石田勉はまだ53歳だから
栗原咲蓉子
第1話 俺が、石田勉だ!
東京、午後八時。
ここ42階のレストランから見渡す限り、夜の街にネオンが美しく輝いている。俺は予約しておいた窓際の席で、彼女を待っている。
ウエイターに連れられ、ゆかりが来るのが見えた。
「おまたせ」
長い黒髪が白いレースのワンピースに流れて艶めかしい。太ってはいないがメリハリある彼女の体型に、黒いタイトスカートがよく似合っている。
君はこの百万ドルの夜景より美しい・・・なんて本当に思っているけれど、口にしないでおく・・・。そんなことを言えば、助平オヤジの嫌らしいお世辞だと思われかねないから。俺はゆかりと、もっと対等でいたかった。同年代の恋人同士のように。
「遅れてごめんなさいね。夕方、急に残業を頼まれちゃったの」
「チームリーダーさんは大変だな」
俺は微笑みながら、前もってもらっておいたメニューを彼女に渡す。俺の目下の恋人、西村ゆかりは25歳。都内の有名女子大を卒業後、証券会社に勤めて三年目だ。今日このレストランを予約したのは、彼女が職場でカスタマーサービス係のチームリーダーに昇進したのを祝うためだ。
「ここは初めてだけど、素敵なレストランね。」
初々しい笑顔で彼女にそう言われて、グラスに水を注いでいたウエイターも微笑む。
「そうだろう。 今日は君の昇進祝いだから、特別良い席をくれたよ」
人目を引くほどチャーミングな若い女性と一緒なことが、俺の自尊心をくすぐる。ウエイターが去った後、俺は小さな包みを渡した。
「何、これ?」
色白の瓜実顔を紅潮させて、驚いた顔を見せるゆかりはやっぱり可愛い。
「プレゼントだよ。昇進祝い」
「まあ、ありがとう。ここで開けていいかしら」
俺がうなずくと、彼女はうれしそうにラッピングをほどき始めた。出てきたのは、文庫本だった。
「デール・カーネギー著、人を動かす ・・・ まあ」
本を手にとって、しげしげと眺めているゆかりに、俺は言った。
「君も部下を持つ身になったんだ。この本は為になるぞ。俺の上司に読んでもらいたいぐらいだね。とにかく、これを読んでいるといないとでは、職場でも大違いだと思うぞ」
ゆかりは笑顔を見せた。
「ありがとう、私の仕事のことを、そこまで気にかけてくれて」
そうだろう。俺はさすがに他の男とは違うんだ。ここでブランドもののバッグなんかやるようじゃあ、若いキャバ嬢に貢ぐ奴と変わらないからな。ゆかりは続けた。
「実は私、この本は大学の時、原書購読の授業で読んだかも。でも、私は英語がそんなに得意じゃないから、日本語で読み返したいと思っていたの。ちょうどよかったわ」
俺たちはやはり以心伝心、心が通い合っているのだろうか。そこに、ワインを持ったウエイターが現れた。赤ワインで乾杯し、俺ははちきれんばかりの若い肌に浮かぶ、ゆかりの切れ長の瞳を熱く見つめた。
・・・・
「えー、マジー」
二年前父が他界してからというもの、一人暮らしになった母のために、俺は少なくとも三か月に一度は帰郷している。俺の故郷、高校卒業まで過ごした岡山県津山市には、当時の同級生で今も交流ある奴らが少なからず残っている。その一人が吉武徳子だ。出戻りの彼女は私立保育園で保母をしながら、夜は自分の母が経営している喫茶兼居酒屋を手伝っている。津山に帰郷した折には、彼女の店に必ず寄る。そこで地元の情報を仕入れたり、知り合いに偶然会ったりするのが俺の楽しみだ。
吉武は20代半ばの頃、ワーキングホリデーでオーストラリアに行き、そこで知り合ったオージーと結婚して二人の娘を授かった。七年前に離婚して、津山に連れて帰ったのが次女の桃子だ。長女のリサはその時もう高校生だったので、オーストラリアに残り、今もむこうに住んでいる。
「石田のおじさん、マジですか。彼女が25歳って」
今年の春から地元の短大に通う桃子も、夜は祖母の店を手伝っている。吉武母子三代の店「紬(つむぎ)」は、津山の観光名所、城東地区の武家屋敷通りにある。観光客もよく来るが、地元民にも人気がある。
桃子は色が白く大柄で、二重の大きな瞳に堀りの深い顔だちは、父親のパットに似ている。薄茶色のウェーブかかった髪をポニーテールにまとめて、よく言えば快活な娘だ。悪く言えば母親に似て、口が悪い。親娘が日本に帰国した時、桃子は小学校五年生だったので、今では英語同様津山弁も流暢に操る。そのフランス人形のような外見からは想像もできないが、日本語を話す時は津山弁まるだしだ。そう言えば母の徳子も高校時代、そのバッドマウスで相手構わず口論を仕掛けて、俺たち同級生を手こずらせてくれたものだった。
「紬」では今、俺が東京で25歳のガールフレンドを作ったという件が話題になっている。
「ほー、石田くん、ほんまか」
「えらいもんじゃのう。わしも東京で就職すりゃよかった」
田植えのせいで日に焼けた常連客たちが、口々に言ってカウンターに笑いが起こった。
「25歳ゆうたら、うちのオーストラリアにおる姉ちゃんとほとんど一緒じゃが。絶対、お金目当てですよね。援助交際ていうん? ヤバいー」
桃子がそう決めつけるのを、徳子がたしなめた。
「これこれ、桃ちゃん、失礼なことを言うちゃあいけん。見てみい、おじさんは年齢の割にイケとるけんで。それにまだ独身じゃけんな。彼女が何歳だろうと、自由恋愛じゃあ」
何がおかしいのか知らないが、そこでまたドッと笑いが起こった。
「おじさん、彼女の写真あるん? 見たいー」
桃子が言うと、カウンターに座った津山の中年常連客たちも、期待に満ちた表情でうなずいた。
「いやあ、そんな」
俺は一応拒否した。
「ヒューヒュー。おじさんとは、親子ほどの年の差」
桃子が冷やかすと、徳子までゆかりの写真を見たいと言い出した。
「でも、25歳の若い身空で、親みたいな年頃の男と付き合うなんて、どうせブスなんじゃろ」
くっ、こいつめ。ちゃんと俺の心理をわかってやがる。田舎者にそんなこと言われたら、彼女の写真を見せないではいられないじゃないか。
「しょうがないなあ」
照れながら俺は携帯を取り出す。俺とゆかりが、都内の有名レストランにある巨大なフラワーアレンジメントの前で、一緒に移した写真を、画面に出して見せた。
「ほほう」
携帯を回し見た田舎者たちは、うなずきながら感心している。そうだろう。彼女は若いだけじゃない。けっこうな知的美人で、俺にとっては自慢の種だから、ブス呼ばわりには我慢できない。残念ながら俺は若い頃だって、このレベルの女を恋人にしたことはない。
「なんか、あの人に似とるな、グラビアモデルの」
と言って徳子は、数年前からよくテレビに出ている女優の名を挙げた。長い黒髪にふっくら顔のグラマー女優は、昭和の香りがする女と評されていた。ゆかりにも確かに、古きよき時代の日本人女性のような奥ゆかしさがある。今時のギャルにはない、落ち着きと温かみを感じる。そう、年齢が問題ではないのだ。
「東京のお兄さん、やるのお」
と言った年配の客は、酒がかなり入っているのか日焼けした顔が真っ赤だ。
徳子は携帯を俺に返しながら言った。
「石田先生、びっくりするじゃろうな。そんなに若いお嫁さん連れて来たら」
俺の母親は、徳子の小学校時代の担任だった。母のことを言われると、俺はいつも落ち着かない気分になる。
「いやあ、まだそこまで考えていないよ」
俺がそう言うと、
「まだって、おじさんもう53歳じゃがな」
桃子の言葉に、カウンターがまたまた爆笑に包まれた。
しかし、結婚まで考えていないというのは本心だ。ゆかりだって、そうだと思う。
俺は不思議に思うことがある。他人はまず、俺を年齢という数字で計ろうとする。その数字によって、まだ若いとか、もう年だ、とかで行動を制限しようとする。その感覚は、俺だってもちろん持っているから理解できるのだが、自分自身、25歳の時、いや高校時代とだって、中味はあまり変わっていないと思うのだ。俺はいつも俺なのに、どうして他人は俺を53歳のおじさんだと思うのだろうか。
「でもな、最近の若い女性は専業主婦願望があるって、テレビでよおったけえ、ずっと年上の男性との結婚もありなんじゃろう」
腰を曲げて皿を洗っていた吉武の母が、急に口を挟んだ。もう八十歳に手が届こうという年齢のはずなのに、ほぼ一日中カウンターの中で忙しく働き続けるエネルギーはすごい。人相手の商売を長く続けて来た習慣からか、いつもきちんと白髪を染めて、化粧を施している。さすがに最近は腰がひどく曲がってきたが、それ以外に彼女から老い姿を感じることはない。
「そうじゃなあ、石田君は、ええ給料もろうとるじゃろうけんな」
徳子が言うと、
「そんなら、やっぱりお金目当てじゃが。マジ、ヤバいー」
桃子の言葉に、紬の店内が笑いで揺れた。
(続く)
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