第7話 星空

「一体世界はどうなってしまったんでしょう」

 もう辺りは完全に暗くなっていた。焚火の明かりだけが周囲を照らしている。電気の無い世界では闇はどこまでも深く濃密だった。

「分からない・・、全く文明が消えてしまったみたい。忽然と」

 静香さんは体育座りの膝に顎を乗せたまま呟くように言った。

「目が覚めたら、なんか・・、こんなことになっていて・・、僕は・・、わけが分からなくて・・」

「一体どのくらい時間が経ったのか。何日なのか何か月なのか、もしかしたら何年・・、それすら分からない・・」

 静香さんは落ち着いた目で静かに炎を見つめていた。

「私、あまり思い出せないの。こうなる前のことが」

「僕もです。なんだか・・、いろんなことがはっきりしなくて・・」

 月明かりが照らす幻想的な海から、静かな波の音が心地よく響いていた。

「私・・、自殺しようとしていたの」

 静香さんは静かに呟いた。視線は焚火の下の方を見つめたままだった。

「私、お風呂で手首を切って・・、それでお風呂が真っ赤になって、それで意識が遠くなって・・」

 小さな蛍のような火の粉が無数に闇に舞った。

「それだけはなんとなく覚えているの」

「・・・」

「でも、気付いたら、空っぽの浴槽で裸で横たわってた」

「・・・」

「全然、無事だった。手首の傷も消えてた・・」

 静香さんは、自分の左の手首を虚ろに見つめた。

「何事もなかったみたい・・」

 静香さんは僕の方に手首を向けた。そこには確かに傷の痕跡すらもなく、白くきれいな肌があった。

 僕はあの川沿いの溝の中で見た、カビのような生き物のことを思い出していた。

「僕も今日、転んでものすごい傷を負ったんです。でも、気付いたら消えていて」

 僕も腕を捲って右腕を静香さんに見せた。

「私だけじゃなかったのね」

「いったい、どうなっているんでしょう」

「分からない。でも、悪い事じゃないわね」

 静香さんは僕に視線を移し、小さく微笑んだ。確かにその通りだった。それは悪い事じゃない。

「不思議なことだらけです。全く不幸な状況のはずなのに、あまりそのことも感じないんです。それよりもむしろ・・」

「そう、むしろ幸福な感じさえする」

 静香さんは再び焚火の炎を虚ろに見つめた。その背景の闇は更にその濃さを増したように見えた。

「私、毎日毎日働いてた。まだ社会人になりたてで新人だったから余計。本当に早朝から夜中まで、毎日毎日。それで疲れちゃった」

「お金はあった。結構おっきい会社だったから。だから、欲しいものなんでも買った。でも、私は・・」

 静香さんの二重の凛とした目の奥に、寂しさに似た悲しみが滲んでいくのが分かった。

「何も満たされなかった・・」

「・・・」

 僕は学生だった。そして、あまり大学には行っていなかった気がする。僕もなんだか疲れてしまっていた・・。

「でも、今は不思議と満たされてる感じがする。何も無いのに。ほんとにな~んにもないのに」

 静香さんは、腕を広げ勢いよく砂浜に仰向けに寝っ転がった。

「私、まさか自分の人生でこんなに心が穏やかになる時が来るなんて思ってもなかった」

 静香さんは夜空を見ていた。

「私、昨日この浜辺で寝たの。すごい星だった」

 僕も夜空を見上げた。そこには無制限の数の星が、その輝きで歌い踊るように夜空いっぱいに流れていた。そこには宇宙があった。人間では認識することすらも出来ない無限の時間と空間があった。

「この星空もずっとあったのよね。ただそれに気づかなかっただけ・・」

 静香さんの小さな呟きが、闇の中に溶けていく。

「まだ他に生き残っている人はいるんでしょうか」

「さあ、でもいるのかもしれないわね。私たちが生き残っているんだから」

「僕、明日探しに行ってみます」

「私はしばらくここにいるわ。なんだかそうすべきだって思うの。なんだかよくは分からないけど」

 静香さんは、そう言って静かに目を閉じた。

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