2 食堂
児童養護施設『村上学校』の夜は早い。
夕食は食堂にて午後六時きっかりに始まり、原則全員参加だ。時間もちょうど一時間であり、この範囲に間に合わなければ
「……」
午後八時半すぎの食堂。
日向の記憶ではとうに清掃が完了し、消灯している時間帯のはずだが、今現在、食器の後片付けやらテーブルや床の掃除やらが行われている最中だった。
一回りも歳の離れた職員が数人ほどてきぱきと行動している。
その中には京介が混じっていた。職員にもひけを取らない、慣れた立ち回りだ。
「いいかげん詳しい話を訊かせてほしいのですが?」
もっとも現実逃避している場合でもなかった。
日向の向かい側に腰掛けるえるがジト目を寄越す。
「お前らは掃除しなくていいのか?」
「ペナルティはいつでも清算できます。今は日向君のことが最重要です」
「同感。話すまで帰さない」
えるの隣で頬杖をついている真智も、相変わらずの無表情フェイスで睨んでくる。
なんだかんだ彼女との付き合いも深い。一戦すら辞さないという意志を理解した日向は、「はぁ」嘆息してみせた。
「落ち着けって。京介みたいにペナルティを清算しておけよ。手を動かせば冷静にもなる」
「そうやって逃げる気?」
真隣の祐理がどんっと小突いてくる。
「逃げねえよ。そのつもりなら最初から帰ってきてない」
「どうかしらね。今も
祐理の反対側を向くと、沙弥香がちょうど足を組み直していた。
視界の隅にショートパンツから露出した太ももが映る。祐理か、真智か、えるか――いずれにせよ施設で暮らす女子のルームウェアを拝借しているようだ。
沙弥香だけじゃない。この場の女子全員が同様の格好をしている。祐理とえるに至っては、ゆったりとしたTシャツであるにもかかわらず、暴力的な膨らみが存在感を放っていた。
(くらくらするというが、本当なんだな……)
放っていると言えば、匂いもそうだった。
石けん、ボディーソープ、シャンプー、リンス、ボディークリームにボディミスト――。ともに暮らす男子達を悩ませる、風呂上がりの匂いだ。
神の悪戯としか思えないバランスで配合されている、とは誰の言葉だったか。
この匂いに刺激されて女子を襲い、厳しく折檻されたのはどこのバカだったか。
誰の匂いが一番エグいかという話題で盛り上がっていたのはどいつらだったか。
加えて日向は鼻が良く、微かだが本人の匂いもわかる。
祐理一人ならまだしも、今は真智とえる、それに至近距離には沙弥香もいて、さすがの日向も全く気にしないわけにはいかなかった。
(ちょうどいい。使わせてもらおう)
日向は俯いてみせると、それを口にする。
「それよりも離れてほしいんだが。匂いでむらむらする」
「……わかってるよね、みんな」
しかし、誰一人として距離を取らない。
「何がわかってるんだ、祐理?」
「日向のそういうとこ。すぐ嫌われようとする」
「いや違うんだが。今回はマジだ」
日向は「ふぅ」と控えめに一呼吸置いた後、下腹部を指差した。
祐理と沙弥香が視線を落とし、びくっと肩を揺らす。「二人にも見せてやる」日向は立ち上がり、それを向かい側の真智とえるにも披露した。
日向の股間部分は、異様に盛り上がっていた。
「ひ、日向君……?」
はっとするえるの瞳が揺れ、長い黒髪が流れた。大和撫子という言葉が似合い、下ネタにも動じない彼女だが、実は実物に弱いことを日向は知っている。
その隣の真智は依然として表情筋が鳴りを潜めていたが、ふと片手をあげると、自身の前髪に触れた。
のれんをくぐるようにかき分けられた先には、縦に切り傷の入ったまぶた。
そして、嘘を見通す眼――
(まさか……)
真智の特技『嘘発見器』の仕様は知っている。
その眼で相手を射貫くように見つめ、同時に片手で相手の顔に触れる。
その状態でイエスかノーかで答えられる質問を投げかけ、反応を読み取る――
どんな人間でも、どんな精神状態であっても、嘘をつけば微かに反応に出るらしい。
そんな真智の化け物じみた尋問だが、発動には間近で触れることが必要なはずだ。
今の真智は、テーブルをはさんで向かい側にいる。
普通に考えれば、嘘発見器は発動できないと言えそうだが。
(成長している可能性がある)
自身もまた著しい成長の最中にある日向だからこそ、真智の可能性を予測できた。
「日向は、性的な興奮を演じることができる」
その尋問するような口ぶりは、日向以外にも気付かせるには十分だった。
突如発動した嘘発見器に、場が静まり返る。
少し離れて作業していた京介の手も止まった。
京介だけでなく、真智のこの特技を知る職員のうちの一人もまた、同じように手を止め、こちらを向いたのが日向にはわかった。
「……ノーだ。できるわけねえだろ」
日向が答えると、真智は唖然として言葉を失う。
ぽかんと口を開いた表情は、非常に珍しいものだ。
「おかしい。私の見立てでは、いえす……」
そんな真智はこちらを向いたまま、機械がバグったようにぶつぶつと呟き始めた。
見慣れない様子にえるが不審を抱き、祐理や沙弥香にも伝搬していく。
「俺も男子だ。お前ら無防備すぎなんだよ」
日向は言いながら椅子を掴み、祐理と沙弥香から距離を取る。ちょうど三角形になるような位置取りで座り直した。
日向らしからぬ乱暴な動作音もあって、場の注目は再び日向に戻った。
「この際だから言っておくぞ。俺にも性欲はある。まして今は思春期だからな。祐理一人だけなら問題無いが、こうも近距離で、しかも風呂上がりで集まられるとヤバんだよ。少しは配慮してくれ」
前屈みになりながら、少し照れくさそうに言ってみせる日向。
女子陣の追及がピタリと止み、汚物を見るような視線が現れる。日向は胸中でガッツポーズをきめた。
(これでキャラは立った。やはり雑念を減らせば真智には勝てる)
先ほど日向は密かに
真智の嘘発見器を回避するために。
日向がたった今ひらめき、つくりあげた
「……」と無言で頬を膨らませる真智。
「日向君が、その、私達、で……?」と顔を赤らめるえる。
「ふーん……」と胡散臭いものを見るような目の沙弥香に、「むー……」と口を尖らせる祐理。
三者三様、というより四者四様の反応を向けられて、日向は思わず肩をすぼめる。
(しかし気まずい。
日向が彼女達に欲情する可能性をでっち上げたのには理由があった。
この後、日向は何とかして己の潔白を証明しなければならない。
物的証拠はなく、直接目撃されたわけでもないが、状況は中々にシビアだ。
少なくとも今日、日向の確保に協力したメンツは春子の言葉――日向が屋上で盗撮をしており、かつ文化祭の犯人も日向であるという断言を聞いている。
日向はただでさえ「らしくない」と疑いを持たれているのだ。たとえ証拠が無くとも、憶測の材料があるだけで十二分に危険と言えた。
(そもそも怪我させてるしな……)
春子に呼応して怒っていた誠司の台詞を思い出す。
――文化祭で怪我人が何人出たか知っとんのか!?
――まだ治っとらん人もおるんやぞ!
知っている。
文化祭で逃走する時、日向が無関係の生徒を巻き込んだのは意図的だったのだから。
怪我人を負わせれば、追っ手はそちらに意識を回してくれる。
回してくれればくれるほど、自分への意識は弱まり、逃げやすくなる。
たとえ一瞬であっても構わないのだ。逃走はえてして瞬発的であり、ゆえにこそ一瞬の緩みで勝敗を決することができるのだから。
だからこそ日向は。
避けることのできた
無論、許されることではない。
犯人が日向とわかれば、少なくない賠償が生じてしまう。退学や逮捕もありえるし、何より施設にも迷惑がかかるのは明らかだ。
そうなると日向の行動を規制する理由にもなってしまい、もはや自立的な生活は営めなくなる。
日向は再び
(今現在、俺について話し合っている
(まず撮り師という事情は引き続き隠し通す。ここは金庫含めて対処してある。問題無い)
(文化祭の件はしらを切るしかない。唯一、春子とは対峙してしまっているが、奴も俺を直接見たわけではない。つまり証拠がない。しらを切れば、
(今日の体育祭については、性欲ゆえの行動だったということにする。俺は体操服姿の女子を見るのが性癖で、じっくり味わうために屋上から眺めていた――そういうことにする。道具は何も使っていない。現に証拠は無いんだからな)
これで日向の罪は実質一つ――体育祭中の屋上への無断侵入だけになる。
もっともこれだけでは動機が弱かった。体育祭を抜け出して、わざわざ外壁から屋上に入ったのだから、相応の理由が必要になる。用意できなければ、要らぬ憶測を招きかねない。
そこで日向はついさっき、勃起してまで性欲を振りかざしたのだ。
盗撮行為の嫌疑がかかる日向が、実は性欲を持つ男だった――
そうとわかれば、嫌疑の先も自ずとそういう方向に縛られる。
(日向はしらばっくれているが、女子を遠目に覗いていたのではないか。そういう性癖の持ち主ではないのか――そんな疑いを持たれるだけで済むはずだ)
知り合いから嫌われることなど、日向には取るに足らないことだ。
自分の生活が乱れなければそれで良かった。幸いにも日向には、自分一人で生活を完結させることのできる価値観と力がある。
(本当はみんなを刺激して追いかけっこをするための演技だった、ということにしたかったが、籠城の跡を残したままだからな……)
屋上には今も大量の飲食物、着替え、携帯テントなどが放置されたままだ。挑発の演技にしては手が込みすぎており、言い訳としては苦しいだろう。
そんな日向の道具達だが、今頃は雨で水浸しになっているに違いない。テントのバッテリーは壊れているかもしれない。
日向は胸中でげんなりしつつも、すぐに意識を切り替える。
(あとは真智の嘘発見器を始め、追及を乗り切ればいい。今日を乗り切れば勝ちだ。防御方法はさっき試して成功した。気を抜かなければ耐えられる)
こんなもんか、と日向は満足げに脳内でほくそ笑む。
超集中をいったん解いた。
テーブルに置いていたビニール袋に手を伸ばす。
手に取ったのはゼリー飲料。それをちゅるちゅると吸う。
「ご飯食べてないの?」
「帰りに食ってきた」
「どこで? 何を?」
「歩きながら、コンビニで買ったものを、だ。食べるか?」
日向はビニール袋ごと祐理に投げる。不意のパスだが、祐理の反射神経は悪くない。
難なくキャッチした祐理は早速覗き込んだが、品揃えがつまらなかったのか、「ばかひなた」投げ返してきた。
「で、さっきから黙り込んでるアンタは言いたいこと無いの?」
いくらか空気が弛緩したところで、ふと沙弥香が尋ねる。
日向ではない。その鋭い視線は日向よりさらに後方に飛んでいる。
一人だけ別のテーブルに陣取り、文庫本に目を落としているのは志乃だ。
「今はありません。お父さん方が決めることでしょうから」
「さっぱりしてるわね」
志乃は微笑を返し、活字の海に戻っていった。
「……」
ここまで存在感が薄く、また日向も意識的に見なかったことにしていたのが志乃だった。
(志乃だけは何考えてるかさっぱりわからん……)
だからこそ思考を阻害しないために、いったんスルーを決め込んだのだが。
姿勢良く座り、ひとり物静かに読書に浸る彼女。
時折ページをめくる、細くて綺麗な指先には一切の震えがない。
本に目を落としている、その表情は不意に、しかし楽しそうに変わっていく――
まるで壁に咲くたんぽぽのように、どこか頼もしくも
そんな彼女が美しくもあり、不気味でもあった。
幸か不幸か、向こうから絡んでくる様子は無い。
日向は引き続きスルーすることにした。
そうこうしているうちに食堂内の喧噪が止み、清掃を終えた京介が真智の隣に腰を下ろしてきたところで、
「日向」
烈の呼び声がかかった。
見ると、食堂出入口に烈と新太が立っていた。
その隣をちょうど職員が通りがかる。少し狭そうだが、烈に避ける気配はない。普段の烈らしからぬ視野の狭さだ。
その矛先は、当然ながら日向である。
もっともそんなことは声の質でわかっていた。
「それから京介も。裸の付き合いだ。来い」
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