3 欠席者1

 停学を受けた日向は月曜日、早速自宅で過ごしていた。


 午後八時半。いつもなら春高に登校し、ホームルームが始まっている頃合いだが。


「こんにちは」


 玄関先になぜか志乃がいた。

 制服ではない。涼やかな麦わら帽子を脱ぐと、いつものお下げがちょこんと揺れた。


 視線を落とすと、ノースリーブのワンピース。大胆にも肩が露出しているが、一目でインドアとわかる肌合いだ。同時にスキンケアも必要十分だと日向は思った。


 撮り師として数多の女子高生を撮ってきたのだ。外見の水準はそこそこわかる。

 志乃なりに気合いが入っていることも。


「学校は?」

「ずる休みしました」


 ちろっと舌を出す志乃。


「なんていうか――あざとくなったよね東雲さん」

「……」

「志乃さん」

「……」


 頬を膨らませて拗ねる様は、とても三ヶ月前のおどおどしていた図書委員には見えない。


「志乃」

「はい。先ほどの質問ですが、日向君のおかげです」

「俺も罪な男だね」

「本当ですよ」


 ノリに乗ってくる志乃を見て、日向は自らのテンションを自覚する。


 盗撮を犯したにもかかわらず事実上黙殺され、楽しそうな居場所まで提供してもらえた日向は、非常に機嫌が良かった。

 とはいえ、停学というていは甘んじて演じなければならない。たとえ相手が自分を慕う志乃であろうと。


「冗談はおいといて、何の用?」

「今日は交渉しにきました。入れていただいても?」

「……いいけど。無駄骨だぞ」


 日向、志乃と続いて中へ。

 リビングに入ると、志乃は勝手にキッチンをがさごそし始めた。


 しばらくすると、コーヒーを淹れて戻ってくる。マグカップは一人分だ。


「いかがです? 気が利くでしょう?」

「ありがとう」


 志乃は姿勢良く座り、こくりと喉を鳴らす。

 目に見えて湯気の立つコーヒーを躊躇いなく飲めるのは、志乃の地味な特技かもしれない。


(こんな細かい点が目につくとは。変わったと言うなら俺もだな)


 日向は胸中で苦笑した。


「早速本題に入らさせていただきたいんですが」


 日向は志乃と向かい合って座り、姿勢を正すことで続きを促す。


「私は日向君を好いています」

「知ってる」

「将来は結婚したいと思っています」

「やめといた方がいいな」

「生涯おそばにいたいとも思っています」

「……重い」


 ため息をつきそうになる日向に対し、志乃は花のような笑顔を咲かせた。


「重たい想いはお嫌いですか?」

「普通に勘弁してほしい」

「申し訳ありませんがお断りします」


 我が家のようにくつろぎ、コーヒーを味わう志乃を前に、日向はとうとう嘆息するのだった。


「……日向君の返事ですけど、ノーでお変わりないんですよね」


 語尾のイントネーションは疑問ではなく、呟きのそれだ。「ああ」無論、日向は肯定する。


「では、どうしたらイエスと言っていただけますか?」

「すぐには思いつかないな」

「ということは、可能性はありえると?」

「ゼロとは言えない。何事にも絶対はない」

「そのとおりですが、ちょっと安心しました。日向君の意志としては、少なくともゼロパーセントではない――そういうことだもの」


(鋭いな……)


 日向は心中で舌を巻く。

 可能性はゼロだと日向が否定しなかったのは、日向がその可能性も少しは考えているからに他ならない。それを正確に見破られている。


 日向の持論では結婚など不要だ。むしろ害悪でさえある。

 自分のことは自分でやれば良いのだから。

 できないのなら、できるように鍛錬していけば済むのだから。

 パルクールにも通じるところがある。己を知り、限界を知った上で、少しずつ底上げしていく――そうすることで極めて正確かつ柔軟でありながらも、堅固で強固な心身と生活が手に入る。


 パートナーの存在はその邪魔になる。

 考えるまでもないことだった。


 しかし一方で、結婚というものは、世の中では未だに人気の根強い活動でもある。一般人はもとより、プロのアスリートなど著名人が手を出すことも珍しくない。

 その事が日向は不思議だった。


 結婚など極めて動物的で原始的な営みにすぎない。前時代の遺物とさえ言える。

 現代人は違うはずだ。己の意志と意思で、自らの人生を切り拓いていくことができるのだから。そこに必ずしもパートナーは必要無い。むしろ自己を探求していく上では雑音ノイズにしかならない。


 パルクールに限らず、何事でもそうではないのか。

 なのになぜ、皆は結婚したがるのか。疑うこともなく手を出すのか。

 日向には不思議でならなかった。


 しかしながら人気なのもまた事実。人気であるからには相応の理由があるはずだ。

 日向自身もまた、自らの固定観念により結婚のメリットを見逃している可能性もある。


 そういうわけで日向は、結婚という手段をあえて捨てず、頭の片隅に置いていたのだが。


「ゼロでないなら、付け入る余地はあるはずです」

「付け入るって……」


(まさか結婚の適齢期前に検討することになるとはな……)


 日向は苦笑してみせたが、志乃が満面の笑みを浮かべてきたのを見て、間もなく引きつった。

 引きつるという感覚を久々に思い出す。


 しかし、彼女の攻撃は序の口に過ぎなかった。


「これをどうぞ」


 志乃が懐から取り出したのは、一枚の紙。

 とん、と置かれたそれに目を落とす。


「……は?」


 婚姻届だった。


「私の記名と押印はしてあります」

「いやいや」

「あとは日向君の分だけです。用意もありますよ」


 さらに志乃はボールペンと判子はんこも置いてきた。


「書くつもりはさらさらないんだが」

「今から説得してみせます」


 志乃はこほんと咳き込み、もう一度コーヒーに口をつける。真剣な表情が一瞬ほころんでいた。


 優しくマグカップを置いた手は婚姻届に伸び、折りたたまれると、懐に戻っていく。「本気を見せたかったんです」志乃は言いながら、ボールペンと判子も回収した。


「まず結論から言うと、私は日向君についていきたいです。競技選手となる日向君を支える若妻のポジションですね」

「色々と言いたいが、いったん全部訊こう。深呼吸だけさせてくれ」

「はい、構いませんが」


 首を傾げる志乃をよそに、日向は深呼吸を行う。


(このシチュエーションで入るのは初体験だ)


 深呼吸は日向が超集中ゾーンに至るためのルーティンパフォーマンスである。

 といっても実際は入ることもできるのだが、撮り師として過ごしてきた時の癖は拭えず、こうしてダミーを差し込むことにしたのだ。


「よし、落ち着いた。どうぞ」

「では早速。私が日向君のおそばにいるためには、日向君にとって私が有意義であることを示さねばなりません」


 淀みなく話す志乃。

 体の力みもなければ、視線の不自然なズレもない。


「私は有意義です。家事を手伝って負担を軽減できますし、夜間寂しい時の話し相手になることもできます。何なら夜のお相手も」


 性的な話題に言及してもなお、志乃には一切の乱れがなかった。


 まるでプレゼンテーションを見ているようだ。

 というより、以前日向が教えたものだ。


(ビブリオバトルをイメージしているのか)


 日向は以前、図書委員として志乃を励ました時に『自分で調べる』という考え方を教えており、その過程でビブリオバトルを偶然発見。併せて勧めたことがある。

 これを受けた志乃はすっかりハマってしまい、学外のコミュニティに顔を出している他、文化祭でも出し物をしてみせた。


「ですが、これらはオプションにすぎません。私が持つ強みは二つあるんです」


 志乃が人差し指と中指を立てた。

 ピースしているようには断じて見えない。タイミングも、速度も、角度も、すべてが洗練されている印象さえ受けた。


 綺麗な中指が折り曲げられる。


「一つ目は、私の知識。私にはたくさんの本から得た知識があります。日向君の会話についていくこともできますし、日向君が持たない視点を提供することもできると思います」


 志乃がプレゼンモードで望んでいるならば、聴衆オーディエンスとして振る舞うのが礼儀だろう。

 日向は相づちを打ってみせた。


「そして二つ目ですが、私が日常的に規範的な生き方をすることもできる、ということです」


 普段なら理解にひっかかりそうな言い回しだが、超集中状態の日向はするりと消化する。

 もっとも志乃からもすぐに補足が入っているが。


「規範とは何らかのガイドラインやルールに従うことを意味します。そして日常的な規範と言えば、私達二人が共同生活するにあたって必要なガイドラインやルールのことです」


 日向はうんうんと複数回頷いてみせた。


(まずい。ここまで理解されていることが嬉しい……)


 志乃に注視しつつも、日向の頭はフル回転する。


 志乃を受け入れなかった場合。

 志乃を受け入れた場合。

 今は受け入れないが、後で受け入れる場合。

 その場合のタイミング――


 詳しい話を訊かないことには何もわからないのに、数々の可能性と戦略を検討してしまう。


(超集中の弊害だな)


 一般的に――といっても凡人には一生縁の無い世界だが――超集中の発動には多数の条件があり、その一つに明確な目的とルールクリアランスがある。

 スポーツ選手が超集中に入りやすいのは、そのスポーツに十分なクリアランスがあるからだ。明瞭になっているからこそ、最適化できる対象が生じる。何年、何十年と、心身ともにそのクリアランスに最適化し続けた結果、ようやく雑念ノイズの一切無い集中に至ることができるのだ。


 一方、今の日向は、頭を明瞭クリアにするためだけに超集中に入っただけだ。ただの対話行為に、スポーツのようなクリアランスはない。そんな時に脳がどうなるかは人次第だが、日向の場合は棋士のように可能性の検討を繰り広げる挙動になるようだ。


(邪魔だ)


 そんな余計な回転を


 しくじったら死ぬリーサルなパルクールを楽しみ続けた日向にとって、自らの制御など造作もないことだった。

 佐藤とのお別れを経て自身の強さを自覚した日向だが、この所業が人間離れした神業であるという自覚はまだ無い。


「ここまではご理解いただけましたか?」

「問題無い。たとえば俺がこういう点が不便だからこういうルールをつくろう、と提案してもちゃんと話し合ってくれる。適当や曖昧という無駄を許さず、ビジネスライクに対応してくれる、と。そうだな?」


 志乃は首肯し、


「ですが日向君の提案を一方的に受け入れるつもりはありません。私も人間ですし、本の虫ですし、日向君を愛しているので、快適な暮らしと読書タイム、それから愛を育む時間も欲しいです」

「そこは話し合って決める、と?」

「はい。日向君の邪魔は致しません」

「時間は一秒たりとも無駄にしたくないんだが」


 日向は既に質疑応答に移っていた。志乃のプレゼンが実質終わったことが肌で感じ取れたからだ。

 志乃も異論は無いらしく、食らいついてくる。


「それは私も同じです。ただ、時間があるからといって生かし切れるとは限りません」

「と言うと?」


 志乃がこほんと咳払いをすると、コーヒーを差し込んだ。

 目を閉じて、ゆっくりと飲む。味わっているというよりも、話の内容を整理しているように見えた。


 マグカップが置かれ、志乃の双眸に捉えられる。


「私の場合、集中力は朝がピークです。次第に落ちていって、夜にはくたくたになります。実は本の内容もあまり入ってきません」

「……」


 日向は言葉に詰まった。


「日向君も同様なんじゃないかと思います。たまに睡眠時間をコントロールして活動時間をずらすことはありますが、活動時間そのものは伸びていない。夜になれば、くたくたのはずです」

「そのくたくたタイムを、志乃と過ごす時間に充てろ――そういうことか」

「はい」


 ここで日向が黙考に入る。

 そうであることを示すために、あごに手を当てて俯く動作も忘れない。


(睡眠時間以外のほぼすべてをトレーニングに充てることもできるんだが……。本音を言えば、あそびは欲しい)


 何事にも『あそび』は必要だ。

 意識的に空白の時間を設け、そこに自らの意図をはさまない何かを入れてみる――そうすることで見えてくるものがあるし、得られることがある。

 人は主観的な生き物であり、固定観念にとらわれるのが常だ。だからこそ、そうやって打破してもらう余地をある程度は確保しておく必要がある。


 日向の場合、施設での交流や学校生活が『あそび』だった。


 来年にはこれらがなくなる。


 一人暮らしは容易いが、『あそび』の確保はまだ検討できていない。


(焦るものでもないし、見つからないとも思っていないが……)


 こうして迷っている時点で、答えは決まっているようなものだった。


「志乃。俺の負けだ。乗ってやる」


 発表者の顔を崩さない志乃に、追加の条件を提示する。


「ただし結婚はしない。事実婚でいいな?」

「構いません。ですが――」


 志乃は立ち上がると、日向のそばまでやってきた。


「契約成立ということで、証をください」


 両手を胸に当て、少しだけ上を向き、唇を尖らせてみせる志乃。


「キスはしないぞ。菌を交換したくない」

「虫歯や他の病気でもなければ、交換しても問題無いんですよ」

「虫歯でなくても歯周病を移される可能性はある」

「私、これでも歯には自信あるんです。見ます?」

「ああ、見せてもらおう」


 日向も腰を上げ、志乃の前に立つと、上目遣いが寄越された。


 にっと嬉しそうにはにかみ、歯茎ごと見せてくる志乃。

 お手本のような白さに、血色の良さだった。

 自分の真似をして律儀に磨いている幼なじみとも遜色が無い。油断していると吸い込まれそうだった。


「えいっ」


 形の良い唇が閉じられ、結ばれ、突っ込んできたが――日向は難なく回避する。


 二人の距離が数足ほど開いた。


「意外と臆病なんですね」

「トレーサーには褒め言葉だ」

「わかりました。ではエッチを致しましょう」

「何もわかってねぇ」

「いいえ、何かしらの証はもらいます。でないと一歩抜きん出ることができません」

「くだらない」

「重要なことです。日向君が、日向君の意志で、私にそうしたという事実が必要なんです。一番手軽なのはキスなんですが、嫌なら仕方ないですね。エッチしましょう」


 志乃はてくてくと歩いてくると、日向の顔、上半身、下半身と何度か視線を走らせる。

 先ほどの勢いは虚しく、超集中でもなくともわかるぎこちなさだった。


 最終的には自棄やけになったのか、抱きついてきた。


「慣れないことはするものじゃない」

「これから慣れます。一緒に慣れていきましょう」

「……追々な」


 日向が嘆息混じりに言うと、「やった」胸元から可愛らしい、しかしガッツポーズを連想させるような声が聞こえてくるのだった。

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