相手のいない花嫁(3)

 伊万里が居間に入ると、圭は棚から救急箱を出していた。

「手、出して。この消毒液は透明で目立たないから大丈夫」

 言いながら彼は座卓に救急箱を広げながら座った。伊万里も彼の横に静かに座る。

「ありがとうございます」

 伊万里が手を差し出すと、圭はガーゼに消毒液を含ませて傷口に塗った。

「まあ、姫ちゃんは治癒力も高そうだし、すぐに治りそうだけど」

「そうですね。本当に良かったのに、」

「だから気持ちだけ」

 圭が答えた。

「千尋を助けてくれたお礼。それから──、すごくひどいことを言った。それを謝りたくて」

「圭、話はそれだけですか?」

 落ち着いた口調で伊万里が聞き返すと、圭が「まいったな」と肩をすくめた。

「なんでもお見通しって感じだね。千尋のことだけど、もしかして憑かれやすいの? 今日があのムカデみたいなヤツってことは、昨日も何かいたってこと? それに、あいつは昔から頭痛持ちだ」

「そちらが本題ですね」

「そ。千尋の前でこんな話をしたくない。俺、壬ほど人がいいわけじゃないから。先に言っておくよ」

 悪びれる風もなく答える圭に伊万里は苦笑した。

「千尋がよほど大切なのですね」

「そりゃ、身内みたいなもんだからね」

「そういえば、彼女は自分がもてないと言っていました」

「ふーん?」

「よほど大切に囲っていらっしゃるのかと」

「……人聞き悪いな」

「ええ。でも、千尋はそれに値します。あれほど清らかな気をお持ちでは、良きも悪しきも魅了します」

 圭が明らかに不快な顔をした。

「どういう、意味?」

「言葉通りです。私たちが清らかなものを好きなように、雑蠱も千尋のような清浄な気を好みます。そして、自覚がない分、無駄に雑蠱を引き寄せている。人間の方は、あなたが蹴散らしていたようですが?」

「……」

「正直なところ、千尋を含め、圭にも壬にも雑蠱ぐらい見えるようになってもらわないと面倒です」

「はっきり言うね。こっちはただの狐と人間だっていうのに」

「壬も似たようなことを言っていましたが……。人に変化へんげしておいて、ただの狐?」

「ああ、そうだよ。使えるのは催眠術ぐらいなもんだし」

「狐火は? 出せないのですか?」

「この前、百日紅さるすべり先生に初めて習って……、ものすごく小さい炎をやっと出せた」

「はあ、」

 相づちとも、ため息ともつかぬ返事を伊万里がすると、圭が苦笑した。

「そんなあからさまにがっかりした顔をしないでよ。さっきも言ったろ、ただの狐だって。それとも、姫ちゃんみたいに雑蠱を素手で追い払えるようになれとでも言うわけ?」

「では、千尋がこのまま何かに取り憑かれてもいいと?」

 その言葉に圭がすっと真顔になる。伊万里はそんな圭を真っ直ぐ見返した。

「あなたが本当に追い払うべきは、人ではありませぬ」


 とその時、


 ふいに伊万里の顔が歪んだ。

 そして彼女は、とっさに左手で右肘辺りをぎゅっと掴んだ。

「姫ちゃん──?」

 驚いて圭が彼女の右手を見ると、かすり傷だったはずの傷口はどす黒く変色し右手全体を飲み込み始めていた。

「姫ちゃんっ、これは──?!」

「油断しました。呪詛じゅそですっ」

「じゅ、呪詛?」

「はっ、いったい誰があんなものに呪詛を……!」

 吐き捨てるように言って、伊万里は歯を食いしばった。

 右手全体を黒く覆い尽くした呪いは腕を這うように上へ上へと登ってくる。

「ちょっ、広がってるぞ! 誰か──!」

 圭が思わず立ち上がり、その拍子に足が座卓に当たりガタンッと派手な音がした。

 同時に壬と千尋が驚いた様子で入ってきた。

「どうした!? ちょっと遅いと思っていたら、なんか大声が聞こえた──、おおっ、おまっ、なんだそれ???」

「伊万里ちゃんっ」

 壬と千尋が青ざめて伊万里に駆け寄る。

「圭、何がどうなってんだ??」

「呪詛だ。さっきの雑蠱に仕込まれていたらしい」

「なんだと……?」

「──っつ、大丈夫です。心配ありません」

「大丈夫って感じじゃないよ、伊万里ちゃんっ」

 千尋が心配そうに伊万里の肩に手を回した。すると、伊万里が肩で息をしながら、苦痛でゆがめた顔に感心の色を浮かべて笑った。

「ありがとう、千尋。あなたが触れてくれるだけで楽になる」

「俺が百日紅先生を呼んで来る! こんな状態で式なんかできるか!」

 壬が、ばっと踵を返した。

 しかし、伊万里が止めた。

「待ってください。大事おおごとにしたくありません」

「そんなこと言ってる場合かよ!」

「大丈夫です。静かに」

 伊万里が大きく深呼吸し、目を閉じた。そして低く静かな声で唱え始めた。


『不動なる地の力、もって鎮めよ──、』


 すると、腕を這い上ってきていた変色は、ちょうど肘上のあたりでピタリと止まった。伊万里が「ふうっ」っと小さく息をつく。

 千尋が圭の腕をぎゅっと掴み安堵の笑みを浮かべた。

「止まった!」

 一方、壬と圭は息を飲んだ。

「伊万里、おまえ五式術を使えるのか?」

「はい。まだまだ使いこなせていませんが」

「すごいな……。五式術なんて、先生か叔父さんが使っているのを見たことがあるぐらいだ」

「いいえ、千尋のおかげで助かりました」

「私、何もしてないよ」

「そんなことありません。千尋が触れてくれたおかげです」

「そんなにすごいのか? 千尋の気って」

 壬が言った。隣で圭も千尋と伊万里を見比べた。伊万里がそんな二人の様子を見て苦笑した。

「お二人とも、本当に宝の持ち腐れというか、罰が当たります」

「そこまで言う??」

「それより、時間がない。圭、包帯をいただけますか」

 伊万里は痛みで眉根を寄せながら言った。

 圭が「ああ」と救急箱から急いで包帯を取り出し伊万里に渡した。彼女はどす黒く変色した腕を隠すため、肘から丁寧に包帯を巻き始め、親指の付け根辺りまでを綺麗に包み込んだ。

「ひとまずこれで。あとは、できるだけ目立たないよう始終手を重ねておきます」

 その時、

「何事だ?」

 廊下で低い声がし、猿師が険しい顔で居間に入ってきた。

「大きな気の揺らぎを感じて急いで来てみれば──。姫、何がありました?」

 言いながら先生はすぐに伊万里の負傷した手に気づき、彼女の前にひざまずいた。

「呪詛──!」

「先生、申し訳ありません」

「なぜこのようなことに……」

「千尋に憑こうとした百目ムカデに仕込まれていました。一応止めましたが、これ以上は──」

「ふむ。しかし、屋敷内で百目ムカデ? 屋敷には結界があって、大きな雑蠱は入って来れないはず」

「それは、分かりません」

「どちらにせよ、この状態で放っておくわけにもいきますまい。婚儀の礼をさっさと終わらせてしまいましょう」

「やるのかよ、先生」

 思わず壬が言った。

「そんな腕で無理をしなくても……。婚儀の礼なんて、大人の都合の儀式だろ」

「いいや、この呪詛を仕組んだ者の狙いが分からない。婚儀の礼を邪魔するためなら、なおさら止めるわけにはいかん」

 猿師がはっきりとした口調で言った。そして彼は壬と圭を見た。

「おまえたちは儂と一緒に大広間へ来い。もう、このまま始めよう。ああ、それと姫」

「はい」

「気を乱されぬよう。呪詛が暴れます。何事も我らがついておりますゆえ」

「分かりました」

 伊万里が頷いた。猿師は彼女ににこりと笑い返した。

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