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柔らかい明かりが包む扉を抜けて酒場に戻ると、そこには既に20人以上の客で賑わっていた。
キアノスはネーサにことの次第を説明し、ついでに釈然としないながらも謝罪し、焦げた籠を返した。ネーサは「どうせ近々使いやすい小さな籠にするつもりだったのさ」と笑い、キアノスに裏口の外の「本来の」ゴミ捨て場に置いてくるよう言った。
裏口は、キアノスの予想より広い空間が、胸ほどの高さのレンガ塀でぐるりと囲まれていた。
「裏庭」というには殺風景だったが、菜園らしき畑と花壇があり、簡素な棚に積まれたプランターには香草の類がぎっしりと植えられている。
キアノスは、目を好奇心できらめかせた。
キアノスには、暗闇の中の草花が持つそれぞれの魔力の“色”がピリピリと感じとれるように思えて、プランターの脇に膝をつき、無意識に精神を集中させた。
──────────
ふと夜の底冷えで寒くなり、キアノスは立ち上がった。どれくらい時間が過ぎたのか、よくわからない。
(しまった、ウッカリしてた……戻らなきゃ)
暗闇に目を凝らすと、畑の反対側の隅にレンガで囲まれた小さなゴミ捨て場がある。
ここで焼かれたゴミは畑の肥料にでもなるんだろう、とキアノスは勝手に納得し、用済みの籠をそこへ置いて、足早に引き返した。
酒場のカウンター奥では耐えきれなくなったらしいディナが椅子の上で器用に居眠りをし、テーブルを囲んでいた喧騒も落ち着いていた。
壁に掛けられた時計を見ると、とうに日が変わっている。
「さすがに長かったねえ、面白いモノでもあったかい?」
感心したようにネーサが声をかける。彼女も既にテーブルを囲む一員と化しており、手には空きかけのジョッキが握られている。
「すみません、つい、癖で……畑を見せていただいていて」
「文字通り道草を食ったってわけだ! だろうと思ったよ。お前さんたち卒業したての魔術師さんは毎年そうさ。気になるモノがありゃ必ず引っかかるんだ! ま、今年キアノスが道草最長記録を更新したけどね」
今日何度目かわからない苦笑いを浮かべたところで、キアノスは周囲の笑い声に妙な違和感を覚えた。
(明日は祝祭日でもないってのに……むしろ農業も林業も忙しい時期だってのに、数少ない働き手がこんな夜半まで飲み明かすものか?)
さり気なく酒場に屯する者たちの様子を窺う。
空のジョッキを意味もなく玩ぶ者、窓の方をしきりに振り返る者、大声で笑う声に虚勢が混じる者。集中すらしなくても、明らかに人々からは不安の揺らぎが感じとれる。
キアノスはためらった末に、ネーサに小声で尋ねた。
「そういえば、気になるついでに……さっき、僕らに用心棒とかって言いましたよね。ここら一帯は平和な片田舎だって聞いてたんですが、その、殺人鬼とかっていうのは……」
人々の目が一斉にキアノスを凝視した。酒場が一瞬にして静まり返り、次いで怒涛のように声が飛んだ。
「よくぞ聞いてくれたっ!」
「いやぁ、いつ言い出そうかと思ってねぇ!」
「君は空気が読めるぜ!!」
あまりの勢いに何も言い返せないうちに、キアノスは幾人もの手に肩口や腕を掴まれてテーブルの中心の席に座らされた。
「卒業したてっていったって、立派な一人前の魔術師さんだよな!」
「ここはひとつ、お手並み拝見といこう! 俺たちの安心も戻り! 悪事をはたらくヤツは罰を受けると!!」
「あ、あの、僕はちょっと話が聞きたいだけ……」
「キーアーノース? ちょっと、あたしがウトウトしてた間に何楽しいコトしでかしてんの?」
「え、え?」
いつの間にか爛々と目を輝かせたディナまでが身を乗り出すように話に加わっている。
「やったァ! 今度はあたし『が』キアノス『に』、巻き込まれたー!」
「し、しまった……!!」
それからの話は、混乱を極めた。
とにかく誰かの話を集中して聞きたいキアノスに対して、周りは大声で一斉にしゃべり始めたのだ。
何人もの声を四方から浴びせられて何一つ脈絡が掴めないまま、耳が勝手に断片的に言葉を拾っていく。
「……“黒い翼持つ殺人鬼”ってのが、この町の近くに潜伏して……」
「ああ、残虐な術で人を殺す狂気の魔術師だとよォ! そいつは闇夜に現れるらしいぜ……」
(狂気の、翼持つ、魔術師……)
キアノスの頭の中で単語と単語が手を取って、否応なく炎の夜の悪夢を蘇らせる。
「あ、あの、ちょっと……その魔術師の翼っていうのはもしかして、赤……」
「いやいや、ヒトに羽があるわけないだろ! 使い魔だか何だかが羽を持っててだな……」
「違う! 殺人鬼を追ってる凄腕の剣の使い手がいてさ、そいつのトレードマークが剣に刻んである黒い羽根……って聞いたぜ?」
割り込む話に更に加わる話が乗り、既に誰のどの話が出元なのかもわからなくなっている。
先ほどディナを締め上げたトルックスという男が、ひときわ大きな声で場を鎮めにかかった。
「待て待て、みんな落ち着けや! 俺が中央から来た商人に聞いた確かな話だとな……腕利きの暗殺士がいたんだが、そいつが実は殺人快楽者で、依頼者がいなくなっちまったんで誰彼かまわず襲い始めたんだと! 今じゃ賞金かけられて、中央のバウンティハンターはみんなそいつを追ってるらしいぜ」
「さすがトルックスさん、それ俺も聞いたことある、魔術も使えるからハンター泣かせってな。で、仕上げとばかりに黒い羽根を犠牲者の死体に刺して去るんだってさ! 狂ってるよな」
頷く者、首を振る者、嫌な話題を洗い流そうとひたすらグラスを呷る者。
キアノスは困ったようにキョロキョロと周りを見ると、ネーサの視線とぶつかった。
「ネーサさん、どれがホントの話なんですかね……?」
「あたしにわかる訳ないさァ、ただねぇ……確かに最近……」
ネーサは意味ありげに声を潜める。
「……タチの悪いこそドロが出てね」
「こそ……ドロ?」
「そうさぁ、昨日も畑のよく熟れたナリムの実やら掘りたての芋やらごっそり持ってかれてサ……」
どうやら、また別の話が出てきてしまったようで、キアノスは天井を仰ぎ見た。
「ハハハ姉さん、困らせてるじゃないか!」
ネーサの反対側に座ってずっと笑っていた男が、キアノスの脇に割り込み、肩に肘をもたせかけて話しかけてくる。
「魔術師さん、実のところ犯人はな……人間じゃないんだ、ホントに黒い翼を持ったバケモノなんだ。だから誰も怖がって手を出さないんだ」
まことしやかに囁く男とキアノスに別の声が割って入る。
「いやいやいやぁ、そのバケモノを追ってんのがさっき言った黒い羽の紋章の剣士でさぁ……」
途方に暮れたキアノスは、半分やけっぱちで声を上げた。
「ああ、そういう訳で皆さん夜は心安らかに眠れず、こうして夜通し飲んでる……と!」
各々の話をがなり立てていた人々が、一斉に肯定の声を返して大きく頷いた。
「そうそう、話がわかるじゃないか! お前さんも朝まで付き合いな」
「えぇ!? そ、そんなぁ……」
上滑りしたような笑い声と、必要以上のアルコールが、キアノスの周囲を埋め尽くしていった。
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