第7話 怪獣アネゴン出現
完全介護の病院に母を任せて、俺は仮眠をとるべく実家に戻った。
母は、脳梗塞だった。
腕がしびれるとか、頭痛が続くとか言っていたけれど、まさか倒れて意識不明にまでなるとは。しかし、たまたまこのお盆という仕事が長く休める機会に倒れてくれたのは、不幸中の幸いだった。
「やっぱり母さんってしっかり者よね。
意識がなくなる前に自分で救急車を呼んで、玄関を開けて待っていたなんて」
大阪から急遽病院に駆けつけた姉が独り言を言った。
母の気分が悪いのに、当夜車で出かけていた俺を責めているようにも聞こえたが、姉はきわめて冷静で、こんな状況なのに余裕がある様子だった。
「まさか、こんなことになるとは。昼間は元気そうに見えたんだけどな」
姉は、津山の実家に俺より近くに住んでいながら、俺より母を訪ねる回数が断然少なかった。 ・・・ そんなこと言うんなら、もっと母をたびたび見舞ってやればよかったんじゃないか、と思ったが口には出さなかった。
しかし姉は俺の気持ちを察したのか、
「私だって、大変なのよ。秀則さんは糖尿病だし、翔はもうすぐ結婚するなんて言い出すし。定職にもついてないくせに、相手の女は五歳年上だというのよ。絢香は秋から交換留学生としてアメリカに行くの。お金がいくらあっても足りないわ」
とこぼし始めた。
三浪しても東大に入った甲斐あってか、有名商社に勤めていた義兄は、50歳になってすぐに、かなりの退職金をもらって早期退職している。
ただ糖尿病を発病したので再就職はままならず、なのに現役商社マン時代からの女癖の悪さは変わらないので、三千万円の退職金もあっという間に消えそうだと姉が嘆いていると、母づてに聞いたが本当かどうか知らない。
「あんたはいいわよね。家族がいないんだから。
もし母さんの入院が長くなりそうになったら、頼むわよ」
「え、ちょっと・・・ それは困るよ。
俺、東京だし、そっちの大阪の方が近いだろ。
一人だからこそ、仕事は休めないんだよ。自分しか自分を食わせてくれる人はいないんだから」
姉の思いがけない発言に戸惑う俺に、彼女はきりりと向き直った。
「なによ、うちは年金退職者が私と娘を養ってるのよ。息子だってまだ半人前だし。私は病気の夫の世話で大変なんだから、母さんのことまで手が回らないわ」
学生時代から才色兼備で知られた姉は、大学時代ミスキャンパスに選ばれたことがある。
今やその面影はないほど体重が増えて、その横顔に目立つのはシワより二重顎だ。
ただ、そのつんと尖った鼻の形のよさと、清楚な口許に、昔の栄光が偲ばれた。
そういえば、徳子が言っていたな。
「私の小学校では、石田先生はべっぴん先生と呼ばれとったんじゃ。
石田先生が担任ゆうたら、他のクラスの子にうらやましがられたで」
姉の顔立ちは、確かに母似だ。
残念ながら父親似の俺は、子供の頃から母によく似た姉に羨望を感じていたものだが、その貴重な財産を伝えてくれた母親に、なんとも冷たい言葉が吐けるもんだ。
「それにね、石田家の後を継ぐのは、私の子供たちでしょ。
あんたに子供がいないんだから。だから、母さんの金融資産は、私がいただくわね。あんたには、あの家をあげるわ」
これにはさすがの俺も飛び上がりそうになった。
「冗談はやめてくれよ。あの家なんかもらって、どうするんだよ」
日本全体が少子化だというが、津山のような田舎では、人口は減る一方、既に多くの家が空き家となっている。
俺の子供時代の思い出が詰まったあの家も、退職後帰郷する以外には使い道はない。しかし、ここに住めるのかな・・・。
ゆかりの顔が脳裏を掠めた。
退職した初老の男と、まだ30代のゆかりが、この津山に・・・
いや、ありえんだろう、それは。
しかし、家の取り壊しを頼もうものなら、いくらかかるかわからない。
つまり、遺産として家を貰ったら、マイナスにしかならないのが今の日本の田舎なのだ。
その点、長年教員だった両親はしっかりした恩給を貰っており、貯金は相当額ありそうだ。それを姉が一人占めするっていうのか、冗談だろ。
怒りに体が震える思いだったが、ここが病院だということを思い出した。
大声で口論などできないし、田舎の病院などには知り合いが多く、誰に聞かれるとも限らない。
それに頭の切れる姉のことだ。
怒らせたら、母が亡くなる前に、何らかのトリックを仕掛けてくるかもしれない。今この手の話をするのは得策ではないと思った俺は、とにかく話題を変えることにした。
「遺産の話は、今はやめろよ。このくらいでくたばる母さんじゃないからさ。すぐによくなるよ」
薄暗い病院の待合室に、二人は長い間黙って座っていた。
(続く)
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