初めてのお仕事(6)

 谷ノ口から山に入って、ひたすら登る。人間の足なら二時間はかかりそうな場所に伏見谷が一望できる「いいところ」はある。子供の頃、壬たちも総次郎によく連れていってもらった場所だ。

 両親に怒られたとき、誰かと喧嘩したとき、何かうまくいかなかったとき、総次郎は自分を肩に担いでその場所へと連れていってくれた。そう、さっきの伊万里のように。

(ジロ兄は知っていたんだ)

 壬は狐の姿になって山の中を駆け抜けた。

 昨日、伊万里が「嫌われ者は慣れている」と言っていたことを彼は思い出した。あの言葉は月夜の里での幽閉生活から出てきた言葉だと勝手に思っていた。

 「不義の子」と言われ、「贄姫にえひめ」とさげすまれ、月夜の里の端屋敷はやしきに閉じ込められていた日々は、どれだけつまらなかっただろう。

 谷には彼女を「不義の子」と言うやつも、「贄姫にえひめ」とさげすむやつもいない。だからこそ、谷で暮らしている今の方が伊万里は幸せに決まっている。壬はそう思っていた。

 でも、違った。

 「不義の子」、「贄姫」が「悪い鬼姫」に変わっただけ。そして、彼女は何事もなかったように笑っていただけだった。

(どうして気づいてあげれなかった?)

 壬は気づけなかった自分自身に、先に気づいた総次郎に、腹が立った。彼に自分の立ち位置を取られたような気分だった。

 同時に、こんな頼りない自分が今さら行って彼女に何を言うのだろうかと思った。

 総次郎の方が、ずっと気の利く言葉を伊万里にかけてやれるのではないか。

 ふと、一心いっしんで山をかけ上ってきた壬の足が鈍る。あの場所は、もうすぐそこだ。

 茂みを抜け、木々が少しまばらになったところで壬は人の姿に戻った。

 そしてその先に、彼は総次郎の姿を見つけた。

 やっぱりいた──。

 しかし、その直後、壬の足がぴたりと止まった。

 伊万里が総次郎に抱きすくめられていた。総次郎の声が響く。

ほむらを壬に持たせたくない?」

 総次郎の腕の中、伊万里が小さく頷いた。

 壬の胸がどくんっと鳴った。



 そこは、伏見谷が一望できる場所だった。谷ノ口からひたすら山を駆け上り、少し木々がまばらになったところを抜けると、眼下に伏見谷の風景が広がっていた。

「分かるか?あそこにある屋敷が伏宮本家、谷に沿って流れる尾振おぶ川の上流に奥谷がある。下手しもての森みたいなのが御前みさき神社だな。で、あれが川添かわぞえ、そして尾振おぶ峡谷…」

 総次郎がひとつひとつ指さしながら言った。

「稲山はどこですか」

「稲山は──、ちょうど本家と川を挟んだ向こう側の山だな。簡単に言うと、本家があって、その左右に奥谷と御前神社、そして対角線上に稲山だ。稲山にはみんなで一度遊びに来い。親父おやじが喜ぶ」

「はい、ぜひ」

 伊万里は頷いた。

 谷は夕陽に照らされ、茜色に染まっている。

「きれい…」

「これ全部、おまえのもんだ」

 総次郎が伊万里に言った。

「おまえを鬼と忌み嫌う奴もいるだろう。もしかしたら利用しようとする奴もいるかもしれない。でもな、それもこれもすべてまるっと飲み込んで、全部おまえのものにしてしまえ。ここは九尾のたなごころ、谷は誰も拒絶しない」

 伊万里は目頭が熱くなった。自分を気遣う総次郎の優しさが嬉しかった。

 彼女はじっと眼下に広がる谷の風景を見つめていたが、ややして総次郎に言った。

「次郎さまであれば、ほむらを振るってもらえるでしょうか」

「なに、もらってほしいの?」

 総次郎が片眉を上げる。

「お望みならば」

「…焔も伊万里も、もらっていいのかって聞いてんだ」

 伊万里がきゅっと唇を噛み締める。彼女はしばらく黙っていたが、意を決したように小さく頷いた。

 総次郎が苦笑した。

「伊万里、俺のこと慕ってはくれているんだろうけど、そういう意味で好きじゃないだろ」

「……嫌いでもありません」

「ははっ。で、嫌いじゃないならなんとかなると?」

「二代目さまに嫁ぐのが私の務めですから。好きも嫌いも、二代目さま以外に誰かをお慕いすることなどありません」

 なんて空々そらぞらしい言葉。ついこの前まで、なんの疑いもなく吐いていたなんて、我ながら何も分かっていなかったと伊万里は思った。

 あんなに誇らしく思っていた「二代目九尾の嫁」という言葉が、今では憎らしいほど鬱陶うっとうしい。

 総次郎が意地悪い目を伊万里に向けた。

「ひでえな。俺なら魂削って刀を振るっても別にいいやって思った?」

「そ、そういう訳では──。ただ、次郎さまなら振るえるだろうと……」

 伊万里は慌てて否定した。が、最後まで言い切ることができず、彼女はうつむいた。

 違わない。いっそ総次郎がもらってくれればと思った。そうすれば、壬の右手首からあの忌まわしい印が消えるのではないだろうかと。

 自分はどこまで勝手なんだろう。総次郎の優しさにつけ込んで、嫌なことを全て彼に押しつけようとした。

浅慮せんりょなことを申しました。お許しくださいませ」

「可愛いねえ。壬の嫁にはもったいねえ」

「もったいないも何も、」

 伊万里がボソッと呟いた。

「壬は……私のことを妹ぐらいにしか思っていないので」

「ありゃ、そりゃまた──。壬がそう言ってたのか?」

 伊万里がこくりと頷く。

 嫁だの九尾だのと大騒ぎしているのは大人だけ。きっとこんな迷惑な状況、壬だって辟易へきえきしているはずだ。

 すると総次郎は、苦笑しながら伊万里をぎゅっと抱きしめた。

「もっ、可愛すぎ。なに、この愛らしさ。これは嫁じゃねえな、娘にしたい」

「じ、次郎さま、ふざけないでください!」

「ふざけてないよ」

 総次郎が答える。そして彼は伊万里の顔を覗き込んだ。

「さっきのあれはなかったな。壬の口から焔という言葉が出るのもいやなのか?」

「も、申し訳ありません」

 さっき総次郎と壬の会話を邪魔したことを指摘され、伊万里は気まずそうにうつむいた。

「困ったな。それじゃあ壬はいつまでたっても焔を使えない」

「……あのような刀、いりません」

「焔を壬に持たせたくない?」

 再び伊万里がこくりと頷く。総次郎はそんな伊万里の頭をなでた。

「そうか。じゃあ、まず伊万里のその気持ちをどうにかしないとな」

「次郎さま……」

 その時、パキッと小枝を踏む音がした。伊万里がはっと総次郎から離れる。

 しかし、振り返って見てもそこには誰もいなかった。

「うーん? 何か、ケモノでも通ったかな?」

 そして彼はぐっと体を伸ばし、あらたまった口調で言った。

「さ、帰るかな。みんなも待っているだろうし」

「はい。あ、でもっ」

「なんだ?」

「自分で帰れます! あれは、恥ずかしいので」

「はっはっはっ、悪い。壬たちがガキの頃も全員ああやって連れて来てたんだよ」

 総次郎が笑った。


 伊万里と総次郎が荻原商店に戻ると、千尋と圭が待っていた。

「壬はどうしたのですか?」

 伊万里が尋ねると、千尋が戸惑い気味に言った。

「そっちに行ってない? どこに行ったか分かったって、二人の様子を見に行ったんだけど」

「そうなんですか? 行き違いにでもなったでしょうか?」

「ふーん」

 総次郎があごひげをなでながらニヤニヤと笑った。

「そりゃ、一人で勝手に帰ったな。たぶん」

「なんで分かるのさ?」

 と圭が聞いた。

「大人の直感ってやつ。嫌なことでもあったんじゃねえの」

「嫌なことって──」

 圭が総次郎と伊万里を交互に見た。

「それより、イマ!」

 千尋が、深刻な顔で詰め寄った。

「ここで待っていたら、イマのこと鬼だって知らない子供たちが、『鬼姫さま』の噂をしてて──」

「あ──」

「どうして相談してくれなかったの?」

 伊万里が気まずそうに笑う。

「子供に罪はないですし。そ知らぬ顔をしていれば、それですむかと思って」

「すむわけない。イマが傷ついているじゃない」

「いえ、言うほど傷ついているわけでは……」

「私が辛いのっ。嫌なことがあったら、ちゃんと言って」

 千尋が伊万里をギュッと抱きしめた。

 伊万里の心がふわっと温かくなった。

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