篠平、急を告げる(4)
「うわああ!!」
とっさのことで動くことも出来ず拓真は叫んだ。はるか遠く下の方で鈍い音が響く。彼は伊万里を抱きながら急いで崖の淵へ行き、下を覗いた。
崖の下は真っ暗な闇に覆われ底が見えない。山の地形は全て頭に入っている。ここは決して浅い崖ではないはずだ。
(こんな所から落ちたら……)
とてもじゃないが、ただではすまない。少なくとも祥真は絶望的に思えた。
しかし、
(九尾はもしかしたら)
希望があるかもしれない。彼の方が重傷を負って落ちたのだが、拓真はそう思った。壬と初めて会った広間で、彼が年寄連中とやりあった最中、彼は投げつけられた短刀の傷をあっという間に癒してしまった。本人は切れたことさえ気づいていない様子だった。あの時、あの場にいた者は、みなあの治癒力にぞっとしたはずだ。
口から火炎を吐いたり、尻尾から斬撃を出したり、霊力の使い方にしても同調も反立もあったもんじゃない。拓真は、壬に底の見えない何かを感じ取っていた。
「大丈夫、あいつは死なん」
そう自分自身に言い聞かせた。そして伊万里を肩に担ぎ直す。この山道を降りて少し回れば、ここの崖底に辿り着くはず。とりあえず、そこまで行く。彼は崖に背を向けると深く息を吸って歩き始めた。
拓真は、相変わらず襲いかかってくる
ようやく崖底に辿り着く。いつもなら五分ともかからない道だ。
着いてすぐ生臭い血の臭いが鼻をついた。
拓真は狐火を灯すと、自分が立っている周辺を照らした。そして、一瞬で目をそむけた。
受け入れたくない事実がそこに散乱していた。
胸がどくどくと鳴り、何かが腹の奥から込み上げてきた。寸でのところで吐きそうになったのを強引に飲み込み、そのせいで激しくむせ返った。
(目をそむけるな)
自分に言い聞かせ、拓真は再びその惨状に目を向ける。
壬と祥真が重なり合うように倒れていた。
伊万里を少し離れた地面に寝かせ、二人の元へ歩み寄る。祥真が壬の下敷きになって、絶命していた。体は激しく損傷し、見れたものではなかった。
拓真は無言のまま壬を祥真から引きずり離し、平らな地面の上に寝かせた。祥真とは対照的に壬は五体満足だった。拓真は傍らにひざまずき、彼の胸におそるおそる耳を当てた。祥真に刺された箇所からはまだ血が止まらず流れ出ていて、彼の頬に壬の血がべたりと付いた。
この状態で生きていたら奇跡だ。
しかし、ほんのわずか、微かだが心臓の音が聞こえた。ゆっくりと、ゆっくりと、通常の半分以下の強さと早さでそれは波打っていた。
拓真はふうっと大きく息をついた。とりあえず、まだ死んでいない。
「兄貴、ありがとう。最期に、九尾を守ってくれたんだな」
拓真は無惨な兄の遺体に向かって呟いた。
それから彼は、糸が切れたようにどかりとその場に腰を下ろすと、力なくうなだれた。
どれぐらいの時間がたっただろう。
このめちゃくちゃな現実を受け入れる時間が必要だった。
ものすごく長かった気もするし、短かった気もする。
そして、その時間の感覚さえ麻痺した状態で、拓真は自分自身に言い聞かせた。
(考えろ。どうするか、何を優先すべきか、考えろ)
まだ、何も終わっていない。どこかに見えない敵がいる。そいつが、この状況を操っている。
敵の狙いは妖刀・焔だ。きっと甘い言葉で太一郎をそそのかし、篠平の跡目争いに便乗して壬たちを狙った。しかし、跡目争いに壬たち伏見谷が関わることは、つい数日前まで不確定要素だったはずだ。
拓真はもう一度、頭の中を整理した。
伊万里の母親の死、自分の父親の病死、祥真の豹変、そして今のこの状況。全てが一直線上で繋がっているとも思えない。必然と偶然が重なりあった、そう考えた方が自然だ。
それでも、その重なりあった必然と偶然を自分の元へ
(伏見谷への助力を最初に言い出したのは──…)
すぐに一番信頼している者の顔が浮かんだ。
「はっ、ははっ、亜子」
乾いた声で笑い、拓真は頭をくしゃりと掻いた。彼女を疑ったら、もう何も信じるものがなくなってしまう。その父親の亜門さえも信用できなくなる。
拓真は自分の笑い声を飲み込んで、両手で顔を覆った。
(落ち着け、落ち着け──…、疑うな)
彼は心の中で何度も呟いた。
しばらくして、ようやく拓真は顔を上げた。それから力なく立ち上がると、近くの落ち葉をかき集め祥真にかけた。
「ごめんな、兄貴。今は燃やしてあげられない」
今、燃やすと自分たちの居場所を教えるようなものだ。それは出来ない。だから、せめてその無惨な姿が目につかないようにと、拓真は落ち葉を祥真に被せた。
そして次に、彼は同じように壬にも落ち葉をかけた。こちらは壬を隠すため。
「九尾、悪いがここで待っていてくれ。必ず助けにくる」
まだ壬は息がある。状態は絶望的だが、それでも
壬はこのままここに置いて行く。二人は同時に運べない。
妖刀のことも気になった。しかし、壬の言葉を信じれば、焔はおいそれと触れない。振るうには相応の対価がいる。
きっと相手はそれを知っている。だから、太一郎を使った。
太一郎の言葉を借りるなら、「壬を殺して、伊万里の体から鞘を取り出すこと」が焔を手に入れる条件となる。本当にそれで手に入るのかどうかは知らないが、少なくとも敵側はそう思っている可能性が高い。
だとすれば、こちらがすることは二つ。
壬を助け、伊万里を守る。
そして今、優先すべきは伊万里。壬がそれを望み、自分に託した。
(シンプルで分かりやすい。それで十分じゃ)
誰を信じるかは、その時に決める。憶測で物を考えていても、疑念が疑念を呼ぶだけだ。
拓真が伊万里のもとへ行き、彼女を抱き上げる。蔓が、また伸びた気がした。
一度だけ振り返り、二つの落ち葉の山を見る。それから拓真は目を閉じて呼吸を整えると、一気に山道を走り始めた。
里の方角からは焦げた臭いが流れてくる。里でも何かが起こっている。おそらく、亜門は助けに来ない。
どこを見ても絶望的な状況。それでも、前に進むしかない。
刀を持つ手に力を込める。
「伊万里、行くぞ」
拓真は歯を食いしばった。
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