第84話 それで出汁はないでしょう
「なんと言うか、まだ臭う気がする……」
白塗装の壁に堅牢そうな金属扉。天井を這う何本もの配管と、幅は人がすれ違える程度の狭めのもの。少し先で行き止まりになっているが、それは隔壁がまだ閉鎖されたままのためだ。あちこちに飾られていたヌイグルミや模造花の数々は、今では床に落ちたり落ちかけたりした状態にある。
艦内に侵入したクレイFの掃討が終わり、ひと段落ついたところだ。
EB-RAを倒し増援をなくせば、そこまで苦戦する相手でもなかった。晟生と愛咲が顕現状態でトリィワクスに開いた穴やハッチから手を突っ込み掻き出した事もあって、あっさり片付いている。
むしろ問題はその後であった。
クレイFの飛び散った破片や肉に得体の知れぬ汁など、それらが元となって独特の生臭い臭気を放っているのだ。それはとても臭い、非常に臭い。ザリガニを飼った事があれば誰しも経験したであろう、あの臭いの強烈バージョンだ。
これを清掃せねばならないのだが……どれだけ掃除ロボットが発展し進化しようとも、それでは無理なことがある。主に機能やコスト面の理由でだ。
よって、トリィワクス艦内の清掃は人の手で行われている。
廊下にはクルーが一列となり、先頭が臭いの元となる大きめの残骸を回収。次が小さめを回収。その次が見落としを確認。それから拭き掃除、洗浄液散布、また拭き掃除、洗浄液、拭き掃除と徹底した掃除を行っている。もはや除染とでも言うべきかもしれない。
全員が同じ服装をしており、後で廃棄するため簡易なシャツの上下だ。サイズが合っていない者も多いため、やはりチグハグな印象の光景となっている。
もちろん晟生も同様で、頭にタオル巻きをして簡素な白シャツ一枚。容姿と華奢な体つきもあってボーイッシュな少女姿に見えており、女性ばかりの中で違和感なくとけ込んでいた。
「ああもうっ、けっこう散っているな」
列の先頭で大きめの甲殻の欠片を拾い上げる。
もちろん素手ではなくゴミ拾い用トングを使ってだ。なお、これは晟生が提案したものを整備班が形にした急ごしらえ品で、皆から好評を得ている。
ぽいっとゴミ袋に放り込み作業を続けていると、一人の女の子が慌てた様子で詰め寄ってきた。確か営繕担当だったはずだが、あまり見覚えはない。そんな程度の相手だ。
「あのっ、空知さんがこんな作業なんてしなくても」
「なんのなんの、自分の住む場所ぐらい自分で掃除しなきゃね。これ常識」
「偉いんですね」
「うん? 別に普通だよ」
微笑んでみせると、そのまま作業を再開し集中する。
そこらに残骸はまだまだ存在するため、その様子は少しもおかしな事ではない。だが実際には会話を打ち切り、しかもそれ以上話しかけられぬように身体ごと視線を逸らしていた。
視界の隅で女の子が立ち尽くし、じっと見つめてくる様子がわかる。だが、あえて気付かないふりをして作業を続けた。
実を言えば会話をしたくなかった。
どうにも相手の声に特別扱いをして媚びるような気配を感じたのだ。ついでに言えば皆で協力し作業する中で、それを『こんな作業』などと言った事が気に障っていた。しかも『こんな作業』と言って制止した割には、自分が交代しようとするわけでもない。何だか嫌な気分になってしまう。
――少し苛立っている。
辺りに漂う臭気のせいか、どうにも気分が悪い。
だが、それは言い訳だろう。実際にはソラチという名の男とアマツミカボシの存在が気になり、常に頭の片隅にある。普段は気にしないフリをしているが、こうした時につい考えてしまう。
分からない事が辛い。
胸の奥がザワザワとして、今すぐにでも答えを知りたい。このモヤモヤして鬱屈したような気分から解放されすっきりしたいのだ。
どうにも気が急いてしまう。
そうした感情を上手く制御できるほど晟生も心が出来ていない。だからEB-RAとの戦闘でも普段より攻めに出ていた気がする。
「ダメだね。これって仕事の感情を家に持ち込むダメパターンそのものだよ」
呟きながら皆の先頭に立って残骸拾いを続け、袋がいっぱいになったところで他の者と交代する。ふと気付くが、先程の『こんな作業』と言った少女の姿はどこにもなかった。結局は、口だけで実行しないタイプという事だ。
「人間関係……面倒だよ」
トリィワクスの女性たちは愛咲や初乃をはじめ、さっぱりして気軽な気質ばかりだった。だから人間関係の面倒さを少しも感じなかったが、やはり結局こういうものは付き物という事らしい。
◆◆◆
艦内清掃がひと段落つき、ほぼ全員が入浴し休憩できる者は休憩に入ったのだが、整備班が最後の仕上げにオゾンイオンプラズマを使用した消臭を行っているため、大半のクルーは食堂に集まっていた。
「なんでしょうか、戦闘よりも疲れた気がしますよ」
食堂テーブルに突っ伏す愛咲の言葉に、周囲で同じようにするクルーたちは無言で頷いた。全ての席で全員がぐったりとして、普通に座っているのは晟生だけだ。
机に突っ伏す女性たち、これはなかなか、お目にはかかれまい。
愛咲は突っ伏した状態からそのまま頭を傾けた。
金色の髪がサラサラと流れ、一部が目の辺りかかり何度か瞬きをしながら困った様子だ。それを払う事も面倒らしい。仕方なく隣りに座る晟生が手を伸ばし髪を直してやる。
「ありがとうございます」
顔を赤らめながら礼を言われた。なぜか周囲のクルーたちが一斉に頭を傾け髪を動かしだす。
「臭気測定では何の問題もないのですけど。まだ臭うような気がします」
「それ臭いが記憶にこびりついたせいだよ」
「記憶にですか?」
「嗅覚は記憶領域に直結してるから記憶に残りやすい、とか何とか聞いた覚えがあるよ」
「えー、それならずっとこのままですか!?」
愛咲は机に頭を預けたまま悲痛な顔をする。
「しばらくすれば忘れるんじゃないの。後は好きな匂いとか、良い匂いを嗅いで記憶の上書きをするとかだね」
「そうですか。でもですね、何だか自分も臭うような気がして気が滅入りますよ」
「どれどれ」
晟生は愛咲に身を乗り出し鼻で浅く息をした。気安く肩からうなじに、髪まで確認していく。お風呂上がりの石鹸と、心地よい女の子特有のいい香りがする。
「うん、問題ない」
「うっ……あ、ありがとうございます」
再び愛咲は机に突っ伏してしまった。
晟生は何も気付かず机に頬杖を付き、暇そうにあくびをする。
「それにしても整備班は怒ってたね。まあ格納庫が主戦場になって酷く荒らされたし。不機嫌になるのは分かるけど」
「あっ、それ戦闘が原因ばかりとも言えなくて……」
愛咲が真っ赤になったままの顔をあげた。
「ミシェが棚を倒してクレイFを下敷きにしたそうですが、それがお菓子を貯めていた棚だったそうでして。お陰で全部だめになったそうなんです」
周囲からは賛同と恐怖の呻きが湧き上がっている。
「だけど命には替えられないよ。仕方がないのでは」
晟生は擁護しておいて。だが、愛咲は首を横に振る。
「それが最後の一匹だったそうなんです。普通に銃撃で倒そうとしたのですが、ミシェが調子にのってトラップで倒すと。それで皆が止める間もなく棚を……」
「あいつ本当にトラブルメーカーだね」
「格納庫の床掃除はミシェ一人でやる事になりました」
「自業自得かな」
格納庫は全長数百メートルはあるトリィワクスの艦底の大半を占めている。ケットシー状態で拭き掃除でもしなければ大変に違いない。
そんな雑談の中で晟生は微笑した。
やはり一人で思い悩むよりは誰かと一緒にいて会話をしていると気が紛れる。それも愛咲とであれば、本当に気が楽だ。肩の力を抜いた状態で、何の気負いもなく普通に会話ができる。だから焦る気持ちも雑談の中に紛れ抑えられていた。
ぼんやりと考えつつ、晟生は何気に愛咲の髪を手に取り指に巻き付けては遊ぶ。遊ばれる方が動揺する事などお構いなしであった。
「自業自得のミシェはともかく、初乃と彩葉はどうしたの」
「えっ、あっはい。ミシェの手伝いをしているそうです」
「そうなの? 律儀と言うか真面目な……それなら手伝いに行こうかな」
「それダメです。二人からは、晟生さんには休んで欲しいと言われてますから」
「あ、そうなの……」
なんとなく疎外感を覚えてしまうのは、今の晟生の心理状態が原因だろう。もちろん二人の事は理解しているので、直ぐにそんな気持ちは追い払う。
「だったら何か料理でもつくろうかな」
「はい、そうしてあげてください」
今度こそ愛咲はしっかりと座り直し、丁寧に頭を下げた。彼女も彼女で二人の事を――あと残り若干一名の事も――気にしているのだろう。
「良い香りがするとなると……うん、あっさりとした味噌汁にでもしよっと」
「スープですか」
「あんまりスープとか言って欲しくないよ。これは味噌で仕立てた汁なんだから」
「は、はあ。すいません」
味噌が絡んだ晟生は意外と口うるさいため、愛咲は控えめだ。
「エビで出汁を取りたいけど……」
「EB-RAはダメですよ、もちろんクレイFもです」
「えーっ……ダメ?」
「ダメです!」
冗談のつもりだったが愛咲は真剣で、叱られた晟生は笑いながら立ち上がった。こんな雑談のおかげで、鬱屈した気分がしばし忘れられている。あとは料理でもして気分転換をすれば丁度いいだろう。
味噌汁の後は、整備班のためにお菓子でもつくろうかと思う晟生であった。
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