〈第2章 黒い魔術師と異変〉

黒い噂

 アーチェン街道は、大陸の東地方と中央都市を結ぶ古い道である。

 森林に覆われたレインバスト地方に端を発し、険しい山中を蛇行しながら抜けると、一転して開けた草原に出る。草原を貫くようにさらに西へ西へと進めば、最終的にレントラック中央都市へと辿り着くという長い道程だ。

 荷車が通れる程度の幅を確保された道は延々と続き、日々多くの人・物を運んでいる。

 大陸東部のほとんどの地域は、このアーチェン街道から根のように分かれた細道によって繋がっているのである。


 街道沿いには大小様々な町がある。

 ある町には多くの宿が立ち並び、行商人たちが仮設の店を開いて商売をしている。またある町では賞金首を追ってレントラックからやってきたハンターたちが、次の獲物の手がかりを求めて大きな酒場に集う。

 一方で街道から外れると、ならず者たちが地下組織を作り、レントラックや中央魔術協会ファラ・クロウントへ潜入する術を日々模索しているという話も流れてはくる。

 ただ、中央都市は未だ許されざる者を入れたことはなく、今のところ単なる噂で止まっていた。


 シェル・レーボは、そんな噂すら届かないような位置にこぢんまりと佇む町である。アーチェン街道の終点であるレインバストの森の境の、いわゆる田舎町だ。

 石造りの平屋が並ぶ伝統的な街並み……というと聞こえはいいが、旅人の姿もほとんどなく、特産品があるわけでもない。小さな畑と広大な森を背負った、古い小さな町である。

 そのため近年は、時代遅れな空気と変化のない日常生活に飽きた若者たちが中央都市へ出ていってしまうのが、もっぱらの悩みだ。

 もっとも、よく言えば日々平穏で住みやすいということで、それはこの町の唯一といってもいい自慢であり特色だった。


「キアノス! ほら見なよ、町まであとほんの390歩くらいだよ!」

 踏み固められただけの素朴な道に、けしかけるような勢いと若干の苛立ちを含んだ元気な声が響いていた。

 学院の森を後にしてからというもの、キアノスはほとんどずっとディナの声を聞きながら、自分のつま先を見つめて歩いていた。顔を上げる余力もなく、歩くというより体が足を引きずっているような格好で。

「全くもー、それじゃ行きたいとこに近づいてんのかどうかも見えないってーの! ねえ!」

 キアノスより頭一つ以上小柄なディナの声は、頭上から聞こえてくる。

 そのキアノスの影は、ちょうど足が次に踏む場所に落ち、太陽が天頂に近いことを示していた。

(丸々一日半、腹に何も入れてないんだもんなぁ……それにしてもディナの声が頭にガンガン響くのは何でだろう……腹がカラになると頭もカラになるのかな)

 脈絡のない思考を泡のように浮かばせたまま、それでも一歩一歩、ディナの言う町、シェル・レーボへと近づいていくのだった。そこへ行けば、過ごしやすい宿と暖かいもてなしが待っている、と聞かされて。

 なぜディナがその町の近況を具に知っているのか、今のキアノスには疑問に思う余裕はなかったのだが。


 そこから390歩を隔てた町の入り口は、しかし、ここ何年もなかったような不吉な喧騒に包まれ、強張った顔が集っていた。

「おい、あれ……!」

 ひとりの壮年の男が、街道の先を指さした。

 よく晴れた、澄んだ空気の向こうに現れたのは、毎年この時期にやってくるレインバスト魔術学院の新しい卒業生だろう。

 片方は風変わりな青いローブを着た青年、もう片方は全身赤ずくめの小柄な少女。

 徐々に近づく二人の姿を見て、町人たちの不安は的中したように思えた。

 青年のローブはよれよれで、まくり上げられた片袖からは血のにじむ布を巻き付けた腕が見えている。額に張り付いたまま乾燥した前髪は一部が黒く焦げ、目は生気がなく、疲弊しきっているのが伺える。

 その前をくるくると動き回っている少女が青年を励ますように自分たちを指さすのを見て、人々はお互いの顔を見合い、次いで一斉に駆けだして声をかけた。

「さ、殺人鬼にやられたのか!」

「おーい、旅人が襲われたぞ!」

 あっという間にばらばらと集まってきた人々に、キアノスは面食らった。

 とりあえず身なりを整えようと、痛まない方の腕でローブを二、三度払う。袖を伸ばし、その中で両腕を組み、背筋を伸ばして何とか魔術師流の挨拶をしようとする。

 もたもたとするキアノスの口の中から言葉をつかみだそうとするような剣幕で、人々は我先にと大声を出した。

「お、お前たち! どこで襲われた?」

「そんなに遠くじゃないな、ヤツは……その辺にまだいるのか!?」

 それに対抗するようにディナまで声を張り上げたので、キアノスは膝から崩れ落ちそうになった。

「ちょっとなんなの? 見るからに疲れ果てた旅人に対する態度がソレ!?」

「ディナ、頼むから大声出さないで……空きっ腹に響く……」

 力なくたしなめる間にも、血相を変えた人々はみるみる増える。

 二人をじろじろと見る者、見通しのよい街道を見張るように身構える者、落ち着かない様子で携えた木槍や鉈を弄ぶ者……

 キアノスは物々しい雰囲気にのまれ、反射的に口を開いた。

「あの、と、とりあえず初めまして、僕はレインバスト魔術学院の卒業生で、キア……」

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