1)長男の憂鬱
長男の憂鬱(1)
圭の朝は意外に忙しい。まず起きて髪を一つに束ね、身支度を整える。そして、部屋を出て、隣の壬の部屋をノックする。
文化祭も終わり、今日は学校であと片付けだ。
「壬、遅れるよ」
「んー」
部屋から眠たそうな壬の返事が聞こえたらオーケーだ。伊万里が来てからというもの壬の寝起きが少しだけ良くなった。本当は伊万里が起こしに来てくれたらいいのだろうが、夜の十時から次の日の朝ごはんまで男女の部屋の行き来はあさ美に禁止されていた。なんでも、「あんたたち(特に壬)は信用できない」というのが理由らしい。あさ美は、伊万里のことを実の娘のように大切にしていて、「嫁入り前の嫁」が彼女の口癖だ。
洗面所に向かう廊下で今日の山の様子を確認する。毎朝、谷の様子には気をつけるようにと総次郎に言われたからだ。そして圭は顔を洗うと、朝食を食べに台所へ行った。台所では、母親のあさ美と制服にエプロン姿の伊万里が朝食とお弁当を作っていた。
「おはよう」
「圭、おはよう。あなたはいつもどおりね」
「おはようございます。今、朝食の準備をしますね」
伊万里の爽やかな笑顔が返ってきた。そして彼女は手際よくテーブルにコーヒーとトーストを並べた。
どうってこない日常会話だが、ここでさりげなく彼女の機嫌をチェックする。朝、彼女の機嫌が悪いときは、前の日に壬と何かあったときだ。
どうでもいいことで二人はよく喧嘩する。この前なんか、帰り道に見た
なんでそんなことで喧嘩が出来るのかと感心するが、そんな時、二人の仲を取り持つのも圭の仕事のひとつだ。
しばらくして、まだ眠たそうな壬が降りてきた。
「おはよ」
言いながら壬がすとんとテーブルに座る。途端に、伊万里の顔がぱあっと明るくなった。
「壬、おはようございます。パンもコーヒーも出来てますよ」
「んー。ありがと」
わりと伊万里は分かりやすい、と圭は思う。彼女は、二代目などいらないと壬が妖刀・
壬は壬で、自分は片思いだと思っているが、そのくせ、「こいつは俺のもんだ」とばかりに、いいだけ伊万里に迫っている。これで、どうしてくっつかないんだと不思議でしかたがないが、妖刀・
「じゃあ、私も食べます」
伊万里がベーコンエッグと食後の果物を並び終え、壬の向かいの席に座った。
「今日は普通の授業は全くなしですか?」
「そう、各クラスで会場の撤去と掃除」
卵の黄身をパクンと頬張りながら壬が面倒くさそうに答えた。文化祭が終わったのは三日前、月曜と火曜は文化祭の振り替えで休校だった。
連休明けの学校は確かに圭も面倒くさい。
「まあ、授業がないだけましじゃない?」
圭が言うと、二人は「それもそうか」と頷いた。
すると、突然あさ美が
「それはそうと、日曜日の夜に大騒ぎしていた男の子はちゃんと帰れたのかしら」
と呟いた。剣道部の五里のことだ。
三日前の夜、玄関先の庭が騒がしいので行ってみると、庭先に剣道部の五里がいて、縁側でくつろいでいたらしい壬と言い争いになっていた。隣には伊万里もいた。
五里はしきりに「認めん! 認めんぞ!」と蒼白な顔で繰り返し、そのあと勝手にダーッと走り去ってしまった。
壬に聞いても「別に。本当のことを言っただけ」と言うだけだし、伊万里にいたってはモジモジと顔を赤らめるだけで話にならない。全く参考にならない二人の情報に圭はイラッとしたが、言うだけ無駄なので彼はぐっと我慢をした。
(今日、学校でおかしなことになってなければいいんだけど……)
当の本人たちは何も気にしている様子がない。それがかえって圭の不安を掻き立てた。
「二人とも時間になったら出るよ。千尋が待っているから」
まだ朝食を食べている壬と伊万里に声をかけ、圭は席を立った。
その日の学校は、圭たちが登校すると周囲の目がざわっと変わった。伊万里が不安げに顔をしかめる。
「なんでしょう? 私、鬼だとばれましたかね? あの騒ぎに居合わせた人間は、ほぼ全員、記憶を消したのですが……」
「や、鬼だとばれたらこんなもんじゃすまないわよ」
千尋が伊万里に答える。そして千尋はちらちらと周りの様子をうかがった。
「怖がってるとか、そういう感じじゃないみたいだけど」
「どうせまた、くだらねえ噂でもたってんだろ」
壬が「あほらし」と一蹴する。それで四人は、それ以上気にすることなく教室へ向かった。
しかし、教室についた四人は黒板に書かれた落書きに目を見張った。そこには大きな相合傘が書かれ、その中には壬と伊万里の名前。そして、相合傘の周りには「結婚おめでとう!」の文字がでかでかと書いてある。
「なっ、なんだこれは?!」
見るなり壬はわなわなと体を震わせた。伊万里も唖然とした顔で黒板を見つめている。クラスからクスクスと含みのある笑いが漏れる中、川村が慌てた様子で壬のもとへ駆け寄ってきた。
「おい、壬! 月野さんと結婚してるって本当か??」
「はあ? なんで、そうなる」
「おっ、俺が言ったんじゃないぞ」
川村がちらりと伊万里を見ながら前置きする。
「家の縁側で、抱き合っていたとか、チューしていたとか、そもそもエッ──、ああ、ダメだ。これ以上は俺も言えない!!」
「当たり前だ! なんの話だっ?!」
そして壬はぎりっと歯ぎしりをした。
「五里だな。あの野郎、余計なことをベラベラと──! あいつ、ただじゃおかねえ」
「あ、五里の奴は休んでいるらしいぞ。なんでもショックで」
「え? 休み……??」
怒りをぶつける相手をいきなり見失い、壬は憤りと戸惑いの入り混じった顔で舌打ちをした。
そんな壬に川村はおそるおそる尋ねた。
「ってか、やっぱりそうなのか?」
「だからっ──、」
「……苗字が違うでしょ」
圭がふいに割って入り、落ち着いた口調でため息まじりに答えた。
教室から「あ、そっか」と納得の声が上がる。こんな時は、下手に騒がず冷静に攻めた方がいい。圭は川村をはじめ、成り行きを見守るクラスメイト全員に向かって言った。
「これ、書いたの誰?」
教室が途端にしんっと静まり返る。話題が「壬と伊万里の関係の真偽」から「黒板の落書きの犯人探し」に急に変えられたことに、すぐには誰も気づかない。
「こんなことをして、ことと次第によっちゃ──、分かっているよね?」
さっきまでクスクスと笑っていた女子生徒も神妙な面持ちで黙りこくった。川村が慌てて言った。
「圭、そこまで怒るなよ」
実際はそこまで怒ってないが、壬と伊万里の関係をうやむやにしつつ、みんなを黙らせるためには、これぐらいしないと効果がない。
すかさず千尋が黒板まで行って、黒板消しを手に取った。
「じゃあ、とにかく消すわよ。これ」
「えっ、消すのですか?」
伊万里が残念な声を上げる。しかし、千尋にぎろりと睨まれ彼女はすごすごと引っ込んだ。
(やれやれ、これでひとまず収まった)
圭は内心ほっとした。
とはいえ、この噂はまずい。同居ってだけでも好奇の的なのに、その上「結婚」までついてしまったら──。
その時、教室のドアがガラッと開いて、担任の草野が慌てた顔で入ってきた。
「おい伏宮壬、ちょっと話が──、」
ほら、思った通りだ。
(壬は職員室に呼び出しだな)
圭は思った。しかし、草野はすぐさま壬から圭に視線を移した。
「いやっ、やっぱり圭! おまえがいい。伏宮圭、ちょっと職員室まで来い!!」
「なんで俺が……」
「いいからっ」
草野は完全に動揺してしまっている。圭は「もうっ」とため息を吐いた。
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