第6話 徳子の秘密

「そりゃあ、ええなあ。がんばってその幸せを続けてえな。・・・私にはもう無理じゃけど」

 俺ははっとして、彼女の顔を見た。


「先週、病院でわかったんじゃ。私は乳がんじゃて。もうステージIIIで、末期の一歩手前。

来週から抗がん剤治療を始めるんじゃ」

笑うのをやめた徳子は、重病者とは思えない冷静さでそう言った。

「えっ」

俺はもう十年ぐらい前になるが、仕事で抗がん剤の開発に携わっていたことがある。

抗がん剤治療の大変さは知っていた。

「それは大変 ・・・ いや、でもなんとかなるよ。今はええ薬があるけん」

そう言いながらも、抗がん剤治療がどんなに苦しいものかも見聞きしている俺には、自分の口から出る慰めの言葉に、真実味があることを祈らざるを得なかった。

「来週から抗がん剤を始めることになったん。副作用について、人からいろんな話を聞いたら怖うなったけど、でもま、もうやるしかないな」

 笑うのを止めた真剣な顔の徳子は、ひどく年をとったように見えた。

化粧が剥げて、目の周りがどす黒く窪んでいる。

前から40過ぎて太ったわ、などと言っていたのに、薄着のTシャツの首回りや肩は、病に寒々と骨ばっていた。


俺も今は、どちらかと言えばこっち側の人間なのか。


紬で川島拓也と対面していたとき、彼と接している俺の気持ちは同世代の男として、だった。

かおりといる時だってそうだ。彼女といる時は、俺も新卒で製薬会社に就職した頃と、同じような外見でいる気持ちでいたよ。普通、レストランの席に鏡なんてないんだから。

「なんてことだよ・・・」

今まで気づかないふりをしていた現実を突きつけられて、

心の中に絶望が満ちた。

「見つかった腫瘍は、8センチもあって、左乳房全体に広がっとんじゃて。

もう全摘出するしかないんじゃけど、このままでは手術できん。

先に抗がん剤を4ヶ月ほどやって、まず腫瘍を小そうせにゃあいけん、ゆうて

お医者さんに言われた」

そう淡々と語る徳子は、急に十歳ほど老け込んだ、老婆のように見えた。

俺は恐怖を感じた。


いや違う、俺だけは違う。病気にもならないし、永遠の若さを保っているんだ。

 しかし今は、徳子に対して何かいいコメントをしなくてはいけない。

頭の中は混乱していた。

「もっと健康に気をつけるべきだったな。俺は、会社で毎年定期健康診断を受けているし、週一回はジムに行ってるんだ。ガンにならないのは、そのせいだよ」

 慰めるつもりで言ったのに、徳子はきっと目を剥いた。

「私だって、毎年マンモグラフィーは受けとったで。でも乳がんの三割は、マンモグラフィーに反応せんのんじゃと。運動なら、私だって幼稚園で子供と走り回ってたもん」


ああ、女の反論は面倒だ。

「たぶんなあ、おまえがオーストラリアに住んどった時、欧米式の食事をし過ぎたんじゃないか。

乳がんって昔は日本人にほとんどなかったのに、最近はどんどん患者が増えているのは、食事が欧米化したせいだってよく言われるよ」

 俺の言葉は、徳子の怒りに油を注ぐだけだったようだ。

「へえ、ヨーロッパじゃ今、三人に一人が一生のうち少なくとも一度はがんになるそうだけど、日本では二人に一人だっていうが。日本食がそんなに体にええんなら、なんで日本人にそんなにがんが多いん?」


 怒った徳子の顔に、般若の面を連想した。

生前の父が、趣味でよく能面を打っていた。いくら父の作品でも般若の面だけは恐ろしく、気味が悪いので、壁には飾らないでくれと頼んでいた。

その般若が目の前に現れたのだ。

 こいつ、そうとう気が立っているようだな・・・ 


「そんなこと、知らないよ。さて、そろそろ帰るとするか。うちの母親が最近、体が弱くなったとかぬかすんで、あまり遅くなれないんだ」

「まあ、石田先生が・・・」

 徳子の言葉が終わらないうち、俺はさっと伝票を持って立ち上がり、そそくさとレジに向かった。


 吉武徳子の車から降ろしてもらい、家の前に来ると、近所のおじさんとおばさんが立ち話をしていた。

もう夜十一時も過ぎているのに何やってんだろう、といぶかしく思っていると、おじさんが俺の顔を見て顔色を変えた。

「勉くん、ついさっきお母さんが救急車で運ばれたんじゃ。すぐ中央病院に行きんさい。わしが送っちゃろう」


・・・


(続く)

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