第2話 俺のガールフレンド、ゆかり

 紬から車で十五分ほどのところにある実家に帰ると、もう夜も11時だというのに、母はまだリビングで本を読んでいた。老眼鏡を動かしながら、難しい顔で歴史の本の小さい活字を追っている。中学校の校長だった父が亡くなって二年が過ぎた。母はやはり寂しいのか、テレビは見ても見なくても、いつもつけっ放しだ。

「おかえり、遅かったな」

 俺に気づいた母が、本から目を上げた。

「うん、吉武の店に寄っとったけん」

 母と話すときは俺も津山弁になる。

「ほうか、吉武さんは元気じゃったか」

小学生時代の吉武徳子は優等生で、母のお気に入りの生徒だった。四十年以上前の教え子なのに、いつまでも気になるものらしい。

「元気じゃったで、お母さんも娘さんも」

 母は老眼鏡を外して、大きく欠伸をした。

「寂しいのはうちだけじゃな。おまえも真理子も余所じゃもんな」

 俺の三歳上の姉真理子は、東大卒のエリート商社マンと結婚して、大阪に住んでいる。才色兼備で勝ち組の結婚をしたこの姉が、両親の自慢だった。ただ彼女はもう嫁に行った身で、津山を訪れることはほとんどないようだ。

「せめて、おまえが結婚してくれたらな、と思うとったけど・・・」

 母はリモコンでテレビを消して、寝室に入った。

俺はまたテレビをつけて、台所から冷えた缶ビールを持ってきた。プロ野球ニュースを横目で見ながら、缶ビールを開け、携帯のメールをチェックした。

たくさんの広告メールに混じって、ゆかりから短いメッセージが来ていた。

「東京は今日すごい雨でした。三か月ぶりの津山は、いかがですか。

お母様も元気でいらっしゃることと思います」

なんだ、この気品ある文章。マジーとか、ヤバい、みたいな日本語しか喋れない桃子と、たった六歳しか違わないんだぞ。

喜びと誇らしさで、缶ビールを持つ手に力が入る。

「実は、仕事のことで相談したいことがあるの。

こちらに戻って来たら、会ってくださいね」

 ああ、もちろんだとも・・・ すぐに会ってと言わないところが、彼女の奥ゆかしいところだ。


・・・・



 梅雨に入ったせいか、東京はその夜も雨が降っていた。

俺はゆかりを、同僚に薦められた隠れ家的フレンチの店に誘った。外観はまるで普通の古い一軒家なのに、中は今風に改装されていて、ナチュラル系カフェのようなインテリアに、古いジャズが流れている。

 照明は暗い中、テーブルにスポットライトが当てられているので、客に不自由はない。むしろそのおかげで、あまり広くない店内なのに、とてもパーソナルな雰囲気だ。

「素敵! こんなレストランがあるのね」

ゆかりのうれしそうな声を聞くと、こちらも心が躍る。

「会社の人に一度連れてきてもらったんだ。意外性があるのもいいだろう」

 カウンターの脇にある小さな席に座り、ゆかりはシャンパーニュを、俺はビールを頼んだ。

 店内の暗さの中で、ゆかりの白い肌はほの暗く輝いていた。

「ところで、何か相談があるって言っていたけれど」

俺は彼女の方に首を傾げて、さぞ込み入った話でもするように眉間に皺を寄せた。

「実はね、私が担当しているチームに新入社員が入ってきたんだけど・・・」

他の客のひそひそ話をかき消すように流れる、女性ヴォーカルのジャズが心地よい。

ここで若い女の職場の悩みを聞くなんて、ちょっと贅沢な気分じゃないか。

「その人、途中入社なのね、だから私と一つしか年齢が違わないんだけど・・・」

「ふむ、そうか。たった一つ年上の女が上司なんて、やりにくいのかな」

「そうかもしれない。だって、その人九州男児だもん。福岡出身なんだって。アメリカの大学を出て、帰国してから就職活動したので、うちでは中途入社って扱いなの」

ゆかりは切れ長の目を細めて笑った。その笑顔に、俺はふと不安を感じた。

「そいつが、どうして悩みになるんだよ」

 注文した海老のオマールが運ばれてきた。海鮮の香りがテーブルの上に広がる。

「うふふ、おいしそうね。・・・ それがね、その人・・・何かと誘ってくるのよね。仕事の後に」

「へえ・・・」

 俺は興味なさそうに合づちを打ったが、心の中には何かひっかかるものがあった。そして、そんな自分の心のささいな動きが、いらだたしくなった。

「勤務ぶりは真面目だし、私が至らないところも何かと気遣ってくれる優しさがあるのよ。だから誘われたら、断れないこともあるわけ。

会社近くのカフェとかで、コーヒーを飲むぐらいなんだけどね」

「まあ・・・仕事の後に一杯、ってのはサラリーマンの定番だからな。女だからって特別に気を使われているわけじゃないんだろう」

 ゆかりが変な誤解をしていい気にならないように、釘を刺したつもりだった。

「そうね。職場の外で部下の話を聞くのも、チームリーダーの役目よね」

彼女は微笑んで、シャンパーニュのグラスを持ち上げた。


 店を出た俺たちは、いつも通り、池袋のラブホテルで短い休憩をした。

俺は埼玉に住んでいるし、ゆかりも三鷹から自宅通勤なので、より親密な交歓をするにはこういう所を利用するしかない。

 俺の田舎の津山では、ラブホテルというと農村のはずれにぽつんとある、場違いなネオンや素っ頓狂なデザインで、周囲の景観を著しく損ねる建物のことだった。しかし東京では、普通のホテルと何の違いもない。むしろビジネスホテルよりはずっと豪華なインテリアで、入り口ホールなどイタリアの高級ホテルのようだ。部屋の中も明るい色で清潔な印象でまとめている。淫靡な雰囲気は、俺とゆかりには似合わない。


 ぴんと張った白いシーツに横たわるゆかりの裸身は、痩せてはいないが無駄な贅肉もなく、適度な丸みを帯びている。シャワーを浴びた後、白い肌に吸い付く水滴に、嫉妬を感じるほどの生き生きとした彼女の体だ。

肩の上に流れる黒髪は、落とした照明の灯の下でも輝いている。

「俺もシャワーを浴びてくるよ」

 急がないと、彼女はどこかに消えてしまうかもしれない・・・ そんなはずないのに、気持ちは焦る。浴室に入ると、正面に大きな鏡があり、そこに移る自分の裸身にぎょっとした。

 削げ落ちた肩と胸の筋肉、ぽっこりした腹、細い腕と足、あちこちに浮き出ている染み・・・

 昔はこうじゃなかった。

俺は慌てて新しい白いバスタオルを体に巻きつけ、浴槽に入った。


(続く)

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