第3話:レティ




 深く立ちこめた霧の中をゴンドラが疾走する。


「敵影は?」

「ありません!」


 耳がつんとする急降下が続き、気圧の急激な変化で視界がチカチカと点滅し始めた。


「あっ! あそこなら降りられる、かもです!」

「できるだけ障害物の多いところに」

「はいっ」


 僕が声を発する度、麻袋がびくりと震える。

 人間の低い声は、すべて恐怖体験に結び付けられてしまうのだろう。


「ごめん」


 小さく謝罪したその声ですら、麻袋は暴れた。


「もうちょっと、あとちょっと」


 肩で息をしながらピリカは的確にゴンドラを駆る。

 そうして、数分後には鬱蒼と木々の生い茂る葉地ロトスへと到着した。


「人影はあ……りません。無人、のオアシスみた、いです」


 麻袋を抱えて柔らかな腐葉土に降り立つ。

 終わりの見えない広葉樹の群れで薄暗いが、霧は晴れていた。

 窒息寸前のような激しい呼吸を続けるピリカを一刻も早く休ませたい。

 抱えられて硬直している麻袋の子も、早く開放してあげなければ。


「とりあえず中心部へ。ここだと逃げ場がない」


 胸を押さえてこくりと頷いたピリカの手を引いて、森林を進んでいく。

 人の暮らす廃都とは別に、旧人類はオアシスと呼ばれる葉地ロトスを作成した。霧を吸って成長する木々を植え、魚の泳ぐ水辺を構築し、旅人にひと時の休息をもたらす場所。

 それがオアシスだ。

 このオアシスは、広葉樹と果樹で形成されたタイプらしい。

 ある程度進むと多種多様な果実が木々に実っていた。


 進んで行けば行くほどピリカの呼吸が整い始める。

 だが足取りは次第に重くなり、数分後に限界が訪れた。

 足取りがおぼつかず、目の焦点が合わない。

 これ以上は歩かせられないと判断し、朽ちた大木が折り重なる空間で一旦ピリカを座らせた。


「旦那さま。出してあげてください」

「うん」


 乾いた唇が同族を気遣う。

 僕はピリカの足元に麻袋を横たえた。

 硬直して微動だにしない麻袋の紐を解き、虚ろなアクアマリンと対面する。

 視線が交わった途端、傷だらけの愛寵種フューシャは激しく暴れだした。


「落ち着いて。僕は敵じゃない。君を助けたいんだ」


 穏やかに語りかけても効果はない。

 僕が人間である時点で、信頼は失墜している。

 それでも見捨てられなかった。


「大丈夫だから」


 泥と血と涙で汚れた顔に手を伸ばし、猿ぐつわを外す。

 ぷはっ、と短く息を吐いた愛寵種フューシャは――


「いやああぁぁああぁあぁああぁぁぁあああぁ!!」


 鼓膜を破かんばかりの声量で、絶叫した。

 拘束された手足を滅茶苦茶にうねらせて、ただただ絶望を音にした。


「いやあぁぁあ! いや、いやああぁぁぁぁあああぁぁあ!!」

「君に危害は加えない。お願い、縄を、いっ!」


 手首を縛る荒縄に手を伸ばすも、渾身の力で噛みつかれる。

 すぐに手を引っ込めるが、親指の付け根に歯形がつき、血がだらだらと流れ出た。


「いやああぁぁああぁぁぁぁあぁぁああ!!」


 口が自由になればまた絶叫だ。

 錯乱なんて生ぬるい。

 恐怖で気が変になりかけている。


「頼むから僕の話を」

「いやあああ、いやあああぁあぁあ、いやああぁぁぁああ!!」


 体を起こして、愛寵種フューシャは尚も叫ぶ。

 僕が視界に入った時点でまともな会話が成立しないのは明らかだった。


「――大丈夫ですよ」


 つがいが困り果てているのを見過ごせなかったのか、あるいはあまりに痛々しい姿に耐えられなくなったのか。

 ピリカは無理を押して立ち上がり、自分より年上の愛寵種フューシャを優しく抱擁した。


「いや、いやあぁ」

「もう怖い人間はいなくなったんですよ。旦那さまはピリカたちを殴ったり脅したりしない人間です。旦那さまの手は大きくて温かくて、いつもピリカを撫でてくださるんですよ」

「やぁ、いや、い、や……」


 小さな手のひらが、乳白色の乱れ髪を撫でる。

 穏やかな手つきは、徐々に腕の中の愛寵種フューシャを落ち着かせていった。


「大丈夫、大丈夫。旦那さまはピリカのことをここまで育ててくださったんです。だから、ピリカたちのこともよく知っているし、ピリカたちのことを大切に扱ってくださいます。奥さんのピリカが言うんですから、間違いありません」

「い、や……あぁ」

「縄を切って、傷の手当てもしましょう。お洋服は……ピリカのじゃ入らないですよね。あ、旦那さまのローブなら着られるかな」

「う、うぅ、う」


 流れ落ちる感情は、まだ絶望の色をしていた。

 絶叫は嗚咽に変わり、ピリカを介してならこちらの指示も通りそうなくらいに落ち着く。


「安心してください。旦那さまはピリカが毎日水浴びさせてますから、ローブも臭くありませんよ」


 しっとりと辛辣な言葉を吐かれてしまった。

 綺麗好きな愛寵種フューシャらしい。気をつけよう。


「……ほん、とう?」


 掠れてはいるが、無色透明で弦楽器をつま弾いたような声が絞り出される。

 やっと悲鳴以外を聞けた。


「本当です。さ、手を出してください」


 ピリカは細い腕を緩め、じっとアクアマリンに微笑みかける。

 表情は硬いものの愛寵種フューシャはわずかに頷き、拘束された手首を差し出した。


「旦那さま、ナイフを」

「そばにいてあげて」


 疲労の滲むラズベリーは、無理に笑ってみせる。

 僕はナイフを抜いて、血と膿のこびりついた手首へそっと左手を添えた。


「ひっ……」

「縄を切るだけだよ」


 ぎゅっと目を瞑って震えるこの子をこれ以上傷つけたくない。

 細心の注意を払って荒縄を断ち、続いて脚を拘束していた荒縄も、痩せた体に目を背けて取り払った。

 固まった血も膿も早く水辺で清めてあげなければ。

 次の移動経路を考えつつ、愛寵種フューシャに僕のローブを羽織らせる。


「名前を聞いてもいいかな?」


 寄り添う二人と距離を取ってあぐらをかき、可能な限り穏やかに尋ねた。


「…………」


 目すら合わない。

 僕が腰を下ろす動作だけで肩が跳ねるのに、質問に答えてくれるはずがなかった。


「ピリカの名前はピリカです。旦那さまはカナンさまですよ!」


 ぴったりと引っ付いたピリカとはしっかり目が合う。

 悔しいが仕方がない。


「……レティ」

「レティさんですね! とっても可愛い響きです」

「南の地に咲く花の名だね」


 また肩を跳ねさせてしまった。


「お花の名前なんですか?」

「……うん」


 レティは控えめにうなずいた。


「私と同じ名前の花が、たくさん咲いているところがあって。私、友だちに花束を、作ってあげたくて……あげたかった、のに」


 やっと止まったと思ったのに、瞳と同じ色をした雫が滴り落ちる。


「かえり、たい……ここはいや……みんなにあいたい……」


 ピリカが涙を払っても心は次々あふれていく。


「お友だちのことろ……。レティさんには、旦那さまはいらっしゃらないんですか」

「わ、私たちは、ずっと私たちだけで、暮らしてきたの……」


 珍しい。

 すでに密猟者に狩り尽くされたとばかり思っていたのに。

 どうやらレティは愛寵種フューシャのみが暮らす、単独コロニー出身のようだ。

 僕とピリカの故郷である、人間と愛寵種フューシャが共に暮らす“コロニー”よりもずっと数が少なく、幻のように語られるあの単独コロニーの。


「そっか。じゃあ、コロニーの方向はわかる?」


 やはり答えてくれなかった。


「お家がどこか、まだ感じられますか?」

「……あっち」


 レティは右手側を弱々しく指し示す。

 愛寵種フューシャたちは総じて極めて高精度な体内コンパスを有している。

 だから霧の中で迷うことはないし、遠く離れても故郷の位置を感じられるのだ。


「旦那さま、行きましょう」

「そうだね」


 こんな僻地にレティを置き去りにはできない。

 僕は誰かを助けられる人間でありたい。

 何も成し遂げられない無能にはなりたくない。


「レティ。僕たちが君を故郷に送り届けるよ。人間と一緒にゴンドラに乗るなんて嫌だろうけど、少しだけ我慢してほしい」

「レティさん、ピリカたちと一緒に帰りましょう。きっとコロニーの皆さんも心配してますよ」

「……帰れ、るの?」

「ピリカと旦那さまを信じてくださいませんか?」


 驚愕に、青い瞳孔が収縮する。

 もう二度と戻れないと思ったのだろう。

 このまま卑しい人間に買われて、絶望に窒息して死んでいくのだと。

 助けは来ない、逆らうなと密猟者に殴られたのだろう。

 考えたくもない。


「僕は誓ってレティに危害は加えないよ。そんなことをしたら、自分の首を切り落とさきゃならないからさ。首を切ったら、ピリカもレティも護れないでしょ?」


 コロニーの人間は戒律と共に生き延びてきた。

 殺人と不貞をはたらいた者は死罪。

 三日間の壮絶な拷問の末、四肢を切り落とされて地上に堕とされる。

 もし旅の途中で同様の罪を犯したのなら、自害するのが当然の償いと教わった。

 戒律はすべて、人間が生き延びるために必要な戒めだ。

 愚かなる人類がこれ以上愚行に手を染めないよう作られた霧中のことわり

 破れば、欲に溺れた廃都の人間と同じになってしまう。

 嫌悪すべき対象になり果ててしまう。


「今は無理でもいつかは信じてほしいな」


 返事はない。

 肩は跳ねなかった。


「お友だちに花束を渡しに行きましょう?」

「……うん」


 和らいだ表情に胸を撫で下ろす。


「よし」


 胸ポケットの懐中時計を確認して膝を叩く。

 今日中の移動は難しい。

 ゴンドラを飛ばすとピリカが倒れてしまいそうだし、夕刻も差し迫っている。

 幸い人間の気配もないので、ここで夜を明かすのが正解だろう。


「レティ、少しだけなら歩けそうかな」

「…………」

「水辺まで移動して、傷をきれいにしましょう。ばい菌が入ったら大変ですよ」

「……うん」


 ローブに隠された腕が、脚を触っていた。

 僕の言葉は一応聞こえてはいるようだ。

 信用を勝ち得るまではピリカに仲介してもらおう。

 どれだけかかるかは想像すら難しいけれど。

 もしかしたら、レティは永遠に人間を嫌い続けるかもしれない。

 二度と心を開いてくれないかもしれない。

 ならば単独コロニーで生涯を閉じる人生が、レティにとって一番の幸福となるだろう。人間との接点が少なく、仲間に囲まれた生活が。


「ピリカを杖代わりにしていいですからね」


 ピリカが真っ先に立ち、レティの手を取る。


「ありがとう」


 ローブを気にしながらレティは緩慢な動作で立ち上がった。

 今更だがこの子、ピリカよりかなり長身だ。

 最後に立った僕とも目線が大して変わらない。

 僕が人間の中でも長身の部類に入らないとはいえ、愛寵種フューシャでこれほどとは。

 だが、あまりじろじろ見たり、長身を褒めたりしてもレティに怯えられるだけなので触れないでおこう。

 今僕たちが向かうべきは安全に夜を越せる水辺である。

 まずは、中心の湖から伸びる小川を見つけなければならない。


「ゆっくり行こう。どこかで水音がする」

「はい。旦那さまもはぐれないでくださいね」


 青白い顔はゆるりと笑った。


「レティさんも、ゆっくりですよ」

「……大丈、ひぃっ!!」


 急にレティが震えだし、その場に崩れ落ちる。


「だ、旦那さま、それ」


 レティに引き倒されたピリカが、目線で示したのは。


「っ! 二人とも、伏せ――」


 黒光りする円柱状の物体は間髪置かずに炸裂し、閃光が視界を焼き尽くした。



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