兄狐のおきみやげ(4)

 壬は「はあ」と大きなため息とともに頭を抱えた。

「俺、ムダに張り合って……。やっぱ格好悪い──」

「そんなことありません」

 すかさず伊万里が壬を気遣った。

「おかげで、この一か月でとても強くなったではないですか」

「いいよ、そんな気休め」

「それに、ちょっと格好悪いぐらいがちょうどいいです」

「?」

「だって、こうやって隣に座っていられますから。ちょっと格好悪いくらいが、壬らしくて私は好きです」

 言って伊万里がはにかんだ。その少しモジッとした様子が可愛らしい。にわかに壬の胸がキュッと高鳴った。

 今なら面と向かって自分の気持ちを言えるだろうか。

「伊万里、」

 壬は大きく深呼吸してから、伊万里の両腕をがしっと掴んだ。

 伊万里が少し驚いた顔を壬に返した。

「なに?」

「俺──」

 伊万里と面と向かい合う。彼女の唇が、ふと壬の目に入った。

 今日、そこにキスをした。あの柔らかな感触を、まだはっきりと覚えている。

(あーやだ。俺、なんで今、思い出すかな)

 あの時は、伊万里も気を失っていて唇にも生気がなかった。でも今は血色も戻り、赤みをおびた唇はみずみずしい果実のようだ。

 めっちゃ柔らかそう。

 これ、食べたら絶対においしいやつだ。

(今、気持ちを伝えたら──)

 そうすれば、この唇まるっと全部が自分のものになるんじゃないか?

 壬はそう思った。が、

(いや、待て。なんか下心まるだしな感じになってるぞ、俺)

 壬は慌てて自身をたしなめた。

 違う、そうじゃないだろ。

 心の中、必死で自分に言い聞かせながらも、伊万里の唇を前に壬はごくりと生唾を飲んだ。

 すると、ただならぬ壬の様子に、伊万里があからさまにしかめた顔を後ろに引いた。 

「あの、目が心なしか怖いんですが、口に何かついてますか?」

「ちょっと黙ってて。めっちゃ悩んでるんだから」

「な、なな、何を悩んで──?」

 ああ、もういいや。先に食っちゃえ。

 勢いにまかせて壬が伊万里にキスをしようとした時、


「たのもうー!!」


 突然、玄関先で野太い声がした。

 驚いて庭先の向こうを見ると、剣道部の五里が胴着姿で腕を組んで立っていた。

「ごっ──???」

「五里主将?!」

 思わず壬と伊万里が声を上げる。五里は二人の存在に気づき、ずかずかと庭先に入ってきた。

「伏宮、おまえの家は有名で分かりやすいが遠すぎる!」

「ってか、なんでいるんだよ?! しかも、こんな夜遅くにっ!!」

「おまえこそ、こんな夜遅くに姫に何をしようとしている?! やはり、言われたとおりだ!」

「言われた?」

 壬が聞き返すと、五里は大きく頷いた。

「おまえの家を探していたら、途中、もさっとしたくせ毛にあごヒゲの男と出会い、おまえと姫のことを忠告されたんだ!」

「もさっとしたくせ毛に」

「あごヒゲ……」

「ちなみに、その男にこの家の場所も教えてもらった」

 壬と伊万里が顔を見合わせた。壬がわなわなと震えだす。

「ジロ兄の野郎、最後の最後までくだらねえ嫌がらせを──!」

「あの男が言ったとおりだっ。伏宮、また姫にいかがわしいことを──!!」

 刹那、伊万里が壬をどんっと突き飛ばした。

「ち、違います! これは──、そう、月見です!!」

「月見だと?」

「昔から、縁側といえば月見と相場が決まっています!」

「では、なぜその腕を伏宮に握らせていたのだ?」

「そっそれは──、寒かった……から?」

 しどろもどろに伊万里が答えた。すると、五里はふんと鼻の穴を大きく膨らませ、両手を広げた。

「なら、今度はこの俺が姫を温めてやる」

「…………それは、必要ありません」

 伊万里が途端に真顔になって冷たく言った。両手を広げたままの五里が「なぜだ」と体を震わせた。

 すると、伊万里に突き飛ばされ、脇に吹っ飛んでいた壬が起き上がり、五里を睨んだ。

「そんなことより、なんでうちを探していたんだよ?」

「姫と約束したからだ」

「は?」

「待ち続けても来ないから、迎えに来たんだ」

 五里がふんぞり返りながら答えた。壬が「へえー」と頷いた。

「……そういや、あいつと約束していたな。ねえ、伊万里さん、あいつと何の約束をしたのかな?」

「あー……」

 伊万里が気まずそうに顔を背ける。

「迎えに行くので、文化祭の日は家で必ず待っているようにと……」

「ほう」

「彼が来ると面倒だと思いましたもので……。もともと家も知りませんし、放っておこうかと思っていたのですが──、すっかり忘れておりました……」

 最後は蚊の鳴くような声で伊万里が答える。そんな彼女に五里が詰め寄った。

「俺は、二日間待ち続けたぞ!」

「いや、おまえはバカだろ。もう文化祭は終わったから」

「ぬぬぬぬ」

 五里が悔しそうに歯ぎしりする。そして彼は壬を指さした。

「だいたいおまえは、いつもいつも姫のそばにべったりと。気に食わん!」

「だって、ここ俺の家だし」

「だとしても、おまえはただの同居人、姫とは無関係なはずだ」

「──うるさいな」

 壬が不機嫌そうに言い返した。せっかくのいいところも、五里に──いや、総次郎に邪魔された。

「少しでも寂しいと思った俺がバカだった」

 言って彼は、伊万里をぎゅっと抱き寄せた。

「こいつ、うちの嫁なんだよ」

「じっ、壬??」

 伊万里が驚いた顔で壬を見上げる。目の前では、五里があんぐりと口を開けて絶句した。

(最初からこうすれば良かったんだ)

 壬は思った。

「ま、そういうことだから」

 そして彼は、目をぱちくりさせている伊万里の額にキスをした。

 五里が真っ赤になりながら口を鯉のようにぱくぱくさせる。壬は、そんな五里に向かってあっかんべーをした。


第2話 了

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