第16話:カルミア博士




 アルマさんは美しい人だった。

 僕の母を想起させるような、優雅で鷹揚な身のこなし。

 丁寧な言葉遣い。

 穏やかな微笑み。

 どれも昨日の泣き叫ぶ姿には程遠い。

 まだ濡れた長い髪を纏めた彼女は、子どもたちの朝ごはんを拵えていた。

 櫓からその姿を発見した僕は、眠ったままのティフォルを置いて手伝うことにした。


「子どもたちは朝がとても弱いの。こうして手伝ってもらったのは久しぶりだわ。あなたは早起きなのね」

「今日だけですよ。いつもは起こされる側です」


 アルマさんは朗らかに微笑む。


「わたくしの旦那さまもお寝坊さんなの。どんなに揺すっても起きてくださらなくて。困ってしまうわ」


 あたかも生きているかのように夫を語る様子に、冷たいものが背筋を伝った。

 さっきからずっとこれだ。

 これがアルマさんの綻びなのだろう。

 触れるべきではない。

 膿を持った傷口に触れてはならない。

 僕には癒せない。

 死者は生き返らない。


「僕も怒られっぱなしです。どこも一緒なんですね」

「ふふふ、おかしいわね」


 人間の朝食は木の実ときのこのスープ。

 それと、主食の芋を練って焼いたもの。

 香辛料はほとんど使わず、甘めに仕上げる。

 やはり、収穫できる食物が変わると食事も大きな変化がある。

 ぴりぴりと舌をしびれさせる刺激的なスープを思い出して感慨に浸った。


「旦那さまぁー!」


 スープの入った鍋をかき混ぜていると、夜ぶりの声が僕を呼ぶ。


「やっと見つけました! 姿が見えなくてすっごくすっごくびっくりしたんですから」


 背後から姿を現したピリカが腰に抱きつく。


「おはよう」

「おはようございます」

「レティも。よく眠れた?」

「うん。おはよう」


 一緒に僕を探してくれていたのだろう。

 レティとも挨拶を交わせた。


「あらまぁ、はじめまして。可愛らしい奥さまだこと」


 アルマさんは膝を折ってピリカと目線を合わせる。


「は、はじめまして。旦那さまのつがいのピリカです!」

「わたくし、アルマというの。よろしくね」

「はい!」


 しゃんと背筋を伸ばした返事に、アルマさんは頬を緩ませた。


「あなたも。仲良くしてくださいね」

「レティです。こちらこそ」


 二人が並んで、レティよりもアルマさんの方が長身であるとわかる。

 下手をすると僕のほうが背が低いのではないだろうか。

 悔しい。


「カナンさん、そろそろ鍋を火から外しましょう。出来上がりですわ。子どもたちを起こさなきゃ」

「ピリカもお手伝いします!」

「あら、ありがとう。じゃあスープを盛っていただける?」

「はい!」

「わ、私も」


 僕とアルマさんとピリカとレティ。

 四人で手際よく子どもたちの朝食をよそい、僕は未だ夢の中にいるティフォルを叩き起こしに行ったのだった。



 *****



 片付けを終え、ピリカたち三人は塔近くの噴水へ水浴びへ出ていった。

 僕は一番下の子としばらく追いかけっ子をして、その子が疲れて塔に戻ったあと、ティフォルに呼ばれた。


「頭いてぇ」

「飲み過ぎ」

「うるさい知ってるよ。さっさと来い」


 見せたいものがある。とだけ言って、塔のひたすら階段を上らされる。

 しょうもない事だったら一発殴りたいぐらい、急な階段ばかりだ。

 足腰を鍛えるにはちょうど良さそうだが、今はそんな気分じゃない。


「こっち」

「は? え?」


 驚いた。

 ティフォルが階段途中の壁に触れたかと思えば、そこが内側に開き、今度は下り階段が出現したのだ。


「隠し階段?」

「隠したいことが隠してあるからな。ほら行くぞのろま」


 あー、頭いてぇ。と側頭部を摩る二日酔い野郎を先頭に階段を下る。


「誰にも言うなよ。弟にも母さんにも、他の人間にも愛寵種フューシャにも。他言無用だ」

「僕に何を見せようとしてるの、君は」

「ついたらわかる」


 上った以上の分数を下って下って下って、ようやく鉄の扉が通せんぼしているのが見えた。

 ティフォルはドアノブ横のパネルを操作し、解錠する。

 扉の向こう側は小さな隠し部屋になっていた。

 右手の壁は天井までファイルや書類などが整然と並び、左手はコントロールパネルとモニターが複数設置されている。

 ティフォルは慣れた手付きで照明をつけ、パネルのボタンを押した。


「カルミア博士って知ってるか?」


 ヴン、と唸ったモニターが徐々に明るくなりパネルも色とりどりに輝きだす。


「知ってるも何も、愛寵種フューシャを創造した偉大な科学者だよ」

「大正解。んで、ここはそのカルミア博士の研究施設の一つだ。しかも極秘のな」

「極秘?」


 ティフォルは不敵な笑みを湛え、パネルを操作した。

 するといくつものモニターに古代文字が表示される。

 このファイルを開きますか? と。


「面白いものを見せてやるよ」


 まるでいたずらを仕掛ける子供のような表情でティフォルはパネルを押した。

 すると画面表示が切り替わり、褪せた映像が流れ始める。


『――年×月×日。今日も世界情勢は悪化の一途を辿っている。もうすっかり世界は汚染されて、葉地ロトスの上にしか住めないっていうのに、人間はまだ争うつもりらしい。叶うのなら、私の娘に危害が及びませんように。これ以上政府に無理難題を押し付けられませんように』


 画面いっぱいに映し出されたのは、赤みの強い栗毛を束ねた、人間の女性。

 年齢は恐らく三十歳以上だろうか。

 青い瞳は強い知性を感じさせるものの疲労の色が滲む。


「この人は……」

「カルミア博士だよ。愛寵種フューシャの守り神のな」


『半年後には研究成果を報告しなければならない。だけど、研究費も人員も全然足りなくて何一つ進まない。もう今からあの偉そうな政治家たちに怒鳴り散らされるのを覚悟しなきゃね』


「カルミア様……この人が……」


 溢れんばかりの称賛を与えられたはずの天才科学者が、どうしてこんなに暗い表情で目頭を押さえているのか。


『はかせ、はかせ。ひとりでおしゃべりしているの?』


 映像の下部から、ひょっこりと子供の頭が飛び出した。

 焚き火の煙のような淡い灰色頭だ。


『そうよ。独り言。サーシャもお話してみる?』

『する!』


 舌足らずなその子は、博士の膝に乗ってこちらに顔を近づける。

 肩上で切り揃えられた灰の髪は、末端だけが赤く染まっていた。

 濃い灰色の目は幼いながら、博士と同じく知性を宿す。

 顔貌の整い方を見れば一目瞭然。

 サーシャと呼ばれた幼子は間違いなく愛寵種フューシャだった。


『まずは自己紹介をしてみましょうか』

『はい! わたしのなまえは、サーシャです。はかせのむすめです!』

『よくできました』

『すきなものは、ねくたぁと、ぱずる!』

『あらそうなの? じゃあちょっと早いけど、お勉強の時間にしましょうか』

『きょうはどんなおべんきょう?』

『そうね。サーシャはなにをしたい?』

『さんすうのぱずる!』

『いいわ。まず算数から始めましょうか』

『やったぁ』


 膝の上で飛び跳ねたサーシャを最後に映像は途切れた。


愛寵種フューシャが創り出されてすぐの映像記録だ。お前のコロニーにはこの頃の話はどう伝わってる?」


 神妙な面持ちでティフォルが問う。


「どうって。カルミア様は愛寵種フューシャを創造した女性科学者、だってだけだよ。絵本には金髪で白い衣を纏った姿で描かれてる」

「つまり、神格化されてただの人間としての側面は伝わってないわけだ」

「うん。言われてみれば」

「なら夢を壊されるかもな」


 色とりどりに輝くパネルを操作し、ティフォルは記録映像を次々に再生し続けた。


 政府からの圧力で満足に研究が行えないこと。

 天涯孤独で友人も肺を病んで亡くなったこと。

 この記録映像が見つかれば殺されてしまうかもしれないこと。

 次第に悪化していく呼吸器の具合のこと。

 最愛の娘、サーシャのこと。

 このままでは、サーシャが悪い人間に利用されかねないこと。

 そして、最後には。


『もう私にはサーシャを護ってあげるだけの力がない。どうか幸せに』


 とだけ告げる映像が残っていた。

 この時には月日の経過により随分と老いて白髪もしわも増え、ただ座っているだけなのにひどく息が荒かった。


「幻想が木っ端微塵になったよ。ありがとう」

「どういたしまして」


 神と崇められるカルミア様も、僕らと同じ悩める人間だった。

 同時に、一人娘を愛するただの母親でもあった。


「カルミア博士は楽園を作りたかったんだ。ネクターが年中実をつけていて、飢えることも争いもない理想的な桃源郷アルカディアを。そのために温和な性格の愛寵種フューシャを創り出した。人間なんかには到底至れない領域。恒久的な平和を求めてな」

桃源郷アルカディアね……。サーシャはどうなったの」


 どうか幸せに。と祈られたあの幼子は。


「さぁ」


 ティフォルは首を竦める。


「さすがにもう生きちゃいないだろ」


 最もだった。

 映像が撮られてからすでに数百年が経過しているはずだ。

 当然サーシャも亡くなっているだろう。


「もっと面白いもの、見たくないか?」

「まだあるの」

「見たいだろ。門外不出だからな」

「わかったわかった見たい見たい」


 口調に反して真剣な顔でティフォルはパネルを操作した。


「うわっ」


 また驚かされる。

 タァン、と小気味よくパネルを叩いたと同時に背後の資料棚が左右にスライドし始めたのだ。

 砂をかんで音を立てながら開ききった棚の奥には先程と同じような鉄の扉があった。

 これも難なく解錠し、押し開ける。


「なに、これ」

「なんだと思う?」


 更なる隠し部屋の真正面。

 まるで湖を切り取ったかのような、大型の水槽が僕たちを待ち受けていた。

 見上げるほどの大水槽には薄桃色の液体が張られ、左右の壁面はパネルやメーターがびっしりと並ぶ。

 それらは絶えず色や数値を変え、正常に作動しているようだった。


「だって、これは。そんな」


 ありえない。

 呟いた僕をティフォルが嗤った。

 驚かないはずがない。

 だって、薄桃色の液体の中に、鮮やかな蒼い髪をした三体の人が漂っているのだ。

 人間にはありえない色の髪。

 がっちりとした肩幅に膨らみのない胸部。筋肉質な四肢に――


愛寵種フューシャは女性性だけの種族だって、先生が」

「馬鹿だな、女が作れるんなら男も作れるに決まってるだろ」

「…………」

「カルミア博士は本当は雌雄揃えて愛寵種フューシャを世に送り出そうとしていたんだよ。でも政府からの圧力で男性型の作成を禁じられた。ま、ご覧の通りこっそり完成させてたんだけどな」


 僕の教わった歴史とは一体なんだったんだろうか。

 愛寵種フューシャは端から人間と手を取り合う必要なんてなかった。

 彼ら、彼女らだけで生きていけたのだ。

 それなのに、人間は。


「出してあげられないの」

「ガラスを割れば出られるだろうな」

「なら今ここで……!」


 救い出してあげたい。


「残念だけど、無理やりやると多分死ぬ」

「じゃあどうすれば!」


 ティフォルはガラス面に手を這わせながら囁くように言う。


「安全に生かしたまま出してやれる方法がどこかに隠されているはずなんだ。だから俺はずっと探してる。探している間に古代文字も読めるようになったし歴史や数学や読み書きも覚えた。でも、まだはっきりとはわからない。出してやりたいけど、今の俺の知識では不十分なんだ」

「……そう」

「幸いこの液体に浸かっていれば老いることも死ぬこともないらしい。ま、気長に調べるさ。どうせ俺はここで一生を過ごすしな。時間なら腐るほどある」


 空笑いを残して、ティフォルは部屋を出た。

 僕も何度か後ろを振り返りながら後に続いた。

 ピリカもレティも、他の愛寵種フューシャも、愛情深く穏やかで協調性があり、争いを好まない。

 人間のように憎しみ合うこともない。

 もし、人間が滅びて愛寵種フューシャだけが世界に残ったら。

 そうすれば、平和な世界が訪れるのだろうか。

 憎しみも争いもない静かな星に戻れるのだろうか。

 それとも、人間と同じ道を辿るのだろうか。

 僕にはあまりに絵空事過ぎて答えを導き出せなかった。


「ねぇティフォル」


 前を歩く背中に話しかける。


「ん?」

「君が行きたいのは、その、桃源郷アルカディア、なの」

「さぁ。どうだろうな」


 ティフォルは僕を一瞥し、はぐらかすように目を細めた。



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