと二人の間に割って入った。
「落ち着いて。篠平拓真……だろ?」
圭がゆっくりと静かな声で問いかける。拓真は圭の顔を何度も眺め直し、ぽつりと呟いた。
「おまえは……、九尾に似とる──」
「そりゃ、双子だからね」
拓真の大きな瞳がさらに大きく見開いた。
「……おまえが伏宮圭、伏宮本家か?」
圭が小さく頷く。そして彼は、拓真を見据えながらあごで千尋を指した。
「こっちは、俺たちの幼馴染みの千尋。どういう存在か、彼女の気を感じられるなら分かるだろう?」
拓真がその大きな目をあらためて千尋に向ける。彼女の清浄な気を感じ取ったのか、彼は少し安堵の色を浮かべ、「巫女か」とほっと息をついた。そして、圭に対して皮肉げに笑った。
「伏見谷の男はどうなっとる。どいつもこいつも、上等な女ばかり側に置いてからに」
「減らず口が叩けるようなら心配ないね」
圭が呆れた調子で笑い返す。そして圭は拓真に対して両手を出した。
「姫ちゃんを渡して。預かるよ」
「いや、儂が運ぶ」
差し出された圭の手を拒み、拓真が圭の脇を通り過ぎる。彼は、亜子も無視して猿師の元へと真っ直ぐ歩み寄った。
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