それは忘れられない青だった
八須田さん
それは忘れられない青だった
“海”がやって来る。
学校のずっと向こうから、“海”が静かにやってくる。
僕は、まだ誰も来ていない教室からぼうっと校庭を眺める。すでに校庭の半分くらいが “海“になっている。 ”海“は校庭の西側から校舎に向かって、ゆっくりとその領域を広げていた。
それでも、誰一人騒ぐ人はいない。いつもと何らかわりのない一日が始まる。
やがて、ぽつりぽつりと生徒たちが登校してくる。学校の東門はいつもより人が多い。西門はもう“海”になっているからだ。みんなは、校庭のまだ“海”になっていないところを縫って校舎へとたどり着く。
にぎわい始めた教室では隣の席の男子生徒が、靴下がぼとぼとになったとぼやいている。誰かの濡れたハンカチが、教室の後ろではためく。そのうち、何食わぬ顔で先生がやってきて、いつものように授業がはじまる。授業の間も“海”はどんどん広がってくる。一限目の授業が終わるころには、校庭に“海”が張りつめていた。水面は太陽の光を反射して、光の粒をあちらこちらに散らしている。二限目の体育の授業は、校庭が使えなくなったので体育館に変更になった。
校庭を青く染めた“海”は、今度はどんどんと水位を上げていき、午前中の授業が終わるころには、校舎の一階の部分が“海”になった。
そこにいた人はどうなったかなんて、誰も考えてはいなかった。
「水着でも持ってくればよかった」と、教室のどこかで誰かが残念そうなため息をもらす。
昼下がりの教室の天井には“海”から反射した光の水玉模様がゆらゆらとゆれている。
午後の授業は、先生が来ないので自習になった。
じっと机に向かう人もいれば、近くの人と談笑する人もいる。
僕はただじっと“海”を見つめていた。そして窓の向こうに果てしなく広がる青色を見つめながら、先月死んでしまった美術部の先輩のことを思い出していた。
いつも美術室の片隅で、何をするでもなくプールの水面を眺めていた変わった人だった。
紺碧っていうのは、
生きているものの頭上には決して現れない究極の青のことでね――
先輩はそんな言葉と、未完成の深い青色の絵を残して、プールの底から水死体で発見された。あの人は、紺碧が見たくて深いプールの底へもぐりこんだんだろうか。
僕は先輩を馬鹿だと思った。たかが青色のために命を投げ出すなんて。
そもそも紺碧を見たとしても、死んで絵が描けなくなってしまったら意味がないじゃないか。先輩の気持ちはよく理解できなかった。
そんなことを考えているうちに、放課後のチャイムが鳴った。いつまでたっても担任の先生が来ないので、誰からともなく鞄をかかえて教室を出ていく。三階にもうっすらと“海”がやって来ていて、廊下からぴちゃぴちゃと水のはねる音が、笑いあう声とともに聞こえてくる。
僕は誰もいなくなった教室の窓をそっと開けた。ちょっと下に手を伸ばせば、水面に触ることができるくらい“海”はすぐそこに来ていた。窓の下の壁と“海”がしきりにぶつかりあい、ゆるやかな音を立てていた。
いつの間にか、廊下からは誰の声も聞こえなくなっていた。廊下に出ても誰の姿もなく、ただ水面のゆれる音が何重にも反響しているだけだった。
“海”は気づくともう、僕のくるぶしのあたりまでやって来ていた。机の横にかけた鞄が濡れそうになっているのに気づいて、あわてて机に駆け寄る。
底が少し濡れた鞄を肩にかけ、水に足を取られないようにゆっくりと教室を出る。そしてふと思い立って、僕は屋上へと向かった。
屋上に広がっていたのは、見渡す限りの“海”だった。さっきよりもずっと遠くまで“海”が見える。三百六十度、青、青、青。地平線も、今では水平線になってしまっている。
“海”はあらゆるものをその内にとかしこんで、不規則に揺れていた。「海とは生命のスープなり」なんてフレーズをふと思い出す。みんなこのスープの中にとけてしまったのだろうか。人も、建物も、何もかもが“海”の一部になって、“海”は広がっていく。まだ“海”になっていない人間はどれくらいいるのだろう。フェンス越しに、僕はじっと“海”を見つめている。でもそれでは物足りなく感じて、フェンスをよじ登りその上にまたがった。僕はじっとうつむいて“海”を見つめていると、ふと足元でゆれる自分の影と先輩の姿が重なった。じっと、青の輝く水面を見つめていた先輩の姿と。
――紺碧っていうのは、
生きているものの頭上には決して現れない究極の青のことでね。
先輩の言葉がふと頭のなかでよみがえった。
僕は少しだけ勢いをつけて、“海”へと身を投げた。
一瞬、大きく空が回って“海”が僕の体をとらえる。そしてゆっくりゆっくりと僕を深いところへと誘っていく。“海”は冷たいはずなのに、なぜだかほっと安心するような気分だった。
静かに静かに、僕は水の底へと沈んでいく。白い泡が光のカーテンのあいまを縫って、水面へとのぼっていく。
これが、“海”。これが、青。
ゆっくりとまどろんでいく意識の中、忘れることのできない紺碧へと、僕はそっと手を伸ばした。
それは忘れられない青だった 八須田さん @yasuda-san
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