3 プール

 春日家別邸の敷地は広大で、付近の住民数千人も優に収容できるといわれる。


 そんな敷地内の一画にプールがあった。

 直径二十メートルほどの大円には水面が張られ、空を映す。

 外周の先はプールサイドとなっており、大理石の地面が高級感溢れる光沢を放っている。直射日光を浴びても熱くならない材質であり、春日家が誇る技術の一つらしい。


 プールのそばにはテラスつきの建物が一つあり、全体を見下ろせるようになっていた。今はラフな格好をした麦わら帽子の使用人が清掃に勤しんでいる。

 ちょうどその下、白いパラソルとサマーベッドが並ぶ辺りから賑やかな声が漏れていた。


「春子ちゃんって意外と小さいね」

「どこを見て言っている?」

「え? おっぱい」


 五つほど並んだサマーベッドのうち、四つが埋まっている。

 端に座る祐理は体を起こし、隣でリクライニングの姿勢を取る春子の胸元を凝視する。


「くだらん。胸など邪魔なだけだ」


 春子はバンドゥ――胸部を水平に覆う筒状のチューブトップビキニを着用しており、雪原のような綺麗な肩をむき出しにしている。


「春子ちゃん、もっと大きいのかと思ってた。さらしとか巻いてるイメージ。えるちゃんは一時期巻いてたよね」


 露出激しめのビキニを着た祐理が自身の胸をとんとんと持ち上げる。


「もうやめましたよ」


 春子をはさんだ向こう側では、真智の順で寝そべっていた。


 えるはタンキニ――下半身はビキニだが上半身はタンクトップで露出を抑えたもの――を着ている。祐理に負けないスタイルの良さは健在で、特に豊満な膨らみは隠しきれていない。

 真智はホルター――肩ひもではなく首ひもとなっているタイプのビキニだ。祐理やとは比べるまでもなく乏しい胸部だが、胸を持ち上げられるというメリットを生かし、小さな谷間を形成している。


「さらしは快適ですが、胸に悪いんです。今は祐理が勧めてくれたスポブラがありますしね」


 えるも自分の胸元に手を当てる。ボリューミーな弾力が見て取れた。

 その隣では真智もの真似をしていたが、ぺたぺたと擬音が聞こえてきそうな有様だった。


「なんと? 私にも教えてくれないか」


 春子がどん、と胸を叩く。


「いや春子ちゃんには必要ないでしょ」

「ある。貧相でも揺れるのだからな……ってなんだ宮野」

「違和感。凜々しい口調のお嬢様は巨乳だと相場が決まっている」

「喧嘩売ってるのか貴様」


 春子はサマーベッドから立ち上がり、真智に一歩近づいた。


「真智はアニメとかマンガが好きですからね」

「ラノベも読む」

「私には縁の無い世界だ」

「春子も読んだ方が良い」

「断る。そんなものにうつつを抜かす暇はない」


 マイペースに喋る真智とのそばで、春子も嬉しそうに口を動かしている。


 人見知りしない面々なだけあって、このメンツは既に友人関係になっていた。このプールも春子の父、一久が案内したものだ。


 春子がふと、そばの椅子――自分との間で足を組んで座る沙弥香を見やる。


「で、なんでアタシを見るのよ?」

「いや? 意外と嗜んでそうだと思ったのでな」

「失礼ね。アタシもほとんど見ないわよ。お兄ちゃんしか眼中にないもの」

「……」


 不意に皆が意図的に避けていたワードの一つが飛び出し、沈黙が訪れた。


「……まさか、競技化という展開は予想してなかったよね」


 祐理が呟くと、「そうね」沙弥香を始め全員が同調を示した。



 日向の処遇が言い渡されたのは、この別邸に来てから一時間後のことだ。

 日向とともに来た一久本人から直々に――口外無用との前置きとともに――説明があったのだ。


 曰く、日向の罪は二つ。

 一つは文化祭絡みで女子トイレ侵入、春子の盗撮、その後の逃走にて来客を突き飛ばし怪我をさせたこと。

 もう一つは体育祭絡みで屋上への不法侵入、校内での暴走行為、校舎内の汚損や破損といった器物損壊。


 このうち後者、体育祭の分は一週間の停学をもって相殺とし。

 前者、文化祭については、既に春日家が関係者と示談しており解決済となっている。


 これに異を唱えたのが春子で、日向は文化祭でも体育祭でも不特定多数を盗撮していたはずだと主張したが、そんな事実はないと一蹴された。

 事実、証拠など無かった。確かな根拠がなければ、主の決定が覆ることはない。


 歯噛みする娘をよそに、一久は説明を続行。


 彼の本題は次の通りだった。


 春日家が日向を無償で助ける道理はない。しかし既に助けてしまったため、日向は何らかの償いをしなければならない。

 そこで日向に提示されたのが、競技選手――新太提唱の新競技『フリーランニング』の選手としてデビューすることだった。


 唐突な展開に戸惑う彼女達もよそに、一久はフリーランニングの説明に入る。

 競技概要、開始時期、日向側のスケジュール。特に来年からの本格的な準備に備えた退まで端的かつ魅力的に伝えてみせた。

 春子も含め、いつの間にか全員が一久に聴き入っていた。


 その後、一久は春子に友達が出来たことを喜び、すぐさまこのプールを用意。

 一方で日向は解放されず、再び一久と行ってしまった。


 祐理の目には、見慣れた幼なじみの背中は大層楽しげに見えた――



「いいの、春子ちゃん?」


 ぎゅっと握られたのは春子の拳だ。


「正直言うとはらわたが煮えくり返りそうだが、父の決定なのだから仕方ない」

「そんなわけないでしょ」


 がたっと沙弥香が立ち上がり、一歩詰め寄った。


「詳しくは追及しないけどアンタ、盗撮されたんでしょ!?」

「そうだな」


 春子は他人事のように呟くと、えるのサマーベッドに腰を下ろす。

 相変わらず姿勢が良く、その厳かな佇まいは、水着だというのに全員の気を引き締める。


「私は春日家を背負う者だ。そんなものよりも優先するべきことがある。渡会日向は父に見込まれた。彼にはそれほどの価値があったのだ。なら、私も従うしかない」


 口調は平静だったが、太ももの上に置かれた拳は握られ、ぷるぷると震えていた。

 それも数秒もしないうちに収まる。


「春子……」


 沙弥香は納得のいかなさのぶつけどころがわからないといった様子で立ち尽くしていたが、間もなく椅子に座り、話題の切り替えを図る。


「にしても、アイツがそんなことをしてたとはね……」


 日向が盗撮を行った動機と背景についても簡単に共有されている。


 曰く、対戦ゲームを楽しみたかったからと。


 文化祭では春子を狙い撃ちするとともに、女装のスリルを求めた。

 体育祭では多対一の広範囲な鬼ごっこを仕組んだ。

 そしてこれらのために周到な計画と準備を進めてきたのだということを、彼女らは日向の口から聞かされたのだった。


「わからないでもないけどねぇ……」

「少なくとも性欲よりは説得力がありますね」

「同感。昨日は勃起してたけど、たぶん質問が悪かった」


 祐理の発言にと真智も同調を示した。


 日向には誰構わずちょっかいを出すきらいがある。

 鬼ごっこを楽しむためだ。相手が怒り、追いかけてくれれば、逃走を楽しめる。これはすなわち、相手が怒るような動機を与えさえすれば、いつでも楽しめることを意味する。


 ゆえに日向は挑発のみならず、暴言を浴びせたり、物を取ったり、あまつさえスカートをめくったり尻や胸を触ったりといった痴漢行為に及ぶことが多々あった。

 施設長、烈の粘り強くも苛烈な教育もあって、今の日向はだいぶまともだが、まともでなかった時期も長い。


 しかし、そんな歴史など知る由もない沙弥香は、詰問するようにまくしたてる。


「なんでよ!? 盗撮よ? 怪我もさせたんでしょう? ダメに決まってるじゃない! そんなこともわかんないの? おかしいんじゃないの!?」

「だから被害者側はすべて解決したと言っている」


 口を開いたのは春子だ。もはや拳を握ることもなく、落ち着き払っている。

 そのことが余計に沙弥香を苛立たせた。


「そうじゃないわよ。アイツが他の人を盗撮していた可能性も気になるし、アンタが泣き寝入りしているのも気に食わないけど、まあ置いとくとして。アタシが言ってるのは加害者のことよ! ……アイツ、罪を償ってないじゃない」

「それも言った。彼は選手になることで償うのだ。停学も一週間ある」

「生ぬるい。そんなの償いにはならないわ」


 沙弥香と春子が応酬を重ねる。祐理、える、真智は静観を決め込んでいた。


「ならばどうしろと言う。土下座でもさせるか?」

「形だけの行為と言葉に意味はない」

「なら少年刑務所にでも入れるのか?」

「そうね。それくらいのことはしてるでしょ」

「私もそうしたいし、そうするべきだと考えてはいるが、父は違うのだろうな」

「何よ、もったいぶって。アイツは凄いから優遇するべきとでも言うつもり?」


 春子が迷うことなく肯定した。


 じりじりと夏の日差しがパラソルを覆っている。

 その内側、人工的な日陰にも、汗がまとわりつくような視線が集まっていた。


命の優先順位プライオリティ・オブ・ライフ。春日家における絶対ルールの一つだ」

「ライフとは生活ですか?」


 すかさずが問うと、春子は「命さ」平然と訂正する。


「命……」

「命ってそんな……」


 真智と祐理が呆然としている中、「馬鹿馬鹿しい」沙弥香が刺々しく言う。


「そんなこと言ったら重役や政治家は何やっても許されることになるじゃないの」

「その重役やら政治家やらが優先に値する存在だったならな。幸いにも、そんな人はほとんどいないと父は言っていた。私もそう思う」

「上から目線ね。神にでもなったつもり? 優先に値するってなんでアンタらの尺度で決められなきゃいけないのよ。気に入らない」

「まあまあ二人とも。落ち着いてください」


 顔を突き合わせる沙弥香と春子の間に、えるが身体ごと割り込む。


「えるちゃんの言うとおりだよ二人とも」


 祐理もすかさず援護した後、沙弥香を振り向いて、


「沙弥香ちゃんもどうしたのさ? 日向のこと、好きじゃないの?」

「ええ、好きよ。好きだったわよ」


 沙弥香は嘆息の後、春子のサマーベッドに腰を下ろす。

 祐理側を向いて、両手両脚を組むと、射竦めるように祐理を睨んだ。


「だからこそよ。このアタシが惚れたくせに、バカなことしやがってぇ……。ホント裏切られた気分だわ」


 沙弥香が春子に向き直る。


「ええ、春子。アンタに同意するわ。アタシも非常に腹が立ってる」


 口調こそ鋭かったものの、表情と言動は至って落ち着いていた。

 そんな沙弥香だったが、「それで」切り替えるように口にすると、パラソルの外を向く。


 残る四人も追いかけるように振り向くと。

 少し離れたところにもパラソルとベンチがあり――志乃が本を読んでいた。


 同様にビキニを着ているが、えるとは対照的に下半身をパレオで覆っている。この中で最も運動経験が乏しく、筋肉も少ないが、絹のように白く透き通った肌のチラリズムはかえって扇情的ですらあった。


「……」


 自分の世界に入り込んでいる――


 傍から見ても容易にそうだとわかるほどに、志乃は映えている。


「アンタはどうなのよ志乃」


 志乃は応答するかのようにページをめくると、顔をあげて、


「日向君は償っていると思いますよ。もし彼が罪悪感を感じる人間でないなら、最初から私達など相手にしていません」


 志乃は知っている。


 日向が無愛想で無遠慮な上、他人に無関心であることを。

 しかし一方で、人としての優しさを持っていないわけではないことを。


 志乃は日向と話すようになってからまだ半年も経っていない。

 それでも図書委員での活動やデート、あるいはお泊まりなどを通じて、意外と温かく思いやりのある彼の人柄を感じている。決して欠如しているわけではないのだ。


 彼が無慈悲に見えるのは、春子の言葉を借りるなら優先順位を付けた結果にすぎない――

 志乃はそう捉えている。


「日向君はいわゆる天才です。非常識な天才には相応の居場所と常識人という頭脳ブレーンが必要ですが、彼にはどちらもありませんでした。そんな彼が、ようやく競技選手という居場所に落ち着きつつあります。誰もが成し得なかったことを、沙弥香さんのお兄さんと春子さんのお父さんが用意してみせたんです」


 言いながら、志乃は見開きの中央にしおりを差し込み、ぱたんと閉じる。


 姿勢良く座り直したのを見て、沙弥香が再び問う。


「そうじゃない。アンタはどう思ってんのよ? それでいいの?」

「よくないです。だからこそ私は――いえ、私達は決めねばなりません」


 志乃は胸に手を当て、皆に問い返す。


「彼とどう向き合うのか」


 疑問がカウンターとなって沙弥香を殴る。

 場の全員も巻き込んだ。


 すぐに対処できた者はいなかった。


「いずれにせよ、日向君はあと一年もしないうちにいなくなります」


 日向の退学時期は来年三月と発表された。

 つまり日向は三年生を迎えることなく、春高を去る。


「この件は既に落着したと私は考えています。残り少ない今を犠牲にしてまで、あーだこーだと蒸し返すつもりはありません。今までみたいに、いえ、それ以上に日向君と楽しみたいですし、皆さんとも過ごしたい――それが私の思いです」


 志乃から突きつけられた現実を前に、全員が閉口していたが、「東雲」春子が口を開く。


「一つ訊かせてくれ。天才には居場所と頭脳が必要だと言ったな。居場所はわかった。では頭脳はどうなんだ?」

「まだ空いていると思います」


 志乃は立ち上がり、軽めの準備運動を始める。「空いている?」春子が口にしたが、志乃は答えず、プールサイドをぺたぺたと歩く。


「せっかくのプールですから、泳ぎましょう」


 ちゃぽんと片足ずつ入水する志乃。


「同感」

「……そうですね」


 真智とも続く。


 そんな様子を見た沙弥香と春子は、互いに顔を見合わせた。

 憤怒、当惑、諦観――複数の色が混ざった、なんとも微妙な表情。と、そこに「だああ!」祐理の声が割り込む。


「ええい、ままよ! わたしも泳ぐぜぃ!」


 祐理がプールにダイブする。

 水飛沫みずしぶきが目に見えて出現し、飛んできた粒が二人を撫でた。


「志乃の言う通りね。今さらどうこうできることじゃない。アタシも泳ごうかしらね」


 祐理にせよ、沙弥香にせよ、気持ちの切り替えが早い。

 これはトレーサーだからだ。パルクールとは絶えず己を見つめ、目の前の障害物と向き合い、向上心や恐怖心を制御するものである。心の在り方や持ち方といった精神的行動は、まさにトレーサーに要求されるものだ。

 トレーサーとして実力に優れていることは、切り替えの要領にも長けていることも意味する。


「……」

「春子?」

「……何でもない。そうだな」


 意味深な間をもたせた春子は、同じく意味深な表情を携えていた。

 それが間もなく霧散する。


「新井。どっちが速く泳げるか勝負しないか?」

「上等じゃないの。みんなも誘うわよ」


 男子顔負けの対戦ゲームが始まるのだった。

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