第7話:アクアマリン




 気を張った反動で泥のように眠った滞在三日目の早朝。


「だーんーなーさーまー! 朝ですよー。朝ご飯冷めちゃいますよー」

「うぅ……」

「起きてくださーい!」

「無理……」


 ベッド上で溶けていた僕の肩を、小さな手のひらが揺らす。


「婚礼の儀の準備があるんじゃなかったんですかー!」

「……ある」

「じゃあ起きてください! 旦那さまだけ遅刻しちゃいます」

「……ああぁー」


 頬を勢いよく引っ叩いて起き上がる。


「おはよう……」

「おはようございます。ほっぺた真っ赤ですよ」

「知ってる……」


 まぶたが重い。

 気のせいだろうか。

 まだ体から血の臭いがする気がした。


「うぅー」


 昨晩入念に体を清めて早めに眠ったのに、これだ。


「唸っても時間は巻き戻りませんよ?」

「わかってる……」


 もう一度頬を引っ叩く。

 いくら安全圏だからって気を緩めてはならない。

 油断と慢心は禁物であり、許されざる怠惰である。


「よし!」


 伸びをして眠気を吹き飛ばした僕にピリカは苦笑した。


「レティ、おはよう」

「…………」


 隣のベッドに腰かけて癖のある白髪を梳くレティ。

 当たり前だが肩が跳ね、顔を背けられてしまった。


「旦那さま。ピリカもレティさんみたいにもっと髪を伸ばしたいです」

「いいね。似合うと思うよ。レティもそう思わない?」


 返答はなし。


「レティさん、ピリカ三つ編みもお団子もへたっぴなんです。髪を伸ばしたら、レティさんに結っていただきたいんです! レティさんはとっても器用ですから!」


 不器用な僕は端から除外されていた。


「あまり得意じゃないけど、簡単なものなら……」

「本当ですか!? やったぁ!」


 嬉々として飛びかかってきたピリカの頭を撫でる。

 柔らかく細い髪質の黄金色からは、甘ったるい果実のような香りがした。


「んふふ、楽しみです」


 長屋の一室。

 テーブルへと視線を向けると、いつの間にか三人分の朝食が置かれていた。

 このコロニーの人間の標準的な朝食は、パンと香辛料を効かせた芋のスープだ。


「ピリカ、あのご飯は?」


 昨日ピリカたちをかくまってもらった縁で、お腹の大きな奥さんが滞在中の食事提供を買って出てくれていたのは覚えている。


「旦那さまがぐっすりだったので、ピリカがお礼を言っておきました」

「……起こしてほしかったな」

「起きませんでした」


 ぷりぷり怒るピリカの金糸を撫でつけながら、ふとレティを見やる。

 すると、ほんの一瞬目が合った。

 僕がピリカと会話している間、どうやらこちらを観察していたらしい。

 すぐに視線を外されてしまったが、興味はあるようだ。

 このまま目と目を合わせて話しをしたい。

 だが、焦って距離を縮めようとしても逆効果だろう。

 レティが僕を無害な生き物として認定してからじわじわ近づかなければ。


「さてと。ピリカも着替えようね」


 僕は華奢な体を膝から降ろして、身支度を開始した。

 明日、ナナさんとシュラさんの愛の結晶はコロニーの人間へと嫁ぐ。

 僕は婚礼の儀の準備を手伝うよう住人たちから頼まれていた。


「カナンくーん。いるー?」


 着替えを終えて朝食を摂っているとドアが開き、ナナさんがひょっこりと顔を出した。


「おはようございます」

「おはよ。よく眠れた?」

「今日の旦那さまはお寝坊さんですよ」


 ピリカの告げ口にナナさんは明るく笑う。


「眠れないと病気になっちゃうからね。お寝坊さんくらいがちょうどいいよ、人間は」


 腕に赤ん坊の姿はない。

 誰かに看てもらっているのだろう。


「そんなお寝坊君にお願い! 明日の儀式用に色んな果物の砂糖煮を作らなきゃなの。でも果樹は全部門の外にあってね。一人だと寂しいし、護衛頼めない?」

「僕でよければ請け負いますよ」

「ありがと。パパはパパで手が離せないし困ってたんだ。あ、赤ちゃんは今預かってもらってるから心配しないで」

「すぐ行きます」

「よろしく。学校の前で待ってるよ」


 ひらひらと手を振ってナナさんは走って行った。


「ピリカとレティは今日どうするの?」


 パンの最後のひとかけを飲み込んで、ピリカへ尋ねる。


「託児所で小さい子たちのお世話のお手伝いです」


 ピリカもまだ小さい子に分類されそうだけど、と言いかけて飲み込む。

 確実にピリカを怒らせてしまうから。

 どんなに幼くとも旅に出た時点でピリカは立派な奥さんなのだ。


「頑張ってね」

「任せてください!」


 えっへん、と胸を張るピリカ。

 レティもその様子がおかしかったのか、わずかに口元が弧を描いていた。

 こうして支度を終えた僕たちはそれぞれ仕事へと向かった。



 *****



 飛び抜けに明るく話し上手で、気遣いの達人。

 ナナさんはそんな人だ。

「捧げものってさ、コロニーごとに違ってて面白いよね。お酒をたっぷりしみこませた木の実のケーキだったり、羽を模した砂糖菓子だったり、果物の砂糖煮だったり」

「三人目、でしたよね」

「うん。一番目は人間で二番三番は愛寵種フューシャ


 昼間でも薄暗い森の中を巡る。

 僕が持つ袋は七分目まで瑞々しい果実が詰まっていた。


「元気かなぁ。二番目の子はもう旅に出てるかも」

「どこかで会えるかもしれませんね」

「だね」


 新しい血を取り入れるため。

 血を濃くしないため。

 子連れでの旅は非常に危険なため。

 つがいは出産で立ち寄ったコロニーに幼子を残して旅立つ。

 遺された子供が人間の場合は里親に育てられるか、同じ境遇の子供と共同生活を送る。

 僕はコロニーに永住する両親の五人目として生まれ、ピリカの両親は僕に愛娘を託して飛び立った。


「お、発見」


 黄色く熟した果実をナナさんが見上げる。


「えいっ」


 ナナさんは人差指でくるりと円を描いた。

 すると、果実はへたの部分で綺麗に切り離され、落下する。


「おいしょ」


 すかさず両手で果実を受け止める。

 僕ですら背の届かない高所でも、魔法があれば収穫は容易い。


「切るの上手いですよね、ナナさん。ピリカはよく真っ二つにしますよ」

「経験の差ってヤツですよ。ピリカちゃんだって慣れたら上手にできるって。練習あるのみ!」


 ウインクしながら実を袋に詰める。


「こんなものかなぁ。うん。最後にネクター収穫して帰ろっか。確か門の近くに生ってたはず」

「ですね。甘い匂いがしてました」

「はい回れ右! お姉さんが案内してあげよう」


 しゃんと伸びた背筋と並んで歩きだす。

 薄暗く代り映えのしない景色が続く森の中ではどうしても方向感覚が狂って、人間では迷子になりやすい。

 優れた体内コンパスを有する愛寵種フューシャにはどうしても劣るのだ。


「カナン君はさ、知ってるだろうけど」

「はい?」


 ナナさんの歩幅に合わせて進んでいると、にこにこ笑顔が僕を覗く。


「レティちゃんね、今すっごく不安で、心細くて、惨めで、心が砕けてしまいそうになってると思うんだ。いっそ死んだ方が楽なくらいに」


 温かな笑顔は言葉を続ける。


「ピリカちゃんが隣にいてくれるからギリギリのところで踏み止まってて、だけどほつれた感情は誤魔化せない。いつか表側で暴れだすよ」

「……今朝はまだ傷はありませんでした」

「そっか」


 知っている。

 愛寵種フューシャは強い恐怖を感じると魔法を使えなくなる。

 現在、レティは本来使えるはずの多くの魔法が使えない。

 恐怖が拭えない限り、この状態は続く。

 カザキリ発生の可能性も依然高い。

 ナナさんが恐れているのは、さらに先の最重度の症状だ。


 恐ろしい体験が続き、心が侵された時。

 愛寵種フューシャは自らの体を傷つけ始める。

 腕や脚を引っ掻き、髪を毟り、爪を剥ぎ、目を潰した症例すらある。

 完治させるには恐怖を取り除き幸福を与えてあげなければならない。

 つまり、レティは故郷に帰るまでずっと恐怖に晒され続けるのだ。


「私もパパも半年くらいはここに留まらなきゃならないの。ごめんね」


 自傷の対処なんて重荷を幼いピリカに背負わせたくない。

 自信はない。

 なくともやらねばならない。

 僕がレティを傷つけたくないように、レティも自分自身を傷つけたくはないはずだ。


「必ず、送り届けます」

「そうやってすぐ深刻な顔する。カナン君は誰より笑ってなきゃだめなんだよ?」


 ナナさんは僕の背中をばしんと叩く。


「頑張れ」


 叩かれた背を手のひらが優しく撫でた。

 甘く嫋やかな感触が僕を奮い立たせる。


「お? いい匂い。この辺に生ってるね。どこだろ」


 離れた手のひらはネクターを求めてひらひらと舞った。


「あった!」


 背も低く、枝葉を大地と水平に広げているので見つけやすい。

 五つほどネクターをもぐと袋はいっぱいになった。

 あとはこれをひたすら煮るだけ。


「さ、お腹も減ってきたし帰ろうか」


 歯を見せて笑うナナさんが眩しかった。

 霧の向こう側にある太陽は、きっとこんな風に輝いているのだろう。



 *****



「――ですよ」

「でも」

「大丈夫ですから。旦那さまのほっぺは本当によく伸びるんです! ほら!」


 頬を引っ張られる感触で意識が浮かび上がる。


「……すごい」

「レティさんもやってみませんか?」

「わ、私は遠慮しておこうかな」

「心配ありませんよ。旦那さまはちょっとやそっとじゃ起きません」

「触っても?」

「はい! ピリカだってまだバレてませんし、レティさんでもへっちゃらです」


 頬をつままれる感触再び。


「う……」


 重たいまぶたを押し上げると、間近にピリカとレティの顔が並んでいた。


「ひゃうっ!」

「えぇ!?」

「へっ? なに?」


 飛びのくレティ。

 目を丸くするピリカ。

 わけのわからない僕。

 ごつん、と鈍い音がした方向へ上体を起こすと、顔面蒼白のレティが隣のベッドにぶつかり尻もちをついていた。


「え? は? どういうこと?」


 説明を求めると「旦那さまのほっぺはびよーんって伸びるって知ってもらいたくて……」との回答を得る。

 怒る気にはまったくならない。

 それよりも痛みと恐れで腰の抜けたレティを何とかせねば。


「レティごめん。怪我してない?」


 ベッドを降りて、身動きの取れないレティのそばで膝を折る。


「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな――」


 ぶるぶる震え、頭を手で庇う。

 袖から伸びたしなやかな腕には、幾条もの赤い筋が刻まれていた。

 夜の間に引っ掻いたのだろう。

 ついに始まった。


「もうしないから殴らないで……」


 血の気のない唇は延々と許しを請い続ける。


「怒ってないし、殴りもしないよ」


 人間は自分を殴るもの。

 虐げるもの。

 そんな吐き気を催す概念を覆したい。

 僕はゆっくりと手を伸ばす。


「ひっ」


 肩を震わせ、激痛に備えるレティの白髪を静かに撫でた。

 丁寧に梳かれた乳白色の癖毛。

 滑らかで手に纏わりつく触り心地がピリカと違って新鮮だった。


「僕は君を害さない。手をあげることも言葉で傷つけることも、無理強いもしない」


 信用してくれるまで何度だって繰り返そう。

 僕が恐れるような人間ではないと知ってほしい。


「変な話だけどさ、僕も自分の頬がどれくらい伸びるか知りたいんだよね。もう一回やってみてくれない?」


 俯いたままの頭が、強く横に振られる。


「そっか。じゃあ気が向いたら頼むよ」


 優しく頭を撫で続けると、色の白い両手が頭を離れた。

 震えも次第に治まっていく。

 アクアマリンの瞳からは動揺が薄れて、ちらりと僕と視線が交わる。


「……うん」


 レティは小さく頷いた。

 短いながら、初めて言葉を交わした瞬間だった。


「ピリカと一緒に水浴びしておいで。今日は婚礼の儀だ。見届けてあげないとね」


 また、小さく頷く。

 上目遣いにこちらを窺う瞳に吸い込まれてしまいそうだった。


「レティさん、行きましょう。ピリカたちもたくさんお手伝いするんですから!」


 レティの手を引いて、ピリカは長屋を飛び出していく。

 僕はくすぐったいような後ろめたいような不思議な気持ちでそれを見送った。



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