彼女は鬼になりにけり⑥

「淀盾君!」

 琴子が叫んだ。

 突如として出現した鬼に背後を取られ、身体を捻って避けようとするも間に合わず鋭い爪が左肩から右脇腹まで肉が抉れた。

 咄嗟に一歩下がったのが功を奏し深く内臓を傷つけることこそなかったが、3本の爪後から流れる血量と痛みは相当なもので自分でも出したことのない獣に似た叫び声を上げその場に崩れ落ちる。

「淀盾君!」

 必死に叫ぶ琴子の声も、この時の俺には届かない。

 腹部を熱く襲う痛みと戦うことで手一杯だった。

 だからこの時、琴子がどんな表情で感情で心情であの光景の中にいたのかなんて正確なところはわからない。

 でもきっと、泣いていたのだろう。

 泣き喚いていたのだろう。

 濁った記憶の糸を手繰り寄せれば、【死なないで】と必死に呼びかける琴子の姿が浮かび上がる。

 きっと限界だったんだ。

 両親に見捨てられ、大好きなじいさんと死別した琴子。

 寂しさを表面に出すことはなかったけれど、必死に耐えていたのだと思う。

 琴子は本来臆病で怖がりなのだ。

 今までは誰かを守りたい気持ちが上回っていたのだろうが、世界で1番大切な存在を亡くし彼女の心は不安定な状態だった。

 琴子にとって大切な存在に俺も含まれていたという自負はあるけれど、じいさんと過ごした年月や血の繋がりはどうしたって越えられない壁。

 じいさんよりも大切な存在になれるなんて夢にも思ったことはないけれど、祖父が死んだことで琴子がそこまでボロボロになってしまったことにはおこがましくも嫉妬してしまう。

 俺には琴子の拠り所になることができないと突きつけられた。

 それでも彼女への恋慕は変わることなく、何に変えても守ろうと誓った。

 誓ったはずなのに、俺のせいで琴子は変わってしまった。

 泣いている琴子の背後に現れた女。

 百足屋当主。

「残念ですね。その方は死んでしまうでしょう。このままではね。助ける方法ですか? あるにはありますが、それで今回の問題が解決できるとは思えませんね。……そうですね。あなたが強くならばければ。もう誰も傷つかずに済むくらい強く。ええ、そうでしょうね。それなら問題ありません。方法なら私が知っています。あなたにその覚悟があるのなら、その方をお助けしましょう。今日は偶然一味屋の方々もいらっしゃいますし、彼らに任せれば命に関わることはまずないでしょう。ええ、もちろんです。私は約束は守りますよ」

 琴子を連れ戻すと誓った。

 彼女が心の底から安心して笑える世界に連れて帰ると心に決めた。

 視界が赤に染まる。

 なのにどうして。

「淀盾君!」

 どうして俺は、1年半前に似た光景を見ているのだろう。

 どうして琴子の叫び声を聞いているのだろう。

 切り落とされた左腕が宙を舞って地面に落ちた。

 両足の太ももには地面から生えた鬼の細長い腕が1本ずつ両の太ももから貫通している。

 太ももから生えた腕によって二の腕から先を切り離されたのは明白で、あの時ほど出血が多くないことと両足を固定されたことで奇しくも状態を保っていることで痛みの割に意識ははっきりとしている。

 だから、琴子の悲痛な表情がはっきりと窺えた。

「どうして!? 私、強くなったのに。当主様に強くしてもらったのに。折角、折角鬼の心臓を移植したのに! どうして、どうしてまた淀盾君が傷ついてるの!? どうしてどうしてどうして!」

 伸びた髪を掻き毟る彼女は、癇癪を起した幼子のようにも情緒不安定な老女のようにも見えた。

「琴子!」

 鬼の腕が俺の首めがけて伸びてくるが、肉を貫いた爪が喉元に届く前に爆散する。

 以前の教訓を生かし急所に術式を施しておいて正解だった。

「私が弱いから」

 地面から両腕を無くした鬼がズルリと姿を現す。

 餓鬼を彷彿とさせるその鬼は骨と皮しかなく、俺よりも一回り小さいくらいの大きさは鬼の中ではかなり小振り。

「私が弱いからいけないんだ」

 米神まで避けた口が厭らしく弧を描き、その笑みは縦に3枚に分かれ、巨大な鬼の顔が眼前にあった。

 俺の身長とかわらない顔。

 四つん這いになりこちらを覗き込むソレの真っ赤な目に映るのは、ただ呆然と立ち尽くすことしかできない無力な俺だけ。

「……琴子」

 鬼が――琴子が首を傾げた。

 地面には先ほど俺を襲った鬼が切断された状態から徐々に消滅し始めている。

「琴子」


「コトコッテナァニ?」


 鬼の牙が肉に触れた。

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