第10話:塔




「ひゃっ」

「ぴゃっ」


 ざらついた床を三歩踏んだところで、自動照明が灯る。

 お互いに抱きついてびっくりする二人に微笑む気力もなく、僕はドアを力任せに閉めた。


『濃霧警報発令。濃霧警報発令。住民は速やかに塔内へ避難してください。なお、塔内は気密性が確保されておりますので、ガスマスクは必要ありません。警報が解除されるまで各区画にて待機してください』


 天井近くの直方体のスピーカーから合成音声が繰り返し現状を伝える。


「旦那さま、ピリカのことがわかりますか」

「……わかるよ。僕のお嫁さんだ」


 気持ち悪い。脳みそがくらくらする。

 ピリカの顔がぎらぎら光っている。


「この指は何本に見えますか」

「三本、かな」


 背後で金属のドアが、しゅううう、と深呼吸するような音を立て密閉された。

 冷たいそれに背を預けてへたり込む僕を嗤うように。


「立って反対側まで歩けますか」

「うん……」


 自信はない。が、心配させたくない。

 塗装の剥がれた灰の壁に爪を喰い込ませ、立ち上がる。

 眩暈を堪え、笑う膝を誤魔化しながらおよそ四メートルを歩ききった。


「ほら、歩けた」


 抱きついてきたピリカの頭を撫でて微笑む。


『現在ドアをロックしております。清浄化完了までしばらくお待ちください。なお、目安時間は――』


 外気の流入防止のためだろう。

 家具類のない小部屋には、スピーカーと通気口らしき穴が壁面に設置されているのみ。塔の通気口は笛を吹くような音を立てて、空気を交換していた。

 頭上では配管が不規則にのたうち回り、いくつかは破れて機能を果たしていない。

 人に例えれば下肢欠損といったところか。


「ピリカもレティも具合は悪くない?」

「ピリカは元気ですよ」

「……大丈夫」

「そう。よかった。やっぱり人間は弱いなぁ」


 上気したふっくらほっぺに口づけて、その場に腰を下ろす。


「ロックが解除されたら探検してみようか。お腹減ったもんね」

「旦那さまは?」


 首筋に垂れた金糸が、照明を受けてきらきらと輝いていた。

 そのきらきらは僕の視神経がやられているからなのか、元々の輝きなのか。

 いいや、きっとピリカの生まれ持った輝きに違いない。

 愛しのお嫁さんは赤ん坊の頃からずっと美しかった。


「僕も腹ペコだ」


 もう胃袋の中には固形物が一欠片も残っていない。


『塔内の完全清浄化を確認しました。これよりロックを解除します。引き続き濃霧警報は継続されていますので、住民の皆様は決して――』


 硬く冷たい金属音が室内に響き、塔深部へのドアが解錠された。


「行こうか。どうせ外には出られないし」


 心配そうに「はい」と僕を見下ろすピリカを杖にして立ち上がる。

 窓も何もない分厚いだけの扉。

 バルブ状の取っ手を回すと、悲鳴をあげながら奥へと口を開けた。

 先頭は僕。真ん中にピリカを挟んで、レティは最後尾。

 人二人が余裕ですれ違える通路を一列で歩く。

 金属製の壁面もざらついた床も朽ちて傷んではいるが、大穴が開くような状態ではない。頭上の配管はやはりところどころ破れていて、液体が漏れていたり、気体を吐き出したりしている。

 水たまりを避けるように指示しながら進むと、一つ目の分岐点に到着した。

 まっすぐ続く通路の脇に、上階へ続く階段とエレベーターがある。

 エレベータの操作パネルは故障中の古代文字が明滅を繰り返していた。

 残念だが使えないらしい。

 階段そばにも、案内板が設置されていたが、掠れてよく読めなかった。


「直進すると……六、等……居住区?」

「おお! 旦那さますごいです」

「ありがと。でも階段の方は無理かな。字が小さすぎる」


 塔上部の設備が羅列されているようだが、細かすぎるうえにほぼ消えている。

 これではとても解読できない。


「上ってみよう」

「賛成です」


 レティも頷いてくれた。

 背後に生物の気配がないことを確認し、狭い階段を上る。

 ピリカには少し急なので、手を繋いでゆっくりと。


「うんしょ、うんしょ」


 片足ずつ着実に。

 約三十段を上りきると円形のエレベータホールらしき空間に出た。

 五台エレベーターが並ぶもすべて故障中。

 下層では剥き出しだった配管は隠され、天井の自動照明が等間隔で灯っていく。

 床は相変わらずの剥がれ具合だったが、中央に立つと、それとなく小奇麗さは感じられた。


『濃霧警報発令中。濃霧警報発令中。霧の濃度が非常に危険な――』


 ちょうど濃霧が廃都全体を飲み込んだ頃だろう。

 合成音声は引き続き危険を報せ続けていた。

 さて、探索するかさらに上を目指すか。


「変わった匂いがする……」

「え?」


 ぽつりとレティが呟く。


「旦那さま、あの扉の奥……かな。ネクターのようなネクターじゃないような甘い匂いが、ちょっとだけします」

「……本当だ」


 言われないとわからないくらい、かすかな香り。

 熟れたネクターの香りに似た甘ったるい、でもどこか違う不思議な芳香だった。

 金属の厚い扉は見るからに頑丈そうで、近づいても開いてくれない。

 ここは腕の見せ所だ。

 扉の隙間に指をかけ、思いっきり横へ引いた。

 ふん、よっ、と声が漏れるくらいに必死に頑張ると、じわじわ扉がスライドしていく。

 削れた床を噛んでいて作業は難航したが、ようやく人が通れるだけの隙間を開けられた。

 軽く額に汗が滲む。


「ピンク、色?」

「農作物生産プラント、でもなさそうだね」


 扉の先はどぎついピンク色の照明で煌々と照らされていた。

 ピンクや紫の照明は農作物の人工栽培によく使われる。

 だが、生産プラントにしては様子が違った。


「展示施設の照明系統が故障したとか?」

「わからないです。でも匂いは強くなりました」


 考察する僕たちにレティは首を傾げる。


「おいで。くれぐれも足元に気をつけて」


 ここであれこれ考えても答えは出ない。

 入り口付近の安全を確認し、扉の隙間をすり抜けて、匂いの元の探索に移った。

 入ってすぐ右側にはぼろぼろのカウンターと椅子が数脚。

 左側には古代文字と図柄の描かれている壁面。

 床はうねり、落下した天井の破片が散乱している。

 広さはあるが確実に居住区ではない。

 娯楽施設か、伝統文化や文明に関する展示施設が妥当ではないだろうか。


「あっ……これ……」


 アクアマリンが瞬き、壁の文字を読もうと近づく。


『ようこそいらっしゃいました!』


「ひゃああああ!!」

「ぴゃああああっ!」


 レティは飛び上がって尻もちをつき、ピリカは僕にしがみついた。

 パニックの元凶は、壁の前にどこからともなく現れた半透明の子供だ。

 亜麻色の癖毛を短く整え、襟の大きなブラウスとスカートを纏った十代前半の子供。

 胸元は緩やかに膨らんでいるが、髪色も目鼻立ちもあまりにも地味で垢抜けない。

 これは愛寵種フューシャの雛ではなく、かつて旧人類にのみ存在した女性、というやつだろう。


「レティ、ケガはない?」


 ピリカを抱き上げて、固まったレティの隣でしゃがむ。


「こ、こここ、これ、これ、これは」


『当館は、愛寵種フューシャと、愛寵種フューシャを創造されたカルミア博士についての展示を行っております。どうぞごゆっくりお楽しみください』


 子供はにっこりと微笑んで、優雅に礼をした。


「多分だけど、立体映像ってやつじゃないかな。実体を持たない人型。時々廃都や塔で僕たちに話しかけてきたり、施設を案内してくれたりする人工物があるって、旅人が話してた」

「り、ったいえ……?」

「うーん。つまりこれは本物の人間ではなくて、作り物なんだ。僕たちに襲い掛かっては来ないし、触れることもできない。ほら」


 子供の頭に手を伸ばすと、何の抵抗もなく指が貫通する。


『わたくしは当館の案内役を務めさせていただきますメアリーと申します。どうぞよろしくお願いいたします。では、まずは人類の歩んだ歴史からご説明いたしますね』


「怖いものじゃないよ。味方でもないけどね」

「襲ってこない……」

「そう。だって嘘ものなんだから」


 理解したのかしていないのか。

 レティはおもむろに立ち上がってお尻をはたいた。


『我々はこの星の王として地上に君臨していました。多くの歴史建造物。天を貫く高層ビル。自然を忠実に再現した森林公園など。豊かな文明と科学技術を有し、繁栄を極めていました。しかし』


 メアリーと名乗った立体映像は朗々と語り始める。

 人間がいかに愚かな滅びの道を歩んだのかを。


『野蛮なる敵国が放った憎むべき兵器により、多くの国土が汚染されてしまったのです。このため、我が国は国土の大半を失いました。汚染された土地は今後六百年以上、生物の棲めない状態が続くとされています。そこで我々は同様の化学兵器を用いた報復を続けつつ、あるプロジェクトを立ち上げました』


「かがく、へいき?」

「爆弾だよ。蓮しか抗えない猛毒の悪しきものだ」


 ピリカは口を結んで考えていた。

 絵本にすらなっている、遠い昔の話。

 憎しみに囚われ、歪んだ人間は世界を滅ぼす兵器を無尽蔵に放ち続けたのだ。


『生命の創造。禁忌として恐れられた、前人未到の神の領域に我々は到達したのです。もちろん、初めは上手くいきませんでした。研究施設が爆撃されることもしばしばありました。大地は兵器に蝕まれ、王たる人間すらをも書き換えなければいけない状況となりながらも、我が国の優秀な研究者たちは決して諦めませんでした』


 人間は浸食を続ける毒の沼を逃れて、わずかに残った大地で暮らしていた。

 しかし、間もなく霧が生まれるようになり、それすらも困難になる。 

 汚染された大気に抗うためには自らを造り替えなければならない。

 旧人類の科学力は強大で、今より文明はずっと豊かだった。

 だからこそ慢心したのだろう。

 片方の性別を失うなど、本来あってはならない大失態なのに。


『幾千の失敗を経て、ついに環境に適応した新たなる生命が生み出されます。美しく整った容姿。温和で友好的な性格。発情期を持ち、人間と生殖可能な種族。もうお分かりですね。我々の助けともなる能力を持った、愛寵種フューシャです!』


 身振り手振りを交えながら、子供は高らかに偉業を語る。

 この時には思いもしなかったのだろう。


 愛寵種フューシャは発情期にのみ子を身籠れるわけではない。

 成体になれば一年を通して子を成せるのだ。

 しかし、発情期以外での妊娠はあまりに肉体への負担が大きく、妊娠中および産褥期さんじょくきに死亡することが知られている。

 母を失えば乳飲み子は飢え、ほとんどが三歳にもなれない。

 愛寵種フューシャを使い潰し、自らも数を減らす廃都の住民。

 人間の絶滅を防ぐため、戒律と共に生き、密猟者と戦うコロニーの僕ら。

 さて、憎しみ合いながら対立する両者はどちらが生き残るのだろうか。


「わたしたち……?」

「うん。レティのご先祖様だよ」

「ご先祖様……」


 壁面の絵をじっと見つめるレティ。

 消えかけだが、様々な愛寵種フューシャの姿かたちが図解されていた。


『創造主となったカルミア博士はあふれんばかりの称賛を贈られ、誰もが知る天才科学者として名を馳せました。同時期に作られた専用飼料であるネクターは、人間にとっても非常に美味であり、贈答品として重宝されていますよね。人間を絶滅から救った救世主。当館では彼女についての多くの資料を――アガアアッ』


 急に映像にノイズが混じり、音声が割れる。


『アアガアガガアア、どう、ゾ、アアアラアアナガアア、オタノシ』


 ぶち、っと立体映像はこと切れ、静寂が訪れる。


「消えちゃった」

「ピリカ、この幽霊さん怖いです……」

「もしかしたらまた出るかもよ」

「やですぅー!」


 からかったら首にぶら下がられてしまった。


「ぐえっ。わかったから、進むよ」


 ごねるピリカを宥めて、ロビー奥の通路へ。

 ピンク色の照明に照らされた展示物は多くが破損し、ガラスケース内の物品も汚れたりカビたりしていた。

 さらに、進めば進むほど通路の床は水面の波紋のようにのたうち回る悪路と化す。


「あ……」


 剥がれ落ちた高い天井を見上げてレティが立ち止まった。



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