初めてのお仕事(2)

 どれほど待っただろう。東の空に浮かんでいた月がちょうど空高く昇りきったころ、玄関先でどかどかと足音がした。

「おう、帰ったぞー!」

 まず、総次郎が騒々そうぞうしく玄関先の庭へ入って来た。次に圭と壬が、なだれ込むように続いた。

 涼しい顔の総次郎とは対照的に、二人は泥まみれで傷だらけだ。

「圭ちゃん、壬ちゃん」

 千尋が二人に駆け寄った。壬が疲れ果てた顔で「ただいま」と答える。刹那、圭が壬を押しのけ千尋に抱きついた。

「け、圭ちゃん?」

 人目も気にせず、すがるように抱きついてくる圭を千尋は戸惑いながら受け止めた。しかし、そんな圭を総次郎が無理やり千尋から引き離した。

「まず風呂に入って、全部きれいに流してこい。少しは頭が冷えるだろ。千尋に甘えたいのなら、それからにしろ!」

「………」

 圭がイラッとした目で総次郎を見た。しかし彼は、すぐに気まずそうに目をそらし、縁側へ刀を無造作に置くと、ふらふらと家の中へと入っていった。

 総次郎が「やれやれ」と息をつく。

「まあ、初めてだからな。あんなもんだろ。千尋、あと適当に頼むわ」

「うん。分かった」

 そして総次郎は壬を見た。

「壬、おまえは大丈夫みたいだな」

「別に大丈夫ってわけじゃないけど……」

 お風呂を圭に譲って待つくらいの余裕はある。ただ、壬にしてもさっさと全てを洗い流したい気分だった。縁側に立つ伊万里が気遣うように笑った。

「さあ、上がってください。冷たいお茶でも用意します」

「…圭が終わるまで、大広間で休んでる」

 そう言って、壬も刀を縁側に置くと家の中へと入って行った。

 圭と壬がいなくなって、ようやく総次郎が縁側にどかりと腰を下ろした。

「伊万里、台所に行くついでにあさ美ちゃんに酒でも持ってきてってお願いしてくれるか?」

「はい。こちらでお飲みになりますか?」

「ああ、月を見ながら。煙草も吸いたいしな」

「承知しました」

 伊万里が小さく頭を下げる。千尋が「私も行く」と伊万里に続いた。

 

 伊万里と千尋は台所に行き、あさ美に総次郎の酒とつまみをお願いした。そして伊万里は壬のお茶を大広間に持っていくことにした。千尋は、お風呂を終えた圭がきっと何かを飲みに台所に来るだろうからとそのままそこで待つことにした。

「千尋、圭が終わったら教えてくれますか?大広間にいますので」

 伊万里は千尋にそう頼むと、大広間に向かった。


 大広間では、壬が月明かりに照らされごろんと一人横になっていた。

「お茶をお持ちしました」

「ああ、ありがとう」

 壬が起き上がり、グラスに入ったお茶を一気に飲み干した。伊万里はからになったグラスを受け取って傍らに置くと、壬の隣に座った。

 伊万里は壬の右手首をちらりと見た。手首は変わらずリストバンドでほむらあざが隠されていて、そこになんの変化もないことに伊万里は内心ほっとした。

 伊万里は壬に話しかけた。

「怪我は?」

「や、かすり傷程度だから別にどうってことない」

「…疲れました?」

「ん、まあ」

 壬がためらいがちに口を開いた。

雑蟲ぞうこが見えるようになって、だいぶ慣れたと思っていたんだけど、夜の山ってのはまたちょっと違ったな」

「そうでしたか」

「それで──」

 一度口を開いたら、言葉がせきを切ったように壬の口からあふれ出した。

「ジロ兄の『いびつに曲がったたま』っていうのも分かった。昼間見る雑蟲ぞうことは違って、どいつもこいつも殺気立ってて…。訳も分からず敵意を向けられて、そいつらを何度も何度も斬り払った。大きな蜘蛛みたいなのも出てきて、あれは圭と二人でなんとか仕留しとめたと思う」

 話しながら、今夜のことがまざまざとよみがえる。

 狂ったように襲いかかってくる雑蟲ぞうこたち。それを斬り払い続けているうちに、狂っているのは相手か自分か分からなくなった。

 壬は伊万里をじっと見つめた。


 伊万里に触れたい。


 突然、心の奥から我慢できない感情が沸き起こった。そして、そう思い終わらないうちに、自然と彼女に手が伸びた。

「そんで…、途中から殺してんのか、何してんのか分からない感じにぐちゃぐちゃになって──」

 彼は伊万里を引き寄せると、そのまま彼女を抱きしめた。

「ごめん、今ちょっと気がたかぶってる」

「…はい」

「俺、なんか変だ」

「はい」

 伊万里はじっと動かない。壬は彼女の背中と腰に手を回し、首筋に顔をうずめた。

 彼の唇に伊万里の柔らかな肌がかすかに触れる。手を回した彼女の腰は、簡単に折れるのではないかと思うほど華奢で細い。

 もっと──。

 抑えきれない感情にまかせ、その手を彼女の服の中へと滑らせようとしたその時、


「流しましょうか」


 伊万里の落ち着いた声が響いた。

「流す?」

「はい、流します」

 言って伊万里は壬の腕を静かにほどくと、彼の手を取った。

「覚えていますか? 初めて会った日に、もやもやとした気持ちを尾振おぶの渓谷に流したでしょう?」

「ああ、あれ……」

 伊万里が小さく頷く。そして彼女は、両手で壬の手を包み込んだ。

「今夜は風にのせて流しましょう」

「……」

 たかぶる気持ちを何気なくさくっと摘まれ、壬は拍子抜けした。しかし同時に彼は、ほっとした。

(危なかった──)

 もう少しで乱暴な感情で伊万里を傷つけるところだった。

 自分で自分が嫌になる。

 しかし、目の前の伊万里はそんな自分の気持ちを知ってか知らずか、無邪気に笑っていて、それが壬にはありがたかった。

「さあ、目をつぶってください」

 彼女に促され、壬は目をつぶる。手の中がじんわりと熱くなり、目を開いて見てみると手の平にぼんやりとした光の玉が出来ていた。

 伊万里がふうっとその玉を吹く。玉は夜風に乗ってふわりと舞い上がった。

「お疲れさまでした」

 夜空に消えていく光の玉を見ながら伊万里が言った。

「うん」

 壬は彼女に頷き返した。ついさっきまでのぐちゃぐちゃな感情が嘘のようだった。

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