第9話:濃霧




 空が白むとともに目を覚ましたピリカと、寝不足で舟をこぐレティ。

 大あくびを連発するレティは元気溌剌なピリカと手を繋ぎ、仲良く水浴びへと向かった。

 僕も身支度を終え、お腹の大きな奥さんに挨拶する。


「おはようございます」

「あら、おはよう」


 奥さんはすでに土間で朝食の準備に取り掛かっていた。


「もうすぐ出来上がるからね」


 にっこりと明るい表情で鍋をふるう奥さんに、僕は感謝の言葉と今日発つことを伝えた。


「そう。無事を祈っているから」


 奥さんは僕の頬に手を添えて目を細める。


「お元気で」


 奥さんも、赤ちゃんも、旦那さんも。


「カルミア様のご加護がありますように」


 頬の手を両手で包み、祈る。

 これが僕の最上級の恩返しだった。


「ありがとう」


 包み込んだ手のひらを開放し、僕は奥さんと別れる。

 ほんの少しの間にコロニーは活気づき始めていた。

 水浴びに行く愛寵種フューシャ

 ネクターの収穫へ向かう人間。

 朝の見繕いを終え、朝食づくりに精を出す人々。

 時折すれ違う彼らと挨拶を交わしながら次なる目的地へと進む。

 遊具が設置された公園近くに、子を嫁がせた旅人のための家屋があるのだ。

 雛の養育はとても夫一人でやれるものではない。

 同じように雛を育てる人間たちと長屋で共同生活をし、助け合うのが一般的だ。

 また、困ったことがあれば長屋付きの先生や義理の両親に助けを求められる。

 渦中にいる間は、なんで、どうして、の連続だ。

 今現在の僕が、赤ん坊だったピリカのことを懐かしんでいられるのも、彼らが手助けしてくれたおかげだと強く思う。

 人間を絶滅させないため。

 愛寵種フューシャを絶やさないため。

 コロニーの掟や制度はたったそれだけの合理的な理由で完成していた。


 そうこうしているうちに目的地に到着する。

 旅人のための一軒家は、他の家々とほとんど変わりはなかった。

 窓辺には薄桃色の虫よけの花が咲き誇り、すでに格子窓は開かれていた。

 違いがあるとするなら、出入り口に掛けられた札くらいだろう。

 蓄光果実の果汁で色付けされた札は夜に光る。

 真夜中に困り果てた夫が駆け込むための目印だ。

 ちなみに半ば放し飼い状態の豚が玄関先で鼻を鳴らしていたりする。

 僕は豚に道を譲りつつ、ドアをノックした。


「はいはーい」


 底抜けに明るい返事と共にナナさんがドアを開けてくれた。


「わ、カナン君だ。おはよ」

「おはようございます。落ち着きましたか?」

「まあね。カナン君はどう?」

「急ですけど、今日発とうと思います」


 色の混じった髪を耳にかけて、ナナさんは「そっか」と慈しむような眼差しで僕を見た。


「あ! ちょっと待ってて」


 両肩をとん、と叩き、室内へ消えるナナさん。

 テーブル上に置かれた木箱の中をごそごそ漁って、また戻ってくる。


「旅人に物を贈ったり贈り返したりって、あんまりよくないんだけどさ、これは特別だから」

「え?」


 ナナさんが手にしていたのは、碧い石を彫ったペンダントだった。


「お守りだよ。私の生まれ育ったコロニーでは人工石を魔法で彫って、旅人に渡す風習があるの」


 楕円形をした紺碧の人工石に彫られているのは渦を巻いたような美しい文様。


「はいどうぞ。きっと似合うよー」


 頭上に伸びた両手が僕の首にペンダントをかける。


「ほら似合う! カッコいい!」

「あ、ありがとうございます」

「パパもそろそろ戻ってくるし、ごはん食べてく? まあ、食材は現在進行形でパパが調達中で、まだパンしかないんだけどさ」

「いえ、じきにピリカたちが帰ってくるので」

「なんだ、カナンか」


 名前を呼ばれて振り向けば、食材入りのかごを持ったシュラさんが立っていた。


「噂をすれば。お帰りパパ」

「お邪魔してます」

「ああ。……行くのか」


 眼光鋭くペンダントへ視線が落ち、すぐにシュラさんは状況を察した。


「はい。お世話になりました」

「達者でな」

「お二人も。レティは必ず無事に送り届けます。このペンダントもありますし」


 微かに、シュラさんの口元が緩んだ気がした。


「俺もそれがなければ今頃命はなかった。なくすなよ」


 首元のペンダントを掲げた筋肉質な手と握手を交わす。

 やはり力が強くて痛かったが、気持ちを奮い立たせるにはちょうどよかった。

 二度と会うことのない夫婦に丁寧に礼を述べ、僕は長屋へ戻る。

 帰り道で以前働いた店に立ち寄り、パンや干し芋を調達した。

 起きがけに伝えたにもかかわらず、ピリカはすんなりと出立を受け入れてくれた。

 三人で朝ごはんを摂り、部屋を整えて、最後に旅道具の確認。

 僕たちは住民に手を振られながら、昼前にコロニーを飛び立った。



 *****



 可能な限り低層を。

 体力が続く限り遠くへ。

 僕からの指示はそれだけ。

 あとはピリカたちの目を頼りに霧の中を進むのみ。

 レティの体内コンパスが指し示す方向へとひたすら飛んでいく。

 低速であればピリカに疲労を感じさせず長距離飛行が可能だ。

 これまでの経験とピリカの顔色を観察しつつ、僕たちは夕暮れまで空を飛び続けた。

 相変わらず、船尾にへばりつく僕が動くとレティが驚いて振り返る。

 怯えは若干減ったが、まだ怖いものは怖いらしい。


「旦那さま、ピリカお腹が減りました」


 朝どれのネクターを昼食にしたものの、もう霧が紫に変わりつつあった。

 早めに寝床を探さなければならない。


「近くに降りられそうな葉地ロトスはある?」

「うーんと……」

「ピリカちゃん、あそこ」


 レティが指さしたのは、やや下方三時の方向。


「あれは……無人廃都、ですか」

「うん。人間はいないみたい」


 オアシスよりも遮蔽物が多いのなら好都合。

 これだけ下層であれば密猟者にも発見されにくい。


「よし。今日の寝床にしようか。ピリカ、頑張れそう?」

「大丈夫です!」


 霞みがかったピリカの表情に疲労の色はない。


「日暮れまでには到着します!」


 にこっと笑ってみせたピリカは航路を修正し、徐々に高度を下げ廃都へゴンドラを飛ばした。


「旦那さま、今日のお夕飯はどうしますか」

「もし都市機能が生きていたら、缶詰か固形食糧くらいは手に入るかなって甘い考えをしてる。ダメなら干し芋を食べるかな」

「ピリカ、コロニーで干し芋の美味しい調理法を教わったんですよ。缶詰のお魚用の香辛料もいただきました」


 いつの間に。


「食べてみたいなぁ」

「腕によりをかけちゃいますから!」

「楽しみにしてる」


 何が何でも缶詰を見つけなければならない。

 もちろん干し芋も美味しいのだが、やはり僕としては魚のほうが好みなのである。

 せっかく頂いたのだから、緊急時用にとっておきたいというのもある。


「ピリカちゃん、それ、光ってる……?」


 ご機嫌で舵を取るピリカの胸元をレティが注視していた。


「え?」


 ジャケットの左ポケットが、確かに赤く発光していた。

 僕は咄嗟に口元を袖で覆った。


「発生源は?」

「ええと……上層から降りてきてます!」

「ならこのまま無人廃都に――うっ」


 前触れもなく、胃の中のものを大地へぶちまける。

 間違いなく濃霧が僕の体を蝕み始めていた。

 旅人の必携品として重宝されているのが、濃霧測定器と呼ばれる特殊な人工石だ。

 これは、霧が濃くなると赤く光る特性を持つ。


 人間は環境に適応するため、自らの体を作り変えた。

 世界に充満する毒の霧にも耐性を得たはずだった。

 しかし、霧は稀に濃度を増し、人間に襲いかかる。

 僕らの視覚では判別不可能な濃霧は、局所的に発生する恐ろしい自然災害である。

 頼みの綱は測定器と濃霧が輝いて見える愛寵種フューシャの目だけ。

 対処が遅れれば、神経を侵され死に至る。


「だ、旦那さま」

「大丈夫だよ、まだ大丈夫」


 縋り寄ったピリカは、目を涙でいっぱいにためて唇を噛んだ。


「濃霧の対処法は覚えてる?」

「ええと、中心部は乱気流を生じること、また、粘度が非常に高い場合があるため、バランスを崩さないよう低速で速やかに離れ、屋内に避難する……」

「大正解。まだ僕たちは濃霧のほんの端っこにいるんだ。だから焦らずにゆっくり廃都へゴンドラを飛ばして。できる?」

「やります」


 涙をのみ込んで大きく頷くピリカ。

 すぐに船首へ戻り、ゴンドラは発進した。

 愛寵種フューシャには濃霧すら無毒だ。

 ただ、中心部に入ってしまえば息苦しくはなる。

 雛の未熟な肉体では差し障りが出かねない。


「うっ」


 まだ大丈夫。

 僕が吐く度にレティがびくりと肩を震わせるのが申し訳なかった。

 何度も何度も大地に吐瀉物を降らせて、ついに酸っぱい液体しか出てこなくなった頃。僕たちは荒れ果てた廃都に降り立った。

 三半規管がやられたのか、四肢の神経をやられたのか。

 ゴンドラからいつものように飛び降りようとして、無様にひっくり返った。


「旦那さま、しっかり」

「大丈夫、だよ」


 ピリカを杖にして立ち上がり、無人廃都を見渡す。

 消霧機能が故障しており、視界はほんの数メートル。

 石畳はあちこちで盛り上がり、雑草が頭を出していた。

 霧中にそそり立つ塔も錆びついて継ぎ接ぎだらけ。

 今にも朽ち果てそうな風貌だが。


「っ、開け!」


 ドアハンドルを思いっきり引くと、ぎちぎちと不協和音を叫んで塔が口を開けた。

 有人時代の機能が保たれていれば難をしのげる。

 密猟者や他の旅人との邂逅も念頭に入れつつ、僕たちは塔の中へと足を進めた。



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