第五話 そんなもんさ、この世界なんて

 バイトで大切なことは何だろうか?

 物覚えの良さ? 要領の良さ? 仕事場での人間関係? 

 確かに、それらはあっても困らない。当然、あった方が嬉しい。

 だが、いくらそういう事を心掛けていたとしても、人間の才能や性能には違いが出る。どうしても物覚えが悪い人間も居るし、コミュニケーション能力が低い人間も居る。

 だから、肝心なのはどれだけ早く仕事を覚えるかではなく、『ルール』をきちんと守ることだ。

 それがきっと、最低限。最低限、それをきちっとこなせば、後は少しずつ、些細なことから経験を積み上げていけばいい。

 例えば、身だしなみ。

 必要なのはファッションの流行を抑えることではなくて、時と場合によって変わる『常識』という物を抑えること。基本的に清潔感のある格好を心掛けて、奇抜過ぎない服装を選べば大体間違いはない。ファッションセンスの有無に関わらず、とりあえず印象を悪くすることは無いだろうさ。

 そういう、ちょっとした気遣いやマナーを身に着けることが、仕事を効率化して、人生を豊かにしてくれる。

 最初から何もかもを完璧にできる人間なんて居ない。

 なので、最低限の『ルール』を守りながら少しずつ成長していけばいい。

 マスター…………貴方は俺に、そう教えてくれましたね?


「マスター! マスターはどこに居るんだ!?」

「くそ、依頼だ! 金なら払う! だから、あの化物をどうにかしてくれ!」

「なんで、こんな田舎にAランク能力者が来やがるんだよ!? 機関の奴ら、一体、何を考えてやがる!?」


 これって、明らかに少しずつ成長していけばいいという範囲を超えて居ませんか?


「…………ふぅー、お、落ち着け俺ェ……」


 俺はカウンター席で静かにグラスを拭きながら、そっと目を細める。

 『喫茶・黒鉄亭』の扉を乱暴に叩いて、倒れるように転がり込んできたのは三人の少年たちだった。三人とも、それぞれ不良っぽいファッションをした目つきの鋭い人たちであり、明らかに真っ当な人種では無いことは確かなのだが、問題はその人たちの服装に不自然な傷があると言うことだ。

 そう、まるでとても鋭い刃物によって切り裂かれたかのように。いや、実際、その通りなのかもしれない。服の隙間から血の滲んだ包帯が覗いている。恐らく、動けはするが、軽症とは呼びにくい傷の深さだろう。


「あ、アンタは誰だ!? マスターは!? あの人はどこにいる!?」

「俺はバイトです。そして、マスターは買い出しに行っています」


 俺は明らかな非日常の気配に動揺しつつも、努めてにこやかに対応する。

 そうだ、営業スマイル。営業スマイルを浮かべて、マニュアル対応。それさえすれば、大体のトラブルには対応できるってマスターが教えてくれたじゃないか!


「申し訳ありません、お客様。開店時間前ですので。もう少しお待ちになっていただければマスターも戻ってきますので、どうにか――」

「それじゃあ、駄目なんだ! 仲間が……仲間が殺されてしまう!」

「……おーう」


 よろしくない、非常によろしくないぞー、この状況は。

 ついに異能バトル系の何かが、俺の日常を浸食してきやがっている。殺すとか、殺されるとか、そういう物騒な単語がマジで交わされるジャンルはマジで勘弁だ。

 そう、俺はあくまでもラブコメを求める男子高校生。

 年上の大学生に恋をするピュアな存在なのだ。そんな、血みどろな異能バトルの世界に足を踏み入れることなど望んでいない。


「ええと、じゃあ、マスターの方に連絡を入れてみますね」

「……頼む。もう、ここしか、頼れるところが……」


 涙目で、カウンター越しに俺へ縋りついてくる不良少年A。

 おやめください、お客様。バイトへの過度な期待はおやめください、マジで。

 と、とりあえず、マスターに連絡だ。そうだ、マスターならば、こんな混沌とした状況でも、何とか対応してくれるはず――――


「っとぉ!」

「んぎゃあ!」


 俺がスマートフォンを取り出した瞬間、脊髄に氷柱でもぶち込まれたような寒気が走った。

 体がとっさに動いたのは、ほとんど運が良かったとしか言えない。慌てて、不良少年Aをカウンターの向こう側に押し返して、自分も、尻餅を着く勢いで体勢を低く。

 すると、次の瞬間、ぴんっ、という硬質的な音が響いて…………カウンターが、縦に割れた。

 まるで、不可視の刃が、カウンターを突如として切り裂いたかのように。

 あ、後ついでに、俺のスマートフォンも真っ二つに割れた。


「あぁあああああああああっ! 俺のスマートフォンがぁあああああ!!」

「くそ! なんでここが!?」

「つけられていたのか!?」

「バイトさん! 早く! 早く、俺たちの後ろへ……巻き込んじまったアンタだけは、俺たちが、命に代えてもっ!」


 そういう悲惨な決意はやめろよぉおおおおおおおお!! というか! 結構最近に替えたばかりの! 俺の! スマートフォンがぁああああ!! ちくしょう! 絶対に後でマスターに労災を申請してやるぅ!

 …………生きて、この場を乗り切れたら、な。


「――――その悲鳴、喧噪…………美しくないな、羽虫ども」


 き、きききんっ、という硬質的な音が幾度も響いたかと思うと、喫茶店のドアがバラバラに切り裂かれて、崩れ落ちる。

 そんな、ダイナミック入店をしてきたのは、妙な姿の男だった。

 黒いスーツに、胸元に赤いバラを差した、二十代後半ぐらいの伊達男。しかも、髪は虹色で、とても目に悪い。顔の造形はイギリスとか、そっち系のハーフっぽい感じのイケメンなのだが、それにしては日本語がやけに堪能だ。学があるのか、それとも何か別の理由なのか。

 いや、それよりも、警戒すべきはあのタクトだ。

 指揮者が扱うような細長いタクト。

 俺は何故か、どうってことないはずのそのタクトに対して、指先が震えてしまうほどの恐怖と警戒を抱いた。

 あれが振るわれた瞬間、『不可解な切断現象』が発生する。

 何故か、そういう確信が俺の中に生まれていた。


「機関に従わぬ低級能力者は、駆除する。それが決定事項であり、貴様らの運命だ。煩わしい蟲どもよ……せめて、選ばせてやろう。静かに死ぬか、それとも醜くもがいて死ぬか」


 伊達男は俺たちを見下して、口元に嗜虐的な笑みを浮かべる。

 そして、その手に携えられた恐るべきタクトを振い――――俺の、生まれて初めての異能バトルが開始された。



●●●



「おっらぁあああああああああ!!!」

「へぶんっ!?」


 はい、勝利ぃいいいいいいい!!

 俺は何やかんや経て、異能者と思しき伊達男の横っ面を殴り飛ばして、勝利していた。そう、勝ってしまった。なんか普通に勝ててしまったんだけど、俺。ジャンルがラブコメディだから戦闘シーンはカットしたけど、普通に戦って勝ててしまうって、なんだそりゃ。いつの間に俺はこんなに強くなっていたんだよ、ビビるわ。己の力に。


「こ、これがバイトの実力……」

「黒鉄亭を継ぐもの……黒鉄の後継者?」

「A級能力者を、一撃で……なんだ、あの怪力は……」


 恐れおののくんじゃねーよ、不良少年共。

 こちとら、ちょっと歴戦の戦士に修業を付けてもらっている最中の男子高校生だってーの。どこにでも居ないが、俺よりも強い人間なんて五万といる。事実、不可視の斬撃の軌道を見切るのに俺は五分ほどかけてしまったが、師匠ならば瞬時に見切って、あの伊達男を秒殺するに違いない。

 俺は空間に粉末状の物質――小麦粉――をばら撒くことによって、何とか軌道を可視化し、見切って反撃しただけに過ぎないからな。道具を使って、ギリギリ勝てたという感じの戦果だ。


「えーっと、とりあえず、お客様? 詳しい説明をしていただけますか? その、マスターが来るまで俺の方が対応しますので」

「「「は、はいっ」」」


 だから、凄まじい何かを見るような目は止めてくれ。

 俺は異能者の伊達男を、ガムテープでぐるぐる巻きにして拘束。ついでに、まともに意識を戻せない程度に痛めつけて、念入りに無力化する。

 相手は異能者なんて訳わからない存在だ。やり過ぎると言うことは無い。というか、普通に殺されかけたのだから正当防衛よ。


「実は、機関の奴らが俺たちのチームをいきなり襲って来たんです」

「今までは俺たちのような低ランク能力者のチームは放置されていたのに」

「きっと、上層部の首が幾つかすり替わったんだ……にしても、いきなりAランクの過激派を送り込んでくるなんて」

「抗争が始まるのか……」

「せめて、俺たち弱小チームは集まって同盟を結ばねぇと」


 それよりも問題は、試しに不良たちへ事情を尋ねてみたらガチで異能バトル系の会話を始めやがったことですよ。しかも、こっちが異能者とか、機関とかそういうのを既に知っている体で話して来やがる……すみません、出来れば異能者とは何かの所から説明してください。いや、やっぱりいいです。何も聞かなかったことにしたい。


「ふむ。やはり、既に襲撃されていたか」

「ま、マスター!」

「鈴木少年、無事で何よりだ」


 俺が不良少年たちの愚痴や悩み事に対して適当な相槌を打って時間を稼ぐこと十分、ようやくマスターが帰還した。その手には幾つもの買い物袋があるが、その買い物袋の中に黒くて物騒な物体――多分、拳銃――が突っ込まれている。

 うわぁ、若干、硝煙の匂いがするぞぉ。師匠が銃刀法をガン無視して、山の中で銃の使い方を教えてくれた時と似たような匂いがするぞぉ。


「マスタぁあああああ!! なんかお留守番していたら、不良少年が慌ててインして、その後を追って、伊達男がタクトでドカーンしてぇ! 俺が小麦粉を使って、ぴきぃんっ! と見切って辛うじて倒したけどぉ! 説明してください、この状況をぉ!」

「鈴木少年、君が落ち着いて状況を説明してくれ。いや、大体言いたいことは分かったが」

「あぁああああああ! 俺のスマートフォンがぁああああ!!!」

「分かった。今回の事も含めて、きちんと弁償しよう」


 とりあえず、俺は何とか落ち着いてマスターに事情を説明。

 開店時間前に来ていた不良たちに、マスターは眉を顰めつつも、お咎めは保留。

 それよりも、本来であれば『中立地帯』となっているはずの店への襲撃をマスターは問題視しているようだ。


「…………ふぅー。以前、散々思い知らせてやったはずなんだがな。どうにも。あの機関は少しばかり喉元過ぎれば熱さを忘れる馬鹿共が多いらしい」

「ま、マスター? 人殺しの目をしているよ? 俺の師匠と同じ目をしているよ?」

「一般人であるバイトの鈴木少年を巻き込んだ上に、俺の店を荒らしやがって……予備があるとはいえ、一式揃えたリプレイ本を駄目にしやがって……」

「マスター。人殺しの目をしながら、お気に入りに玩具を壊された子供の声を出さないでください。超怖い」

「ふ、ふふふふっ、そうか、そうか。機関、貴様らはそういう奴らなんだな、よくわかった」


 マスターが、常に無表情なキリングマシーンみたいなマスターが笑みを浮かべている。

 それは獰猛な野獣ですら、一瞬で戦意を失って子犬の如く媚びへつらってしまうような迫力のある笑みだった。

 そんな、恐ろしい笑みを浮かべたまま、マスターは壊れたカウンターの下……のさらに下にある床下の倉庫から、何やら黒いアタッシュケースを取り出した。


「鈴木少年。俺はこれから用事が出来たので、申し訳ないが、今日のバイトはここまでだ」

「あ、はい」

「今回の件に関しては、後日、改めて謝罪させてもらう。慰謝料は明日中には君の口座に振り込んでおこう」

「よ、よよよろしく、お願いしまぁす……」

「では、また来週」


 俺は震えた声で、マスターの背中を見送る事しかできない。

 あのアタッシュケースの中に一体、何が入っているのか? とか、機関と呼ばれる組織が果たして、明日まで残っているのか? とか、そういう疑問を出来るだけ考えないようにして、俺は自宅へと帰っていった。

 うん、マスターだけは何があっても怒らせないようにしよう。



●●●



 正直に言おう。

 俺は、何度もこのバイトを止めようと思った。

 遊ぶ金欲しさで始めたバイトであるが、既に、その金もマスターから俺の口座に振り込まれた金で、目標額をあっさりと超えてしまった。

 超えてしまったというか……超え過ぎているというか、中流サラリーマンの年収以上の数をぼーんと、振り込まれていた。明らかに、諸々の口止めも含まれている金だった。

 そう、やばい。やばいね、この仕事、やばすぎるね。何がやばいってこんなに大金が一気に手元に転がり込んで来て、税金とか諸々大丈夫なの? と尋ねた時のマスターの回答がやばい。


「心配するな、鈴木少年。国には話がついている」


 どんな話がついているんだよぉおおおおおおお!! 話をつけた相手が国家規模ってなんだよもぉおおおう!! 結局、あの後、機関とやらのお偉いさんが喫茶店に土下座に来るしさぁ! 明らかに只者じゃない中年の人たちがマスターに命乞する隣で、俺はセッションのシナリオ書かされていたしさぁ! 『臨場感が違うだろ? 参考にしてくれ』じゃねーよ! ペンが震えて、碌に書けなかったわ! 仕方ないから、ノートパソコンでシナリオ書いたけど! 不服なことに参考になったけどぉ! 

 うぅ……こんなことばっかりだった。『喫茶・黒鉄亭』でのバイトの日々は、俺の日常を非日常に塗り替えてしまう程度には刺激的だった。命の危機を感じたのも、一度や二度じゃない。その度に、マスターから慰謝料が振り込まれるのがとても複雑な気分になった。

 何度も、何度も、こんな仕事を止めてやるって思った。

 でも、結局、今日まで辞めなかったのはきっと、この時を待ち望んでいたからだろう。


「あれー、はるるんじゃない! 久しぶりぃー」

「どうも。久しぶりですね、飛鳥さん」

「あはははは! 相変わらず、小生意気そうな面をした奴だなぁ、君は!」

「おやめください。店員へのボディタッチはおやめください」


 俺は、一か月ほどバイトを続けた結果、ようやく飛鳥さんと再会することが出来た。

 カウンター席から飛鳥さんの姿がドアから現れた時の喜びは、もはや筆舌に尽くしがたい。感動のあまり涙が出そうになってしまったけれど、そこは一か月間、バイトと修業で鍛え上げられたポーカーフェイスが隠してくれた。


「というか、えー! はるるん、ここのバイトになったんだ!? すっごーい! いや、私ってばお金の無い高校生時代にバイトを頼み込もうとしたら、あっさり断られてさ! てっきり、マスターは誰もバイトを雇わない方針だと思ってたよー」

「あははは、でしょうねぇ」


 ランランと目を輝かせる飛鳥さんに気圧されつつも、俺は何とか受け答えをする。

 大丈夫、胸に秘めたときめきは表に出ていない。初対面と同様の、生意気そうな男子高校生を演じることが出来ている。流石だぜ、俺。


「それでそれでー? 時給はどれくらい?」

「基本的に、時給は千円ですね。オプションで色々追加されますが」

「オプションって」

「本業関係ですので、お答えできません」

「えー」


 飛鳥さんが不服そうに唇を尖らせる。

 可愛い。なんかもう、可愛い。格好いい系のお姉さんが、そういう子供っぽい動作するの、とても可愛らしい。


「いいじゃん、はるるん! 私と君の仲でしょ!? ちょっとだけ! ねぇ、先っぽだけ教えてよ!」

「たった一度、セッションを共にした仲の癖に、何を言っているんですか?」

「一緒に世界を救った仲じゃん! ちゃんとヒロインロールをやってあげたじゃん!」

「黙れ、軟体生物」

「ぶーぶー! サービスしてあげたのにぃ」


 駄々っ子のように文句を言う飛鳥さんであるが、俺としては口が裂けても本業の事は言うつもりは無い。飛鳥さんを僅かでも命の危険に晒させてなるものか。

 恐らく、マスターが飛鳥さんに厳しく接するのも、そのためだろう。付き合いの長い友人である飛鳥さんが、万が一にも危険な目に遭わないように。


「ねぇねぇ、こっそりと! マスターに内緒で、こっそりぃえああああああ!?」

「お客様。申し訳ありませんが、これもルールで御座いますので」

「わかった! わかったから、マスター直伝っぽい、アイアンクローはのぉおおおお!!」


 俺は心を鬼にして、アイアンクローを飛鳥さんにくらわせた。もちろん、きっちりと手加減はしている。それでも、やっぱり恋をしている相手に暴力を振るうなんてとても辛い。ちょっとだけいけない快感があるが、大部分はしんどい。

 こういう時は、さっさと話題を切り替えて飛鳥さんの思考を逸らそう。


「それで、ご用件は?」

「客に暴力を振るった後に、物凄く営業スマイルしてくる……ええと、マスターは?」

「マスターは現在、隣のビルの一室でオンラインセッションやっていますよ。趣味で」

「趣味で!? 仕事じゃないの!?」

「大体の仕事は俺が覚えてしまったので、ええ……マスターは割と仕事をさぼってTRPGにのめり込むように」

「大丈夫!? はるるん、職場環境大丈夫!?」

「ええ、何をやっても責任は取ってももらえるので、ある意味、理想の上司ですよ。俺のバックにはマスターが付いていると思えば、どんな客も怖くありません」

「嫌な前向きさだ!」

「この間も、性質の悪いクレーマーを簀巻きにして路上に転がしてやりましたよ」

「暴力を躊躇わないぞ、この店ェ!」


 この『喫茶・黒鉄亭』ではマスターこそが法であり、店内では日本国の法律は意味を為さない。そんな世紀末な喫茶店なのだ、ここは。文句があればいつでも、暴力で応じる覚悟である。


「やけに馴染んだね、はるるん……ええと、あ、そうだ。マスターがあっちのビルを使っているってことは、今日はあっち、使用禁止かな?」

「いいえ。マスターが使用しているのは珍しく一階なので、四階は空いていますよ」

「へぇ、ラッキー。んじゃ、四時間ぐらい四階を借りられる?」

「問題ありませんよ。何か、軽食は召し上がりになりますか?」

「はるるんは何か作れるの?」

「メニューに載ってある物ならば、一通りは」

「んじゃ、フレンチトースト!」

「かしこまりになりました。では、お作りしてから四階に持って行きますので、先に隣のビルに上がって行ってください。あ、鍵は普通に空いているので、そのままで」

「ういうい、りょーかい! 楽しみにしているよん、君の料理」



 にひひ、と子供っぽく笑う飛鳥さんを見送った後、俺は「よし」と気合を入れた。


「良い感じ、良い感じだ、俺。大丈夫、ここまで超良い感じだぞ、俺」


 小さく、何度も呟いて、俺は高まる緊張を抑えつける。

 楽しみにしていると言われた。だから、頑張ろう。美味しいフレンチトーストを作るのだ。と言っても、既に仕込みは済ませているので、後はフライパンにバターで油を敷いて、マニュアル通りに作るだけなのだが。


「余計なことはしない。俺は機械。分量を守って、時間を守って、素早く躊躇わず」


 弱火できっちり、時間通りに仕込みを済ませたパンを焼いて。じゅうじゅうと、汁が出ないように焼いたのならば、綺麗なお皿に盛り付け。バターを一欠けらと、はちみつを綺麗に垂らすことがポイント。後は、粉砂糖を軽く振りかけて、はい、完成。


「うし、天才。俺、最強……にししし」


 マニュアル通りの素晴らしい出来栄えに、思わず俺はにやけてしまう。

 だが、ここで油断しないのが一流の店員。きっちりと皿にラップをかけて、さらに、持ち運びやすい様に、小型の岡持ちっぽい感じの箱に入れて。


「さて、行きますか」


 俺は逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりと隣のビルの四階まで、歩いていく。

 大丈夫だ、大丈夫だ、俺ならできる。軽食を置いたついでに、軽い雑談。自然な流れで、連絡先を交換することぐらい、俺にだってできる。

 きっちりと、仕事ができる自分を見せつけつつ、仲良くなるんだ、飛鳥さんと。


「はい、おまちどうさまで……す?」


 そんな気持ちで四階まで上がった俺を出迎えたのは、じぃっと、あの絵画の前で佇む飛鳥さんの姿だった。

 いつものふざけた態度では無く、屋上で初めて出会った時のような雰囲気。

 その眼差しは揺らぐことなく、『青空と煙草と美少女』というタイトルの絵画に向けられている。けれど、何故か俺には、飛鳥さんはその絵画ではなく、どこか、もっと遠くの場所を見つめているような気がした。


「…………ん、おおう? はるるん、何時の間に!?」


 俺の出現に気付かなかったのは、ほんの十秒ぐらいだけ。

 ただ、その十秒間で俺のポーカーフェイスは剥がされてしまい、素の自分を曝け出さなければならなくなってしまった。脳裏に焼き付いた出会いの記憶と、今さっき見つけた、美しい光景に、俺は自分を取り繕うことが出来なくなってしまったのだ。


「良い絵ですよね、それ」


 だから、とっさに口から出た言葉は俺の本音の欠片だった。

 今まで通りに軽口は言えない。でも、何かを言いたかったから、あの時、その絵を見て感動した時の気持ちを伝えたかったんだと思う。

 飛鳥さんとその絵を見つめていたから、きっと、俺と似たような気持ちだったのだと。

 共感してくれるだろうと思って、俺はその言葉を紡いだのだった。


「ん、えへへ……ありがとう、はるるん」


 それが、決定的な言葉になることも知らずに。


「その絵ね、私の彼氏が描いてくれたんだ」


 頬を、ほんのりと朱が混じる様に赤らめた飛鳥さんの表情に。

 はにかむような声に。

 嬉しさを隠せない、というに緩んだ笑みに。

 俺は、嫌というほど気づいてしまった。

 きっと、俺はこの後、無理やりポーカーフェイスを作って、さりげない会話で、飛鳥さんの彼氏について尋ねるだろう。

 付き合ってどれくらいなのか?

 どんな人なのか?

 この絵を描いた時のエピソードなども、うまく煽てて聞き出すかもしれない。

 でも、ああ、くそ…………分かってしまっているんだ、きっと。気づいてしまっているんだ、どうしようも無いほどに。理由なんて要らないほどに。

 言葉になんてしたくない。

 だって、惨めだ。

 とてつもなく、最低に。

 ……でも、形にしよう。

 すぐに目を逸らすことは確実だろうけど、それでも、男の意地として、初恋の末路として、きっちり自分の心の中で形にしよう。

 どれだけ格好悪くても、最低限のけじめとして、今だけは事実と向き合おう。



 ――――俺は、失恋した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る