相手のいない花嫁(5)

「あんた、狐の家に嫁に来たんだろ。儂も狐だ。なあ、儂と枕を交わさんか」

 しわが深く入った顔をいやらしく歪ませながら年老いた男は言った。壬も圭も見たことがない者だった。隣で稲山の大叔父と猿師が「篠平しのひらの老いぼれがっ」と舌打ちする。老人はさらに続けた。

「その体で谷の連中に取り入ったのか。誰と寝た? ……おさか? 稲山か、それとも猿か? 嫁ぐ相手もおらぬのに輿入れなど、要は誰でもいいんだろう? ならばその足、儂にも広げてくれんかの」

 伊万里がカッと顔を真っ赤にする。猿師がすかさず立ち上がり声を上げた。

「姫、心を乱してはなりません!」

 刹那、伊万里の負傷した右腕から黒い影のようなものがあふれ出た。そして、影は一気に膨らみ老人へ襲いかかった。

「うっへえっ!!」

 今まで嫌みな笑みで口の端を歪めていた老人が青ざめ尻もちをついた。伊万里がとっさに右手をかばい、必死で黒い影を抑える。その拍子に、巻いていた包帯がほどけ、どす黒く変色した右手があらわになった。

「きゃあああっ」

「うわあああっ」

 みなが膳を蹴って広間の端へと後ずさりした。そんな中、篠平の老人が伊万里を指さしながら大声で叫んだ。

「じゅっ呪詛だ! 儂を呪い殺そうとした!」

 広間が騒然とする。伊万里が必死に首を左右に振った。

「ち、違います!」

「何が違うもんか、やっぱりこいつは鬼だ、鬼姫だ!!」 


「うるせえっっ!!」


 壬の大声が広間に響いた。騒ぎ声がピタリと止み、みなが一斉に上座を見た。

 上座左手に座っていた双子が立ち上がり、会場にいる全員を睨んでいた。そして彼らは、伊万里と千尋のもとへとやってくると、篠平の老人の間に割って入った。老人がたじろぐ。

「伏宮の小せがれたちが何を……」

 壬は老人を一瞥し、すぐに伊万里を振り返った。彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。

「壬……」

「こんな奴にかまうな」

 言って壬は伊万里のどす黒い右手を握った。どこからか「うわっ」という声が上がり、その場にいた誰もがぎょっと目を見張った。

「行くぞ、伊万里」

「壬っ、手が──! 離してくださいっ」

「いいから」

 壬は答えた。が、握る手に灼熱の棒を持ったような激痛が走る。

(握っただけで、こんなにひどいのか!?)

 首筋から汗が一気に噴き出てくる。

 握るくらいどうってこないと思っていた。伊万里があまりに平然としていたから。


 いや──。


 平然ではない。壬の手の中、彼女の小さな手が震えていた。

 呪詛を受け、侮辱され、みなのさらし者にされ、平然でいられるわけがない。

 

 今、彼女の手を絶対に離すわけにはいかない──。


 壬は奥歯を食いしばった。

 すると、老人が自分を無視して歩き出した壬たちに激昂し、飛びかかった。

「まてっ! 小せがれがっ、儂をばかにする気か──」

 懐から扇子を取り出し、二人に向かって振りかざす。

 刹那、老人の扇子がパンッと弾かれ広間の隅へと飛んだ。

「ひどすぎて反吐へどが出るね」

 圭だった。彼は素早く老人の懐に入ると、一気に床へ叩きつけた。

「仮にも祝いの席だよ、みにくいい言動は他でやってくれよ」

 篠平の老人が床でうめきながらうずくまる。圭はそんな彼の様子を見ながら「ふん」と鼻を鳴らし千尋に歩み寄った。

「千尋、大丈夫? いける?」

「うん」

 圭に声をかけられて千尋はほっと息をつく。そして、口元をキュッと引き締めると慌てた様子で壬と伊万里の前に立った。


 シャンッ──。


 再び神楽鈴の音が響き始め、壬が伊万里のどす黒い手を引っ張って歩き出す。

 もう誰も批難めいたことを言う者はいなかった。

 千尋の鳴らす神楽鈴の音に合わせながら二人はゆっくり上座へ向かった。上座の中央には二畳分の豪華な畳が敷いてあった。壬は畳に上がると、伊万里と並んで座った。そして、自分の膝の上に彼女の手を置き、手を重ね合わせた。

「壬、これ以上は……。あなたがもちません」

「黙って前見てろ。なんてことねぇ」

 そう答える壬の息は小さく乱れていた。伊万里は彼から自分の手を引き抜こうとしたが、力強く握りしめられていて、引き抜くことができなかった。

 苦しそうな壬の横顔を見ながら伊万里はぎゅっと唇を噛みしめた。

 

 壬たちに続き、圭と千尋が各々の位置に着席すると、大叔父が立ち上がった。

「本家口上こうじょう──!」

 護が立ち上がり、上座に座る壬と伊万里を見た。そして護は、ほんのわずかに誇らしげに笑ったかと思うと、静かに口上を述べ始めた。

「今宵、この時、この谷に……」

 とうとうと流れるような声で護の口上が広間中に響き渡った。

 しかし、壬の耳には何も入ってはきていなかった。手から伝わる激痛を我慢し続けること、そして、それを悟られないように前を見続けること意外に何も考えられなかった。

 護の口上は、まるで念仏か何かのように延々と続く。

 もう少し、あと少し。式さえ終われば──。それまでは大見得を切らないと。


「……お披露目いたし申す」

 広間から拍手が上がる。大叔父が再び立ち上がり、みなに言った。

「今宵は、こうして集まってもらい心から礼を言いたい。本来ならこのままうたげといきたいところだが、見ての通り、姫君は右腕に呪詛を受けておられる。祝いの席はまたに必ず設けるので、今日はこれにて御開おひらきと願いたい」

 広間になんともいえない微妙な空気が流れたが、反論する者はいなかった。

 そして、護とあさ美が立ち上がり、深々と頭を下げると、みながざわざわと立ち上がった。


 手土産を片手に解散し始めた広間の様子を見ながら壬が声を絞り出した。

「終わった、のか?」

 伊万里が「はい」と頷いた。

「壬、終わりました。もう手を、手を離して──」

「良かった……」

 言って壬が伊万里の手を離す。同時に彼は、その場にばたんと倒れ込んだ。 

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