第3章
1 別邸1
七月十六日、日曜日。
先月の文化祭とは違い、昨日の体育祭は一日間であるため、この日は休日なのだが。
「眠い……」
沙弥香はあくびをしながら、車窓越しに林道を眺めていた。
道路は観光地のように整備され、朝日の木漏れ日が差し込んでいる。視覚的にもわかるほど穏やかだが、静かで、人や他の車は何一つ見当たらない。
「すっごく広いねー。通学とか不便じゃない?」
「そうでもない。むしろ快適だ。着くまでは勉強や読書に勤しめるのだからな」
反対側の座席に座る祐理が、目を輝かせながら景色を見ていた。助手席でそう返す春子や、さっきからだんまりを決め込む真隣の日向と同様、眠気のねの字も感じない。
「どこのブルジョワよ」
「私が言うのも何だが、ブルジョワどころではないぞ」
「でしょうね。別邸の一つでこれだもの。金持ちってどうしてこう見せつけたがるのかしら」
「権威さ。圧倒的なスケールを示せば、それだけで牽制になる。金持ちだからこそ、舐められるわけにはいかない」
「ふうん」
いきいきと語る春子に対し、沙弥香は興味無さそうに呟いた。
林道を静かに走るのは、黒塗りのリムジンである。
ただの森林ではない。春日家の私有地だ。ここは、その中でも春日野町の近くに位置する別邸の一つであり、普段春子が住んでいる場所でもある。
会話は後部座席でも交わされていた。
「ひなたぼっこしたら気持ちよさそうですね。ここで本読みたい……」
「迷子になりますよ」
「パルクールしても楽しそう。志乃もやる?」
「暑いので遠慮しておきます」
七月も中旬。春日野町ではちょうど梅雨が過ぎたところであり、屋外の暑さは早朝でさえ閉口するほどだった。
今もクーラーと防音がよく効いているものの、蝉の泣き声が蒸し焼きのごとくじりじりと鳴っている。
「志乃は冷たい。おしおき」
「えるさん、真智さんが暑苦しいです……」
「諦めてください。真智に気に入られたが最後、飽きられるまで懐かれます。力も強く、しぶといので
後部座席では真智、志乃、えるが並んで座り、友達になった喜びを噛みしめるかのように楽しんでいた。
「……」
そんな中、逆・紅一点とも言うべき状況下の日向――ちなみに運転手も美人の女性であり、春子曰く自身も敵わないほど強いらしい――は姿勢良く座り、口を閉ざしている。
一同の目的は、日向の処遇告知である。
――明日の朝、春日邸で日向の処遇が下されることになっている。
――日向には理事長と面会してもらう。
昨日、
同伴も可能とのことで、ついてきたのが祐理、沙弥香、真智、えるの四人だった。
ちなみに新太は自身が契約する運転手の車で明け方早々に帰っており、京介は寝足りないとのことで同伴を一蹴している。
「……」
「…………」
「……」
何か言いたげな視線がバックミラー、側方、あるいは背後から日向に刺さるも、本人は気付かないふりをする。
裸の付き合いの前後から、日向はとにかく黙秘を決め込んでいた。
既に処遇は確定している。これから行われることは、言わば茶番にすぎない。なら、迂闊に口を滑らせてぼろを出す必要はない。
幸いにも春高の理事長にして春日家の主――春日一久から直々に下されるということもあって、誰も日向を追及できないでいた。
(春日一久か。さすがに緊張する)
春子も言ったとおり、春日家はそこいらの
あながち都市伝説ではない、と日向は思う。
日向は佐藤に用意してもらったミラーリング済ファイルサーバーにて春高の各種ファイル――教職員が日々作成し参照する資料群を閲覧している。理事長の痕跡は提案書や決議書、議事録や連絡事項といった形で凄まじい存在感を放っていた。
(どう考えても化け物だ。甘い仕事はしてないつもりだが、盗撮のことがばれたら逃げられないだろうな……)
既に
もっとも新太や烈の口ぶりから考えれば、ひどい仕打ちになることはないのだろう。
しかし、それでも、一久という傑物と対面するという現実は、日向の気を滅入らせていた。
「おぉ……」
祐理の感嘆が漏れる。
視界から木々が消え、中世の宮廷のような大庭園が現れた。
程なくしてリムジンは館の一つに着き、日向を除く全員を降ろす。運転手も交代するようだ。
運転席に乗車してきたのは、見覚えのある男だった。
大柄で、まだ若い。二十代後半以下と思われる。
一目見て身体能力の高さがうかがえた。ハンドルを握る手も丸太のように太く、見栄ではない厚みと密度が見て取れる。
「一久のもとまで御案内致します」
音も無く、揺れも無しに発進するリムジン。
祐理が心配そうに覗き込んできたが、日向は視線を返すだけに留めた。
◆ ◆ ◆
日向が通されたのは館――と呼ぶには小さく、無愛想な建物だった。というより見た目は太い円柱そのものだ。
運転手に案内され、中に入ると、ホテルのように磨かれた空間が広がっていた。
外見に似合わず狭い。十数人規模のパーティーすら苦しいだろう。
「一久はあちらにいます」
そう言う運転手が指したのは天井だった。
ちょうど中央部分が、一辺四メートル半ほどの正方形型に切り取られている。地面から天井までの高さも同様だと日向は即座に目測する。
「……階段が見当たりませんが」
「余興でございます。どうにかして到達してくださいませ」
「……」
試されているのだと日向は悟った。
体育祭の時、春日一久は目前の屈強な青年を従えて日向を鑑賞している。日向もまた鑑賞されていることに気付いていた。
あの場には客人として烈と新太もいたはずだ。話に花を咲かせていたことも容易に推察できる。自分がそのネタになっていたであろうことも。
「あなたを使っても構いませんか?」
「どうぞ」
意外な提案をする日向を前にしても、青年は眉一つ動かさない。
「じゃあ今から指示する位置に、今から指示する体勢で立ってください」
日向は小走りで小さな吹き抜けの下まで向かうと、馬跳びのような格好をした。
「ここで、この体勢になってください」
「わかりました」
運転手は無表情のまま頷くと、日向と同様、小走りで近寄ってきた。
洗練されたフォームだ。それだけでもただ者ではないとわかる。
日向が少しずれると、すぐに踏み込んできて、同じ格好をする。
完コピと呼べるほどに正確で、「おぉ」日向は思わず唸った。
「動くとか崩れるとか、そういういじわるはしないでくださいね。あと耐えてください。あなたならたぶん行ける」
日向はまるで助走するかのように距離を取り、ふぅと一呼吸置いた後――
どんっと。鋭い踏み込みとともに、運転手めがけて走り始めた。
露ほども
日向の身体が浮いた。
NBAでもこれほどのジャンプは見ない、と。そう確信するほどの鋭さと高さが繰り出された。
間もなく、がしっと二階のふちを掴む。床が分厚く、日向のてのひらでは握りきれない。実質、指をひっかけることしかできなかったが、
「すごい……」
日向はその呟きを聞く間もなく、即座に身体を持ち上げ、柵も飛び越えていた。
二階に到着する。
円柱の内壁を沿うように設置されたテーブルが目についた。ある一画には書類やらパソコンやらが置かれ、別の一画には高価そうな飲み物やらお菓子やらのセット。
(そういえば佐藤さんもこういう部屋を持ってたな。これが効率の良いレイアウトなのか)
そんな感想を抱いていると、「素晴らしい」後方から拍手とともに聞こえてきた。
「……」
背後の第一声には、そうだとわかる不思議な重みがあった。
超集中を解き、振り返る。
反対側の柵の先に、一人の男が立っていた。
中肉中背の中年だ。身体能力は取るに足らないが、健康的な体格と姿勢をしており、容姿も平凡だが極めて清潔。
服装こそ半袖、半パン、サンダルではあるものの、必要最小限にして最低限のメンテナンスをしているのだとうかがわせる。
「渡会日向です。よろしくお願いします」
「春日一久だ。よろしく」
日向の一礼に対し、一久は気さくな笑顔で手を挙げた。
「アリス。二階に来い」
唐突の発言に日向は疑問を浮かべかけたが、間もなく解消される。
三階部分の天井、その一部が下降してきたのだ。
それは静かに降りてきて、二人の前に地面をつくる。
同時に柵が沈んでいき、何一つ障害物が無くなった。
「まさか一分で辿り着くとはな。
一久は日向の眼前まで近づき、手を差し出した。
「余興、とのことでしたが、楽しめましたか」
「うむ。圧倒的な地力に勝るものはないとわかったよ。ありがとう」
がっしりと握手を交わす。
「話だが、散歩しながらで良いかな?」
一久は壁際まで寄ると、テーブルを沿うように歩き始めた。
「私は歩きながら人と話したり考え事をしたりするのが好きでな」
「わかります」
適度な有酸素運動は脳を刺激し、思考と集中を捗らせる。言わずと知れたライフハックである。
日向は一久の隣に並び、散歩を始めた。
「これは雑談だが、先ほどのジャンプは明らかに人間を超えたパフォーマンスに見えた。どういうカラクリになっているのかね?」
日向は人間という不安定な足場にもかかわらず、一メートル半にも近い高さを跳んでいる。
世界記録を超越していると言っても過言ではなかった。
「どうと言われましても――
「リミッター?
「ああ、すいません。俺の造語です。何て言えばいいんですかね、人の脳は普段はあまり力を出さないよう重りをつけられているんですが、そのいくつかを外す感じです」
「言わんとしていることはわかるが、そうも簡単に行くものか――ん? 私の顔に何かついているかね?」
「いえ」
日向は思わず俯く。
(通じている。なんだこの人……)
「嬉しさの滲んだ横顔だな。不器用な娘を思い出す」
「あ、いや、あれで通じたのが信じられなくて」
「ははは。子供らしいところもあるじゃないか」
がしがしと頭を撫でられ、日向はばつが悪そうに頬をかいた。
「リミッターなるものの仕組みが人に備わっていることは私も知っている。科学的に解明されてはいないが、直感でわかることだ。いわゆる火事場の馬鹿力は、目の前の危機が
ぺたぺたと一久のサンダルが足音を鳴らす。
音はそれだけだった。ともすれば脈の音さえ聞こえそうなくらいに、他の雑音が無い。
「日向君はそれを自らの意思で自在に外せるようだな。
「そうだと思います。
「……」
沈黙をもって驚愕する一久の横で、「……そうか。だから俺はこんなに強いのか」日向が淡々と呟く。
視線で続きを問われると、慌てて説明を試みた。
「えっと、
「……」
一久は何も発しないが、その横顔は不思議と傾聴しているのだとわかるものだった。
「俺は直感的にはこう思います。人の強さを決める
日向は意気揚々と話していた。
それが一久のテクニックによるものであるとは夢にも思わないが、何を話しても否定されないし通じるだろうという確かな安心感を日向は感じており、口が弾んだ。
「この併用――
ぺらぺらと喋っていると、ふと。
とん、と肩に手が置かれた。
「日向君。フリーランニングでもそれを発揮するつもりかね?」
日向は足を止め、振り向くと、昨日聞かされた時から即決していた意志を口にする。
「いえ。セーブするつもりではいます。出すにしても気付かれない程度です。目立ちたくはないですから」
「私に見せたのはなぜだ?」
「先手必勝と言いますか……正直不安だったので。俺の価値が伝わったら、罪も軽くなるかなと」
「十分だ。十分すぎる」
ばん、ばんと肩を叩かれる。
一久は外面も気にせず、プレゼントをもらった子供のような笑顔でしきりに頷いていた。
「日向君なら人を殺めたとしても問題ないさ。私が――春日家がバックアップする」
「……」
今度は日向が唖然とする番だった。
「ここだけの話にしてもらいたいが、私のモットーは『人の価値は平等ではない』だ。人生に優先順位が必要なように、世界にもまた優先順位が必要なのだよ。君は優先に値する逸材だ。――さて。本題に入ろうか」
一久と日向は再び歩き出す。
その表情は二つとも愉悦を浮かべていた。
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