第10話 俺様、踏んだり蹴ったり
新幹線から、富士山が見えた。
富士山を見るといつも、心が晴れやかになる。高校時代、学校の夏休み行事で登った時の思い出が蘇る。
あの頃は、未来が無限に広がっていたんだな。
ゆかりには、「母の具合が悪くなったため、会社は休職して当分津山に住むことにした」とだけ告げた。
心配そうなゆかりのか弱い声が、今も脳裏に蘇る。
お互い連絡を取り合うことは忘れないと、誓わされてから、
「私も休みが取れたら、そっちに行っていい?」
と彼女は言った。
「あ、ああ・・・ 母親の病状が落ち着いたらな」
俺はしどろもどろに答えることしかできなかった。
まさか、本当に来られたら、どうしたらいいんだ。母にも姉にも、俺が28歳年下の女と交際しているなんて言っていない。
いや、本当に来たりはしないよな。彼女だって忙しい仕事をしているんだし、
それに・・・ ああ、きっとまた川島の奴が積極的に動いているのだろう。
ゆかりからは、川島のかの字も聞いていない。でも、それだけに怪しかった。
俺が東京に不在の間に、ゆかりが川島と懇ろになって俺を振っても、それはそれで仕方ないことだと思っている。
むしろ、そうなってくれた方がいいのかもしれない。
悲しいけれど、リストラされたなんて、彼女にはとても言えない。
このままフェードアウトしてくれた方が、俺としては気が楽なんだ。
初秋の澄み切った空気のむこう、快晴の青空に聳え立つ富士山が、涙で滲んだ。
・・・
「ええっ、リストラ?」
閉店前の紬のカウンターに、俺は座っていた。
周囲にはもう誰もいない。後片付けをしている徳子以外は。
「そんなこと、ほんまにあるんじゃなあ。・・・」
抗がん剤治療を始めた徳子は、昼間の保育園の仕事は休職している。
夜は、体調のいい時だけ、紬に顔を出すようにしているのだそうだ。寝てばかりいるより少しは体を動かした方が、抗がん剤の効き目が向上すると言われているらしい。
最初はすごく怖かったけど、最近はいい薬も出ているし、思ったより大変でもないんよ、と徳子は青黒い顔で微笑んでみせた。その顔を見ていると、俺もリストラされたことを隠せなくなった。
「まあな・・・ 一応職安に登録して、同じ業種の会社にも履歴書を送ったり、業界の知り合いに連絡したりはしているんだけど、今はちょっとゆっくりしたいという気もあるんだ」
「そうじゃな、お母さんが今、助けがいるかもしれんもんな」
母にもリストラされたとは言っていない。
心配だからしばらく休職させてもらった、と言ってある。
もしリストラなんかされたなんて知られたら、姉にも筒抜けで、「よかった。これでお母さんの世話は勉の役目ね」なんて決め付けられてしまうからだ。
「もういっそのこと、津山で仕事を探したら?」
「おまえまで、そんなこと言うのか。冗談じゃないぞ。五十過ぎて、この田舎にどんな仕事があるっていうんだ」
「探せば何かあるじゃろう。選り好みせなんだら」
俺はコップの地ビールを飲み干した。
「中学時代の同級生で、こっちにUターンした連中は皆、介護の仕事をしているよ」
「あんたもしたらええが」
バンッ! 俺はカウンターを叩いた。
「この年で、そんなことできるか!」
徳子は叫んだ。
「できるわ!」
「俺はな、もう一度東京の外資系製薬会社で働きたいんだ。
それで、ゆかりとも付き合い続けたい!」
「ゆかりさんと付き合い続けることはできると思うで。だって、川島くんはもうアウェーじゃし」
「なんじゃ、そりゃ?」
「盆休みの後すぐ、別の支店に異動になったんじゃて。今はゆかりさんの部下じゃないんじゃと」
「なんでそんなことがわかるんじゃ」
「桃子から聞いたんじゃ。あの夜、LINEの番号を交換したんじゃと」
なんと! そんな願ってもない好展開があったのに、どうして俺がリストラの憂き目に遭うんだよ!
「あのポートマン支社長、いや、ウィリーめ。
こんな優秀な俺をクビにするなんて、狂ってるぞ、あのチビハゲめ」
心の中では何度も叫んでいた、誰にも言えない本心が、口をついて出た。俺が語気を強めると、徳子はつぶやいた。
「石田くんは日本人としてはチビとは言えんけど、頭はけっこう薄いで」
まさか、ビールぐらいで酔ったわけでもあるまいに、俺の体にはまた熱くなってきた。
「うるさいわ! おまえこそ最近の体調はどうなんだ」
「けっこう順調で。思ったより副作用は軽いし。幼稚園を休職するのは心配だったけど、職場の人も協力的なんじゃ。ほんとにありがたいわ」
生気が消えた青黒い顔に、笑顔を作った。
「お母さんは病気のこと、どう言うとるん?」
と俺が言うと、
「うん、乳がんとは知っとるけど、実際よりも軽い病状じゃと言うてあるんじゃ。
本当は脇の下と鎖骨の下にリンパ腺の腫れがあったんじゃけど、こうなるともう全身にがん細胞が回っとる可能性もあるけん、そこまでは言うとらん」
抗がん剤の副作用のため、もうすぐ始まる脱毛に備えて、前もって髪をベリーショートにした徳子はからりと笑った。
その姿を見て、俺は意地の悪い気持ちになった。
リストラで俺がこんなに苦しみ落ち込んでいるのに、死に至る病のこいつが涼しげな笑顔を見せるなんて気に食わない。
俺と同じように、おまえも苦しめよ。
「お母さんに、本当の病状を伝えてないのか。そんなんで、いいのかよ。
だいたい癌は生活習慣病という面もあるんだ。今まで食べるものに気をつけていなかったから、そんな病気になるんじゃないか。
とにかくお母さんには本当のことを全部話しておくべきだ。かっこつけるな」
まっとう至極な忠言をしたつもりだったのに、それを聞いた徳子は鬼のように目尻を吊り上げた。
こいつは高校時代から喧嘩っぱやい女だったが、それでも彼女がこんなに怒った顔は見たことがなかった。
「かっこつけるな、だと? かっこつけているのは、どっちだよ?
おまえこそ、リストラを石田先生に話したのか」
激しい口調に、おれは鼻白んだ。
「いや、さ、それとこれとは違うだろ、病気の方がリストラより、ずっと重大なことだし・・・」
「違わねーよ! だいたいおまえはな、人の気持ちがまったくわからない人間なんだよ。だから、今まで独身なわけ」
「なんだよ、それとこれとは今関係ないだろ・・・」
「関係あるよ! 私が本当の病状を話せないのは、母親を心配させたくないからだよ。
おまえもそうじゃないのか」
「や、でも、ま、その・・・」
そうだけどさ・・・ でも最初に言ったセリフの手前、どう言葉を返せばいいのか、頭が混乱している。
「なんなら今、石田先生に電話して言ってやろうか? 勉さんがリストラされたんですって、って」
「・・・おいおい、よせよ。どうかしているぞ・・・ また来るわ」
俺は千円札を二枚カウンターに置いて、逃げるように紬を出た。
・・・
(続く)
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