第5話:ネクター


 どれくらい時間が過ぎただろうか。

 涙は乾き、ぐずぐず鳴っていた鼻も通るようになった。

 目は……赤くなっていないことを祈るしかない。


 耳をすませば、深い眠りに落ちたピリカの寝息が聞こえてくる。

 テントの外では虫たちが音楽を奏で、定期的にシュラさんの足音もした。

 シュラさんはずっと歩き回っているし、赤ん坊が泣くたびにナナさんのあやす声もする。レティは、恐らくナナさんと一緒に眠っているはずだ。

 夜明けとともに目覚め、日没とともに眠る愛寵種フューシャにとって深夜の育児は過酷を極める。

 だからといって、今はシュラさんも変わってあげられない。

 僕が出しゃばろうにも人間は赤ん坊に栄養を与えられない生き物なのである。


「役立たず、だな」


 ピリカを起こさないよう、頬を撫でた。


「だ、ん……にゃしゃ……ま」


 くすぐったいのか、むにゃむにゃと夢の中で僕を呼ぶ。

 淡く蒸気する滑らかなぷっくりほっぺ。

 昼間の青白さは面影すらない。

 きっと治癒魔法のほかにある程度魔力を分けてもらったのだろう。


「……カナン」


 足音がぴたりとやんで、腹に響く低音が僕を呼ぶ。


「起きているか」

「はい」


 返事をすると、テントの入り口が開きシュラさんの顔がランプの淡い光に照らされた。


「休まないのか」

「眠れなくて」

「そうか」


 咎めることも、理由を聞くこともしない。


「旅に出て半年とその子に聞いた」


 眠るピリカへ、いかつい視線が注がれる。


「これまでに戦闘経験は?」

「……ありません」


 口ごもった僕へ「そうか」と淡泊にシュラさんは返した。


「カナン」


 髪と同色の灰色がじっと僕を睨む。


「今後、二度と助けは来ないと思え」


 鋭い目つきに、胸が潰れてしまいそうだった。


「雛は戦闘では役に立たない。成熟個体でも強い恐怖を感じれば魔法を封じられる。それを密猟者は熟知している。お前が戦うんだ」

「……はい」


 正論が淡々と述べられ、僕は何も答えられなかった。


「また朝に」


 シュラさんはにこりともせず、外界へと消えていく。

 お前が戦うんだ。

 僕が戦わなければ、敗北すれば、今日のような終わりが待っている。


「嫌だ」


 絶対に嫌だ。

 ピリカと離れたくない。


「強く、なりたいな」

「んふふ……だんにゃ、さ……」


 ピリカの寝言をまだ聞いていたい。

 寝顔を眺めていたい。

 頬を撫でていたい。

 こみ上げる感情を堰き止めて、唇を噛む。

 じわり、と鉄の味がした。



 *****



 天が白み始めて間もなく。

 ぐっすり眠っていたピリカが目を覚ました。


「おはよう」

「んむぅ……おはようございます」


 起き上がってぐっと伸びをする。


「早起きさんですね」

「すごいでしょ」


 無理に笑ってみせた僕にピリカは抱きついた。


「こうしてまたお話しできて嬉しいです」

「僕も。弱くてごめん」

「旦那さまは強いお方ですよ。相手が卑怯だっただけです」

「卑怯であっても、僕は負けたんだ。ピリカを奪われそうになった」

「でも、シュラさんが助けてくださいました。ピリカは覚えていないですけど」


 ダメなんだよ。

 助けられるようじゃ。


「運がよかったんだろうね」

「旦那さまが正しかったから、運が味方したんですよ」

「あはは、愛想つかされないようにしないと」


 慰めてくれているのだろうか。

 小さな手が頭を撫でてくれた。


「それと、夜更かしさんは万病の元ですよ?」


 甘やかに囁いた唇が耳を食む。

 どうやらお見通しのようだ。


「早くお口にできたらいいのに」

「大人になったらね」


 至近距離での愛の言葉に背筋がぞくりと痛んだ。


「レティを誘って水浴びしておいで。シュラさんたちにもきちんと挨拶するんだよ」

「旦那さまも一緒にしませんか?」

「だーめ。レティに嫌われるし、シュラさんに殴られる」


 うら若き乙女たちに混ざって身を清める度胸はない。

 うち一名は他所の奥さんなのに。


「ピリカは嫌いませんよ?」

「ピリカは、でしょ。ほら早く支度しないと。すぐに移動するんだから」

「はぁーい」


 ピリカは口を尖らせながらテントを出ていった。

 僕も寝床を整え、遅れてテントを出る。


「いたた……」


 草花の生い茂るのどかな湖のほとり。

 間隔をあけて僕たちのテントと、ナナさんたちのテントが並んでいた。

 中央には火を燃やした痕跡が残る。


「起きたか」


 背後から低音が聞こえ振り返ると、シュラさんが立っていた。


「おはようございます」

「具合はどうだ。ナイフは握れるな」

「はい。問題なく」


「俺はナナが見繕いするまで娘をみていないといけない。いくつか頼みごとがある」


 抑揚なく話すシュラさんの逞しい腕には愛娘が抱かれていた。


「ネクター、ですか」

「ああ。三人分もいできてくれ。周囲に敵の気配はない。火は俺が熾す」

「わかりました」


 ナイフはベルトに差したまま。

 いつの間にか上半身だけ着替えさせられジャケットを脱がされていた。

 身軽さと、血まみれの服の行方に若干の不安を覚えるが、今は食料調達が最優先だ。


「パパ―! もうちょっと離れてて。レティちゃんが怖がっちゃう。あと、私以外の裸に鼻の下伸ばしたらゲンコツだよ!」


 テントから、ぬうっとナナさんが顔だけを出す。


「わかったわかった」


 宥めるような口調が夫婦の関係を物語っていた。


「そういうことだ。頼んだぞ」

「すぐ戻ります」


 僕は木々の生い茂る森へと向かった。

 体を左右にひねったり、軽く飛び跳ねてみたり、かがんでみたり。

 色々試しつつ、数分歩くと甘く独特な香りが鼻孔をくすぐる。

 熟れたネクターの香りだ。

 ネクターの木は水辺近くの土壌を好む。

 なので、あまり奥まで進む必要はないと踏んでいたが、やはりだ。

 背の高い雑草をかき分けて進めば、香りの張本人が頭上にたわわに実っていた。

 手のひらほどある丸い葉と、大地と水平に低く広がる枝。

 葉の隙間から顔をのぞかせる紅緋色と霧色のグラデーションが美しい果実。

 これが愛寵種フューシャの大好物であり、唯一の栄養源となるネクターだ。

 人間と違い、愛寵種フューシャは魚や穀物や芋類などを消化しづらい消化器官をもつ。

 食べ過ぎればお腹を壊すし、栄養として取り込むこともできない。

 一見不便で惨めにも思うが、ネクターだけですべての栄養素を満たし、健康を維持できる彼女たちの方が僕らよりずっと秀でているのかもしれない。


 ちなみに人間にとってもネクターは大変美味な果物だ。

 滴る果汁は甘酸っぱく、柔らかな実はねっとりと舌に絡みつき、嚥下後もずっと爽快な香りが口腔を支配する。

 だが、あくまでネクターは愛寵種フューシャのために改良された果実なのである。人間が食べすぎると手足が腐り、盲目となり、ぶくぶくとむくみ、悲惨な最期が待っている。

 どうやら僕たちの消化できない何かが入っているらしい。

 皮が薄く痛みやすいネクターは、基本的に食事の都度調達する。

 ほとんどの葉地ロトスで実をつけているので困ることはあまりない。

 色の濃い完熟した果実を捻ってもぎ取る。

 わずかな力で枝から離れるのもネクターの特徴だ。

 僕は片手いっぱいに果実を抱えてテントへ戻った。


「遅くなりました」

「上出来だ」


 草木をかき分けて湖のほとりへ。

 すでにシュラさんは人間用の朝食を拵えていた。

 鍋が火にかけられ、麦のお粥がぐつぐつと煮立っている。

 独特の香辛料の香りが僕に食欲を思い出させてくれた。

 どことなく湯気が甘いのは、風味付けに木の実が入っているからだろうか。


「見てやるなよ」


 シュラさんは鍋をかき混ぜつつ、空いた腕でゆりかごの赤ん坊を器用にあやす。

 水辺では乙女たちが丹念に体を清めている最中だった。


「心得てますよ」


 傷の消えたレティの痩せた背中を洗ってあげるピリカ。

 一方でナナさんは仰向けになって水面を漂う。

 非常に刺激的な光景ではあるが、シュラさんの手前じろじろ見るわけにもいかない。目のやり場に困って、結局ゆりかごの幼子とその父に視線を固定した。


「美味しそうですね、それ」

「俺が作れるのはこれくらいだ」


 僕は火のそばであぐらをかき、ネクターの皮を剥く作業に入る。

 すでに金属製の皿が三枚用意されていた。


「ナナは寝ていないと味覚が狂う。塩辛いゲテモノしか作れなくなる。だから俺が食うものは俺が作る。他所はどうだか知らんが俺たちはそう決めている」


 ちなみにうちはピリカが僕のごはんを、僕がピリカのごはんを、といった具合だ。

 こればっかりは夫婦の数だけ形があるのだろう。


「それにあいつは不器用だからな。危なっかしくてナイフを持たせられない」


 ぶっきらぼう口調には、確かに愛がこもっていた。


愛寵種フューシャってみんな揃って器用なのに、意外です」

「魚を捌くのも、野菜の皮を剥くのも支障なくこなす。問題なのは、その合間に曲芸じみたナイフ回しやらをやりだすところだ。毎回失敗して指を切るのにまるで懲りない」

「困りましたね」


 ナナさんの話になると少しだけ饒舌になる。

 芯は僕と似ているのかもしれない。


「まったくだ」


 会話は途切れ、僕はひたすらネクターをくし型切りにして、皿へ盛っていく。

 視界の端では、楽しい水浴びを終えた三人がテントの陰で着替えていた。

 聞こえてくる会話からして、レティはどうやらナナさんのマタニティドレスを借りたらしい。


「うわぁ、レティちゃんやっぱ背が高いねぇ。つんつるてんだ」


 なんて陽気な声と共に、見繕いを終えた三人は火の周りへ腰を下ろした。

 ピリカは僕にぴったりと体を預け、ナナさんは人間を恐れるレティを気遣い、僕たちと距離を取る。

 レティの顔からはすっかり傷も痣も消えて、ぐっと雰囲気が大人っぽくなった。

 ただ、丈の足りないドレスから伸びる脚や、はちきれんばかりの胸元が色々と心臓に悪い。早くぴったりの服を着させてあげなければ。


「オアシスに降り立った密猟者は全て駆除したようだが、ここは有人廃都が近い。従って、いつ次の一団が襲ってくるともしれない」

「でも腹ペコじゃゴンドラも飛ばせないしねぇ。いっただきまーす」


 どこか呑気なナナさんの声を合図に、僕たちは朝食を口にする。

 お椀に注いだお粥は、初めて食べる新鮮な味だった。

 舌がピリピリ痺れて辛いのに、爽やかな甘みが癖になる。


「カナン君。ピリカちゃん夕飯抜いてるんだよ。レティちゃんも全然食べてないし」

「えっ」


 素直に驚愕してしまった。


「ピリカ、本当?」

「だって旦那さまが死んじゃうかもしれなくて、怖くて……」


 敵襲を恐れるのなら、夜明けと同時にオアシスを発つべきだ。

 しかしまだ弱い雛が、夜も朝も食事を抜いてゴンドラを飛ばすなど言語道断。

 愛寵種フューシャは人間より代謝が活発で、空腹を感じやすい。

 特に雛は顕著で、一食抜いただけでふらふらになり倒れることも珍しくない。

 わざわざ水浴びと朝食の時間を作ってくれたのは、レティを安心させ、ピリカの体調を考慮してのことだろう。


「怒りますか?」

「怒らないよ。頑張ったお礼に僕が食べさせてあげる」


 手に取ることもなく置かれたままの皿とフォークを取り、ネクターを一口大に切り分ける。


「はい、あーんして」

「あーん」


 フォークで刺して口元へ運べば、大きく開いた唇がぱくりとネクターを頬張った。


「美味しい?」


 ピリカは「んふふ」と頬を緩ませる。


「パパ……」


 羨望の眼差しで、ナナさんはシュラさんへ皿を差し出した。


「しない」

「ぶー。いいもーん。レティちゃんといちゃいちゃしてやる」


 口を尖らせたナナさんはフォークで刺したネクターを「どーぞ!」とレティに与える。


「……ありがとう」


 数秒躊躇った薄紅色の唇はネクターを小さく齧った。


「いっぱい食べなきゃだよ」


 残りはナナさんが一口で飲み込む。

 和やかな朝のひと時で、レティの緊張がほぐれてくれれば、ピリカの不安が薄れてくれれば、どれだけ喜ばしいだろうか。

 まだまだ僕ともシュラさんともアクアマリンは交わらない。

 ピリカも僕から離れようとしない。

 傷口は深く、膿を持って腫れている。

 だからこそ僕は笑っていなければ。

 僕がしっかり支えてあげなければ。

 叶うならシュラさんのような強い人間として見られたい。

 強く、誰かの支柱となれる人間になりたい。

 レティを無事に故郷に送り届けるために必要不可欠な強さを。

 ピリカのつがいとして相応しい強さを。


 僕のナイフは大切な人を護るためにあるのだから。



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