3)相手のいない花嫁
相手のいない花嫁(1)
壬たちは夕飯の時に、両親に明日の予定とその説明を受けた。千尋が巫女役をすること、婚儀の礼には伏見谷だけでなく、他で暮らす多くの縁者など大勢がやってくること。
圭はその間ずっと笑うこともなく一人不機嫌そうに黙々とご飯を食べ、食べ終わるとそのまま部屋に消えてしまった。
対照的に両親はかなり上機嫌で、「これが終わったら服をもっと買いに行こう」とか「今度、夏祭りがある」とか、伊万里にいろいろと話をしていた。壬はというと、不機嫌と上機嫌の間に挟まれてご飯の味もままならなかった。
圭が消えてからしばらくしてようやく夕飯が終わり、伊万里も自分の部屋へ戻った。壬はお風呂に入ってから部屋に戻った。今日一日いろいろあった。なんだか、何もかもが現実じゃないかのようだった。
壬たちの部屋は離れにある道場の二階だ。猿師の稽古は月に二回だが、圭との手合わせは夕飯のあとに毎日のようにやっていた。しかし、今日は道場も真っ暗で、二階に上がると圭の部屋も真っ暗だった。
(そうとう怒ってるな、圭の奴)
無理もない。壬自身も先に伊万里に会っていなければ、どう感じていたか分からない。
兎にも角にも明日、面倒なことを全てを終わらせればいい。そうすれば、すべてがいつも通りに動き出すような気がした。
そして壬も部屋着に着替えるとベッドの中に潜り込んだ。
次の日、伏宮の家は朝から大騒ぎだった。壬はガヤガヤとした喧噪に起こされたのだが、やおら台所に降りていくと、荻原商店のおばさんが流しに立っていた。
「あら、遅い。圭坊はとっくに食べ終わったよ」
「おはよう。母さんは?」
「そりゃ、大広間で準備だよ。壬坊も早く食べて。手伝ってもらいたいことがたくさんあるんだから」
「圭は?」
「
「ふーん」
壬は少しだけホッとした。機嫌の悪い圭と一緒にいても気まずいだけなので、いっそ婚儀の礼が始まるまで顔を合わせない方がいい。
「じゃあ伊万里は?」
「鬼姫さまかい? きれいな子じゃないか」
おばさんが少しうわずった声で言った。
「姫さまは、一日かけて身支度だ。さっき朝食を食べ終わって、裏の井戸場に身を清めに行ってるよ。あ、姫さまは
「べ、別に行かねえよ」
おばさんが「あはは」と笑った。
「ごめんごめん。じゃあ、さっさと食べたら、酒屋にでも行ってもらおうか。御神酒を取ってきておくれ」
壬はその日は一日中、婚儀の礼準備を手伝わされた。酒屋におつかい、蔵から屏風を出し、座布団を干し、膳を用意し──。本当に夜までに終わるのかと思うほどだった。玄関から近い大客間には、朝から顔も知らない大人たちが多数出入りし、気の早い者はすでに酒を飲んでいるようだった。
そして、ようやく日も傾いて少し涼しい風が吹き始めた頃、圭が戻ってきた。
「ただいま」
圭が大広間に姿を現したとき、壬は大量の座布団を並べ終え、猿師の監督のもと数センチのレベルで座布団の配置を修正していたところだった。
「おかえり。千尋は?」
「奥の客間、鏡がある部屋。姫ちゃんもだろ」
「たぶん。朝からあの辺りは男子禁制だから近寄れない」
「いや、もう大丈夫だろう」
目を細め座布団の並び具合を確認しながら猿師が言った。
「ここはもういい。圭も戻ってきたのなら、一緒に制服に着替えて客間へ行け」
「行っていいのか?」
「ああ。あさ美がいるだろう。そこで式の段取りを聞いておけ」
一方、千尋は緊張でドキドキと鳴る心臓を抑えながら、奥の客間に向かっていた。巫女装束を身にまとい、長い黒髪を後ろできつく縛り上げ、金と赤の水引の花飾りをつけた彼女は、どこから見ても清廉な巫女だった。
部屋が近づくにつれて、あさ美と伊万里の話し声が聞こえてきた。障子戸は大きく開かれ、あさ美が伊万里に口紅を塗っているところだった。
「こんばんは。千尋です」
彼女はひと呼吸して、部屋の外から声をかけた。
部屋には大きな鏡台が置いてあり、深紅の打掛を羽織った伊万里が丸椅子に座っている。長い髪を背中あたりでゆったりと結び、蝶の形に結ばれた紅い組紐が黒髪に映え、頭上に白い角がちょこんと生えている。ちらりと見える頬はうっすらと紅潮し、その
「どうぞ入って!」
あさ美が言った。千尋は遠慮がちに一礼しながら部屋に入った。唇を塗られて身動きできない伊万里が目だけを千尋に向けた。
目が合った途端、深紫の瞳がふわりと微笑んだ。
なんて綺麗な子なんだろう。
千尋はあらためて思った。
昨日、ほんの少し言葉を交わしただけだったが、あの短い時間でも彼女がいわゆる「嫌な女」ではないことは、すぐに分かった。
むしろ、
相手が決まっていないとはいえ、伏宮の家に嫁として入るわけなのだから、今は誰のものでもなくても、そのうち誰かのものになるかもしれない。
自分の心の内が逆波だつのが嫌なくらいに分かる。
(今は怒っている圭ちゃんだって───)
だいたい圭が怒っているのは、この輿入れ話が突然で強引だったこととか、狐の里に鬼という異種族を招き入れることであって、伊万里そのものについてじゃない。
そもそも、大人の都合で伏見谷にやられた伊万里もいわば被害者だ。そう考えると、昨日からこっち、彼女に対して腹を立てる要素など本来は何もないことに千尋は十分気づいていた。
「はい、終わり」
あさ美が口紅を塗り終わり、筆を鏡台に置いた。伊万里があさ美に一礼する。
「
そして彼女はすぐに千尋に向き直った。
「今日は私のためにありがとうございます。千尋とお呼びしても?」
「もちろん」
「それにしても、さすがは巫女さま。まるで朝の湖水のよう……」
「え、いや、そんな──」
伊万里に言われても嫌味にしか聞こえない。そして、そんな風にしか受け止められない自分が嫌だった。
ややすると嫌な顔をしそうになる自分を千尋は笑ってごまかした。
「巫女って言っても、そんな上等なものでもないし」
「そんなことありません」
言いながら、伊万里は千尋のもとへ歩みより、さっと頭を払った。
「今日は特に気をつけないと」
「やだ、またなんか付いてた?」
伊万里がふふっと苦笑した。
「千尋は隙がありすぎます。これは……、みな取り合いになりませんか」
「取り合いって、私、全然もてないし!」
千尋が慌てて否定すると、あさ美が「あはは」と笑った。
「圭のガードが固くてねぇ。まあ、寄せつけないったら。壬もああ見えて圭と大して変わらないし、イマちゃんも気をつけなさいよ?」
「私までどうして?」
するとあさ美が両手を合わせ、天井を仰いだ。
「だあって~、壬ったら昨日あんなに強引にイマちゃんを部屋に連れ込んだりして、もう大胆っていうか、あんな子に育てた覚えは──」
「おおいっ!!」
廊下から壬の大声が響いた。三人が廊下に目をやると、制服に着替えた壬と圭が立っていた。
「人聞きの悪い言い方をすんじゃねえよっ」
「あら、いたの?」
いきなり水を差され、あさ美が「つまんない」と肩をすくめた。
「
「その先生にこっちに行けって言われたんだよ。だいたい、準備に朝からどんだけ時間がかかんだ。さして変わらないっつーの」
と、ぶつくさ言う壬と伊万里との目が合う。
「壬、代わり映えしませんか?」
「え?」
アイメイクのせいで一段と大きくなった深紫の瞳が壬をとらえる。
「いや、少しくらいは…」
壬は直視できずに言葉を濁してそっぽを向いた。傍らであさ美が吹き出しそうになるのを必死にこらえている。
「なんだよ!」
「ああ、おもしろい。よし、じゃあ圭も壬も入りなさいな。みんな揃ったところで今日の流れを説明しておくから」
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