4 屋上

 春日家が別邸で日向達をもてなす一方、村上学校でも客人を迎えていた。


「――にしてもあちいな。喫煙室くらい用意してくれよ」

「あいにく煙草は滅びればいいと考えるたちでな。ここで吸えるだけありがたいと思え」


 屋上には施設長こと村上烈と、彼と旧知の仲である陣内――正体は盗撮動画販売サイト『カミノメ』のオーナー『ジン』だが烈は知らない――が肩を並べていた。

 その背中は出入口の建物に預けられている。今現在、屋上で唯一影になっている場所だ。


 陣内が美味そうに煙草をくゆらせる。

 その隣で、烈はのんびりと空を眺める。


 前方、敷地外の林からは、みんみんとせみがやかましい。

 後方、校庭からは子供たちの元気な声が届いてくる。時折バットやグローブの音も混ざり、烈は「この炎天下でよくやる」と何度抱いたかわからない関心を抱く。


 しばらく経ったところで、陣内はポケットから携帯灰皿を取り出し、吸い殻をしまった。


「ともあれ日向の事情はわかった。まさかそんなことをしていたとはな……」


 今日の早朝、烈は陣内に連絡を取り、こうして呼び出した。

 昨日大浴場で事項を共有したばかりだ。


 元々陣内は日向の監督役であり、日向をパルクールのプロとしてデビューさせるべく二人三脚で歩んでいく立場にある。

 烈は事情を訊こうと連絡を取ったのだが、陣内はまだ聞かされていなかったらしい。そこで烈は今後どうするかも含め、ここで話し合っていた。


「陣内。お前の怠慢でもあるんだぞ」

「いいや、ただの作戦ミスだ。オレは戦略的に日向を放置していたが、もう少し監視しておくべきってのが正解だった。それだけの話さ」


 悪びれもなく言う隣の大男に、烈はため息で呆れを表明。


「何か兆候は無かったのか? 様子はおかしくなかったか? 放任というていで怠けてたんじゃないだろうな」

「あんな才能を前に、誰が怠けるものか。……ぶっちゃけお手上げだったけどな」


 陣内もまた嘆息すると、両手を頭の後ろに組んで、どかっと壁にもたれ直した。


「パルクールでメシを食うだけなら簡単だ。オレなら複数のプランを立案できる。だがな、日向は富や名声では動かん」

「女は?」

「動くと思うか?」

「思わんよ。言ってみただけだ」


 日向が色恋や性欲に惑わされないことを、烈は誰よりも知っている。


 村上学校の子供たちは、烈の教育方針もあって多かれ少なかれ異性を意識するのが常であるが、日向はその限りではなかった。

 祐理という施設一の人気者と同棲めいた生活こそしているものの、彼女本人の様子やらLIMEやらを見るに、効果は無いだろう。


「前にも言ったが、日向は極限な状況下エクストリームで運動することに生き甲斐を見出している。それ以外の一切は、それを行うために必要な整備でしかない」

「快楽の持続的消費、か」


 烈がぼやく。


 以前もこうして陣内と話したことがあった。

 その時に陣内に問いかけたのだ。日向の本質とは何かと。



 ――アイツは快楽を追い求めいる。


 ――なぜ日向があんなに自分を安定させているかってことさ。



 それが陣内の見解だった。


 日向はパルクールを用いて、死と隣り合わせの運動を日常的にこなしている。エクストリームスポーツでしか味わえないような高揚、スリル、緊張といったものを何度も何度も味わっている。

 無論、常人に――というより人間にそんなことができるはずもない。


 だからこそ日向は己を鍛え続けているのだと。


 誰よりも頑固に、堅固に、強固に。

 常人には耐えられない所業に耐えるために、いやために。


「なあ、れっちゃん。オレは日向に、一種の越えられない壁があると感じている」

「遠回しな物言いだな」

「ならば直接言うが、日向には障害があるだろう? 何の障害か教えてくれないか?」


 障害の有無は、子供たちのトップシークレットとも言うべき情報だ。迂闊に教えられるはずがない。

 しかし陣内は日向の関係者であり、元々烈が信用かつ信頼して託した相手でもある。


「なぜだ?」


 烈は障害の存在を否定せず、理由を問う。


「好奇心だ。新太君みたいに正解に辿りつくヒントがあると思ってな」

「好奇心、か」


 陣内らしいな、と烈は苦笑した後、


「日向が持つ障害は二つある。一つは愛着障害」


 愛着障害とは、幼少期以前に十分な愛を受けなかったことにより、何らかの心理的または社会的な問題を抱えることをいう。通常は両親との親密な生活により陥ることはないが、虐待を受けるなど特殊なケースで発生ことがある。


「ほう。ありきたりだな」


 陣内がありきたりと称したのは、ここ村上学校――というより児童養護施設の世界ではさして珍しいことではないからだ。


「具体的な病名は特定できずにいるが、私の言葉で言語化するなら『利他の欠如』とでも言えそうだ」

「心から人を思いやることができない?」

「そう捉えても良い」

ASPDサイコパスとは違うのか?」

「違うだろうな」


 烈が隣を見やると、陣内はもう一本、煙草入れから煙草を取り出しているところだった。

 携帯灰皿もそうだが、いちいち高級感が漂っている。


「陣内。お前も言ったじゃないか。日向は金でも権力でもセックスでも動かないと」

「そうだったな、失礼」


 陣内はライターで煙草に火をつけながら、器用に口も動かす。


「アイツは病的なまでに几帳面でストイックだ。この手の障害を持つ奴に、あんな自律ができるとは思えん。いっそのこと診断してもらったらどうだ?」


 ふうと煙を吐き出す陣内。


「本人に言え。時間の無駄だと一蹴されるだろうがな」

「違いない」


 二人でくくっと笑った。


「で、二つ目の障害は何だ?」

「これは特に他言無用で頼むぞ。――扁桃体へんとうたいの損傷だ」

「どこかで聞いたような話だ。なんだったかな」

「これもまた症状は様々だが、日向のケースはシンプルだ。恐怖を感じることができない」


 烈が言うと、陣内の手が止まった。

 ぽろっと煙草が落ちる。


「……なる、ほど。そうきたか」

「卒業した医師に協力してもらって、極秘に検査したのだ。物心ついた頃だからか、本人は覚えてないみたいだがな」


 烈が地面に目を落とす。煙草の先が微かに灯っている。


「検査の結果、遺伝によるものか、後天的なものかはわからないが、ともかく扁桃体という恐怖を司る部分に損傷があった」

「厄介だな。恐怖心が無い人間はすぐに死ぬ」


 陣内は足元の煙草を軽く踏んだ。火はすぐに消えた。


「だが日向はぴんぴんとしている」

「それもパルクールという、まさに恐怖心と対話することを生業とした世界でな」

「……」


 煙草を拾い上げる陣内を見下ろしながら、烈は回顧する。


 烈にパルクールの世界はわからない。

 ただ日向が頭一つ、いや二つ以上も飛び抜けていたことは、どことなくわかっていた。現に、あの新井新太さえ一目置いているのだ。

 いや、前々から置いていたのだろう。だからこそ新太は、依頼された講師業――当時は高校生である――を終えてもなお、この施設の子供たちと付き合ってきたのだ。日向と付き合うために。


「……私はとんでもない魔物を引き取ったのかもしれんな」

「違いないぜ。日向はそこいらの人間よりもよほど安全で安定している。恐怖心が無いのに、だ。つまりは情報処理だけでまかなっていることになる。アイツの脳みそ、たぶん常人よりもでかいぞ」


 がははと陣内が豪快に笑う。

 何の取り繕いもない、素の笑い方。烈が見たのも久しぶりだった。


「他人事みたいに言いやがって」

「ともあれ納得したぜ。だからあんなに食うんだな」

「ああ。それだけ脳を消費しているものと考えられる」

「それにしても異常だけどな。ありゃ一日七千キロカロリーも当たり前だぞ。南極かっての」

「なあ陣内」


 烈は改めて言うと、建物から背中を離して陣内と向き合う。


「まだ日向と付き合う気はないか?」

「無いな」


 即答する陣内。

 その双眸には、いつものぎらぎらした力強さが宿っていなかった。


「あとは新太君に任せる。彼なら安心だ。日向に負けないパルクールバカな上、経営と教育の才も悪くない。オレも抜かれるかもな」

「そうか……」


 表舞台にこそ出ないものの、陣内は優れた実業家の一人である。

 そんな立場に違わぬ自信とプライドを身に包んだ、まさに社会的勝者の風格――それが陣内という男のはずだったが、今は冴えない大男にしか見えない。


 だからこそ日向を任せられるのだが、本人が折れてしまったのならば無理強いはできない。


「最後に一つ。日向の生活費はどうする?」

「一年以上生きていける金額を渡している」

「ならいい」


 烈はそれ以上突っ込まなかった。

 日向という稀有の人材であれば、その程度の支援はあってしかるべきだからだ。とはいえ烈や新太は立場上、出せない。陣内がぽんと出してくれるのならそれに越したことはなかった。


 用件を一通り話し終えた烈は、切り上げようと次の言葉を探す。そこに「なあ、れっちゃん」陣内の呟きが割り込んだ。


「れっちゃん。オレはな、正直言うと悔しいんだよ。オレの出る幕なんて無かったんだ。最初から新太君に任せておけば――」

「そんなことはないさ」


 力が及ばず人に任せることしかできない屈辱は、烈も共感できる。

 そういう時に下手な言葉が慰めにならないことも。


 それでも烈は口を開く。


「意味はあった。新太君は、一人だったからこそ競技化計画を進められたんだ」

「……」

「新太君が競技化計画を生み出すまでの間、日向の手綱たづなを握ることができたのは陣内、お前だけだ。お前に託したのは正解だった。もしあの時、お前が日向に一目惚れして私に強請ねだってなかったら、と思うとぞっとする。私ではコントロールしきれず、日向は既に捕まっていたかもしれん」


 もし新太がもっと早期から日向と付き合っていたなら、新太は日向の対応に追われていただろう。あるいはその実力に押し潰されていたかもしれない。


 新太は一人だったからこそ新競技――フリーランニングという先進的な計画を生み出せたのだ、と。

 烈はそう主張する。


 もっとも実際の歴史など本人以外には知る由もないのだが。


「あんがとよ」


 烈は意外そうな顔をした。

 この男は人の励ましに気付かないほど鈍感ではないが、ひねくれているところもがある。まさか素直に感謝してくるとは思ってもいなかった。


「落ち込んでるのか? お前らしくもない」

「オレを何だと思ってんだ」


 旧知の悪友であり、烈が最も信用し信頼する者の一人であり。

 ただし動機や行動には不純な事物も多く、犯罪に手を染めることも厭わない側面もあって。

 本質的には与える者ギバーである烈とは違い、ギブアンドテイク主義マッチャーであるゆえに、決して相容れない相手でもある――


 とても一言では言い表せないが、烈は迷うことなく返す。


「私が出会ってきた中でトップクラスの最低野郎だと思っている」


 陣内は一度目を見張った後、


「ふっ、ふふっ、――――がははははっ! よく似た親子じゃないか」


 今日一番、いや、ここ最近で一番の笑い声をあげた。


「まったく。何がそんなにおかしいんだか」


 烈は心地良い失笑で返した。

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