兄狐のおきみやげ(2)

 伊万里は、真っ暗闇の中、一人ぽつりと立っていた。

 ここはどこだろう? 何もない。何も見えない。

(…親蜘蛛の中? 私は奴の足に刺されたはず──)

 すると、暗闇の中からぼんやりと人影が現れた。

 全身に黒布をまとい、どこまでが体でどこからが闇なのか分からない。唯一のぞく赤い眼がギラギラとした光を放ちながらこちらをじっと凝視していた。

(よく来たな。藤花とうかの娘)

 赤眼の影が言った。


 藤花とうか──。


 久しぶりに聞くその名に、伊万里は少なからず心がざわついた。

(おまえは誰?)

か。吾は九尾のやいばなり)

 黒布をまとった体からボコッという音が鳴り、一瞬彼の体がゆらりと揺れた。

(九尾の──やいば?)

 みるみる伊万里の表情が険しくなった。

(おまえは、焔!)

 名を口に出すのさえ腹立たしい。振るう者の魂をかてとし、斬った者の魂を喰らう悪食あくじきの妖刀。

(ここはどこだ? どうしておまえがいる?)

 焔が(くくく)と笑った。

(ここは、おまえの意識の中。そして、吾の意識の中。どうしているのかと聞かれると──そうだな、あるじやいばとなるために)

 まるで、何かの問答もんどうのような答えだ。焔がさらに続けた。

(それに、壬にも言ったが、それは吾の本当の名ではない)

(そんなこと、どうでもいい! 私の前から──、壬の腕から消えろ!)

 伊万里は目の前の黒い影に怒りをぶつける。しかし、はたと彼女は息を飲んだ。

(今……、壬にも言った、と言うたか?)

 震える声で伊万里が尋ねる。焔が頭をかしげ返した。

(ああ、ずいぶんと前に言うたな。必要とあらば、いつでも吾を呼べとも)

(そんなこと──)

 壬はひと言も言ってはいなかった。焔と話したことがあるなんて、そんな大事なことを壬は一度だって話したことはない。

 伊万里は信じられないと頭を左右に振った。

 焔が(くくく)と笑い声を漏らす。

(聞いていないか。が、それは自身が招いたこと)

 焔が言った。

(おまえは、誰も信じてはおらぬ。おまえ自身も、おまえを守ろうとしている壬さえも。そのような者に話す言葉などあろうはずもない)

(黙れ……。知ったような口を──!)

さやを差し出さぬから、そのようなことになる)

 言って焔がずいっと伊万里に詰め寄った。

(難しいことを考えず、望むままに素直になればよい。壬はおまえをでてくれようぞ)

(そんなもの、望んではおらぬ)

 伊万里は焔をきっと睨んだ。

(おまえなどいらぬ。二代目さまもいらぬ。私は、何もいらぬ、誰もいらぬ)

(……くくく)

(何がおかしい?)

(吾には、おまえが恋い焦がれている様にしか見えないが?)

 赤い眼が伊万里を射抜いた。

(信じようとはしないのに、そのくせ身も心も愛されたいと恋い焦がれる、ないものねだりの娘が一人おるだけにしか見えぬ)

 伊万里は必死に首を振った。

(違う……)

(何が違う?)

(私は、壬を縛りたくない)

いな。おまえは、壬には無理だと思うておるだけだ。あやつの今も、そして先も、何ひとつ信じておらぬ。あやつに何かを背負わせて、責められるのが怖いだけ)

(やめて、私は──)

 伊万里は両手で顔を覆った。

(お願い……。もう消えて──)

 伊万里の声は闇に飲み込まれた。

 


 見慣れた明るい天井がまず伊万里の目の中に飛び込んだ。

「ここは……」

 いつの間にか布団に寝かしつけられている。着ている物も、小袖から楽なルームウエアに変わっていた。彼女は起き上がると部屋の中を見回した。障子戸が開け放たれていて、秋風がさわさわと涼しい。外からは鈴虫の声が聞こえる。そして部屋の中央には、阿丸を枕に足を放り投げ、制服姿のまま寝ている壬がいた。ここは伏宮家の大座敷だった。


 伊万里は布団から這い出ると、そろりと壬に近づき様子をうかがった。

 親蜘蛛が紛れ込んだお化け屋敷の会場で、壬に退しりぞくよう懇願していたところを親蜘蛛に襲われた。あの後、一体どうなったのか。なぜ、焔が自分の前に現れたのか。

 壬は気持ちよさそうに寝息をたてている。伊万里は、彼が仮死状態ではないことに、ひとまずほっとした。

 しかし、彼の胸に乗っている右腕を見て、彼女はぎょっとした。手首につけていたはずの白いリストバンドがなくなり、焔の赤黒いあざがむき出しになっていた。

「どうして──」

 にわかに伊万里の鼓動が早くなった。

 その時、

 突然、伊万里は手をぎゅっと握られた。

「えっ」

 驚いて、寝ているはずの壬を見ると、彼が目を開けてこちらを見ていた。

「気分どう? 腹の傷、痛くない?」

 言いながら壬がゆっくり体を起こす。伊万里はびっくりして、思わず握られた手を引っ込めた。 

「だっ、大丈夫です! 全く、全然!!」

「なら、良かった」

 壬がほっと息をついた。阿丸が迷惑そうに起き上がり、うーんと伸びをする。

「阿丸、ありがと。おかげでゆっくり眠れた」

 壬が阿丸の背中を叩くと、阿丸はぶるんと体をひと振るいして、のっそり部屋を出ていった。壬はそれを見送ってから、伊万里に向き直った。

「ここまで、ジロ兄が連れて来てくれた」

「次郎さまが……」

「うん。家に着いた頃には傷口からの血もすっかり止まっていたし、親蜘蛛の毒も自然と抜けるだろうから寝かせてろって。あっ、服に着替えさせたのは母さんだから」

「圭と千尋は?」

「圭と千尋は後始末で学校に残ってるはず。ごめん、俺もその辺りから途中で寝ちまって……。家に着いたときに一度は起きたんだけど、伊万里は心配ないって言われたら安心して、また寝ちまった」

 壬が一気に説明した。そしてひと呼吸おいて、彼は伊万里をぎゅっと抱きしめた。

「ほんと死ぬと思った。ああいうの、二度となし」

「……ごめんなさい」

 壬の腕の中、伊万里が謝った。彼の広い胸は心地よく、ごつっとした腕は安心する。

 ずっとこのままだったらいいのに。

 伊万里は思った。しかし、すぐに彼女は壬の腕を解いた。

 彼の腕の中は名残惜しかったが、今は聞きたいことがある。伊万里は、遠慮がちに口を開いた。

「あの後、どうなったのですか? 親蜘蛛は?」

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