初めてのお仕事(7)
家に帰ると、総次郎の言ったとおり壬が先に帰ってきていた。ちょうど風呂から上がってきたところで、濡れ髪にタオルをかけ、上半身は裸だった。
「壬、私たちの様子を見に来てくれたと聞いたのですが……」
「ん、まあ。でも、もういいかなって思って。勝手に帰ってごめん」
目をそらしがちに壬が言った。
「それはいいのですが……」
なんというか、「ごめん」と謝っている割には機嫌が悪い。そして彼は総次郎の姿を見ると、憮然とした顔でふいっと奥へと行ってしまった。
「あーあ、やだねえ。男のヤキモチは」
総次郎が苦笑する。
千尋が伊万里の腕を引っ張り、廊下の隅へ連れていった。
「イマ、ジロ兄と何してたの?」
「何って、話をしていただけです」
「本当に?」
言いながら千尋が伊万里の頭をくんくんと嗅いだ。
「さっき抱きついたときも思ったんだけど、ジロ兄の
「それは、抱きかかえられもしたら移ります──」
「抱きしめられたりは?」
「そ、そんなこと──あっ」
「……覚えあるんだ」
「いえっ、違います。私を
「ま、そこはジロ兄のこと信じてるけどさ。私もしょっちゅう抱っこされるから。きっと私らのこと幼稚園児くらいにしか見えてないんだよね」
千尋が小さく息をつき、それから伊万里をちらりと見た。
「見られたんじゃないの?」
「え?」
「だから、壬ちゃんに」
「でも、先ほども言ったように次郎さまに他意は……」
「逆でも同じこと言える?」
千尋がすぐさま切り返した。
「壬ちゃんが他の女の子抱きしめていたら、他意がないって笑っていられる?」
「それは……」
伊万里は言葉に詰まった。
そんなの、想像しただけでもムカムカする。
でも、
「私が誰といたって、壬には関係ないです。だって、私は妹なので」
「妹って言われたの、根に持ってんだ」
「別に持ってません。でも、壬がそう言ったもの」
「あー、はいはい」
千尋は面倒くさそうに返事をしたが、すぐに真顔になった。
「壬ちゃん、ショック受けてたよ。鬼姫さまの噂」
「はい。そう、ですよね」
「ちゃんとイマの口から話しなよ」
伊万里が戸惑いがちにうつむいた。千尋がそんな伊万里の両腕を掴む。
「本当に甘えたい人、間違えちゃいけないよ?」
言って千尋は伊万里に小さく頷いて見せた。そして彼女は圭を呼んだ。
「圭ちゃん、帰るから送ってよ」
「今日は泊まっていかないの?」
「うん、一泊分しか持ってきてない。私、荷物持ってくるから玄関で待ってて」
「分かった」
「じゃあね、イマ。あとで話を聞かせてね」
千尋がせわしなく伊万里から去っていった。
夕飯は圭抜きで食べることになった。千尋の家で食べてくるという連絡が入ったからだ。壬は、いつもより静かだったが、それでも普段と変わらない様子で食べていた。夕飯が終わり、後片付けやお風呂も終わったあと、伊万里は大広間へ行った。
ここはよく壬が一人でくつろいでいる場所。何もない大きな板間だが、それがかえって落ち着くらしい。伊万里も壬と話がしたいときは、自然とここへ来るようになっていた。
今日も月が綺麗だ。しばらくすると、壬がふらりとやってきた。
「なんだ、いたのか」
伊万里の姿を見つけるなり、壬が言った。伊万里は「はい」と笑い返した。
「壬に
理由なんてなんでもいい。彼とこうして話せるだけで心が弾む。
伊万里は抹茶色に黒字で「きよ屋」の文字が入った箱を取り出した。
「はい、これです」
箱の表には、可愛らしい文字で「封印」と書かれた紙がペタリと貼ってある。壬が伊万里の横に座りながら「え?」と顔をしかめた。
「おい、まさかこれ?」
「何か問題でも?」
「なんだ、この『封印♪ テヘペロッ』みたいなふざけた紙は?」
壬が胡散臭そうに箱を見る。伊万里はムッと彼を見返した。
「何を言っているんですか。千尋の直筆ですよ。下手なまじないより効果あります」
「本当かよ」
「はい。月曜日からさっそく穢玉集めです。壬も手伝ってくれますよね?」
伊万里が嬉しそうに言う。自然と壬から笑みがこぼれた。
「そりゃ、俺も実行委員だし」
今なら、
言えるだろうか。
二人は同時に口を開いた。
「あの…」
「なあ、」
今度は同時に口をつぐむ。
「伊万里、なに?」
「いいえっ、壬から話してください」
「いいよ、伊万里が話して。伊万里の話が聞きたい」
片ひざを立て、そこに顔をのせた壬が伊万里の顔を覗き込んだ。伊万里は胸がどきんとして、思わず目をそらした。
「……あの、荻原商店で子供たちに会ったと千尋から言われて、壬も知っていると思うのですが、それで──」
「うん。あんな酷いことを言われているなんて知らなかった。ごめん、全然気づかなくて……」
「それはいいいんですっ。黙っていたのは私なので」
伊万里が慌てて両手を振った。それから彼女は、ためらいがちに話し始めた。
「最初は子供たちにちゃんと言おうと思ったんです。そんなことないよっ、大丈夫だよって。でも、やっぱりびっくりされるかなとか、家に帰って両親に怒られてしまうかなとか、そもそも私が普通に出歩いていること自体が大騒ぎになるのかなとか、いろいろ考えていたら言えなくなってしまって。そしたら、子供たちはどんどん
「うん、分かった。もういいよ、伊万里」
「だから──、」
「もういいから、」
壬が伊万里を抱きしめた。
「もう分かったから」
「ごめんなさい」
「なんで謝るの」
「私、迷惑ばかりかけて……」
「迷惑じゃないって、前にも一度言ったよな」
壬は伊万里の耳元で
「そうだ、鬼の姿、久しぶりに見せて」
「え?」
戸惑い気味に伊万里が顔を上げたると、壬が笑った。
「ほら、角」
「や、今とそんなに代わり映えしないですし──」
たじろぐ伊万里を壬がじっと見つめる。彼女はどうにもならなくなって、「じゃあ、少しだけ」と目を閉じた。
ぱあっと変化が解け、伊万里の頭に白い角が現れた。ぱっと開いた大きな瞳は、深い深い紫。
「うん、やっぱりこの姿が一番伊万里らしい」
壬が言った。
「今度、この姿で子供たちに会いに行こう」
「でも……」
「大丈夫、伊万里は伊万里だから。きっとみんな驚くぞ」
本当のところ、総次郎とのことが壬の心の中でくすぶっていた。
自分が
総次郎のことをどう思っている?
しかし、伊万里が抱えていた悩みに比べたら恥ずかしいほど小さいことに思え、壬はくすぶる気持ちを心の奥へしまい込み、彼女を再び抱きしめた。
今はただ、こうして伊万里を独占したい。
「やっぱり、この姿で会いに行くっていうのはやめにしようかな」
「え? さっき会いに行こうって言ったばかり──」
「うーん、そうなんだけど」
本当は他の誰にも見せたくない。ありのままの伊万里の姿は自分だけのものにしておきたい。
「ここっておまえの大事なところだから他の奴らに見せたくない」
言って壬は伊万里の角に軽くキスをした。彼の腕の中、伊万里がぱっと顔を赤らめた。
ややして、彼女は小さな声で呟いた。
「壬……」
「なに?」
「私、ここ以外に行くところなんてないんです」
「うん」
「この谷が好きなんです」
「うん」
「本当に──、」
伊万里がギュッと壬の腕を掴み、顔を胸にうずめた。
「大好きなの」
あふれる気持ち。でも、どこまで届いているだろう。
まるで月の光が降ってくるような夜だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます