3 大浴場1

 大浴場の洗い場では四人の男が一列に並び、背中を流し合っていた。


「単刀直入に言うぞ日向。お前はパルクール競技者としてデビューすることになる」

「……は?」


 烈の背中をこする日向の手が止まる。


「詳しい話は新太君。頼む」


 一方で「はい」そう答える新太――日向の背中を洗う、そのごつくて大きな手は止まらない。


「それと京介。ここでやりとりする内容は他言無用だ」

「……」

「京介? どうした?」

「ああ、わかってる。新太さんの背中、凄くね?」

「僕にそんな趣味はないよ」

「違えよ」


 烈と新太が愉快そうに笑う。


「――さてと、それじゃ始めようか。まずは日向君、君の罪と償い方についてだ」


 とん、と肩に置かれたボディスポンジを日向は手に取り、掴んだ。

 鏡の方を向き、体を洗おうとその手を胸に押しつけるも、擦り始めることはない。

 烈や京介も同様で、こする音は聞こえてこなかった。


 音と言えば、少し離れた大浴槽から、どぼどぼと湯が注がれ続けているだけだ。


「君の罪は少なくとも二つある」


 新太の声がこだまする。腹の底にまで染み渡るような、不思議な重さがあった。


「一つは、体育祭における器物損壊と不法侵入。もう一つは、文化祭の時の盗撮および傷害。このうち体育祭の方は、既に僕含めて清算している」


 ぎゅっと握られたボディスポンジが見る影もなく圧縮されている。

 日向の手からぼたぼたと石けんの泡が垂れ、床を打った。


「問題は二つ目、体育祭の方なんだけど、結論を言えば春日家が肩代わりする」

「……肩代わり?」


 日向の手からするりとボディスポンジが落ちる。

 それを日向は難なく掴みつつ、右側、新太の方を向いた。


「示談だよ。早い話、春日家が金と権力で黙らせたってことさ。無論、春日家が無償タダでそんなことをする道理はない」


 口ぶりから察するに、新太が春日家と懇意にしているのは明らかだろう。烈からはパルクール競技者になるとの結論も聞いたばかり。

 なら、日向は競技者として償うことになると考えるのが自然だ。


 問題は、そのような競技が日向の知る限り存在しないことだった。

 競技自体はある。何なら大会も開催されているが、まだまだマイナーの範疇を出ない。実際、競技だけで食べている日本人はまだいない。


 いくら実力があろうと、そんな状況下では、その肩代わりに見合ったお返しになるとは思えなかった。


「……新太さんは何を企んでいるんですか?」

「これは京介君にも聞いてほしいことなんだけどね。僕は新しいパルクール競技を立ち上げようとしている」


 京介はすっと立ち上がると、風呂椅子バスチェアを持って新太の後ろに移動する。


「競技なら既にあんだろ?」

「言い方を変えよう。パルクールを用いた、新たなをつくる」

「ほう……」


 烈が思わず漏らした。日向も、京介も、言葉にはしていないだけで表情だけ見れば同様だ。


「びっくりしたかい? それとも無謀かな?」

「いや、新太さんらしいと思いました」

「なるほど、それで春日家か」


 烈が再び感心を呟きに乗せると、


「ええ。コネが得られたのは偶然ですけどね。春子ちゃんには感謝しないと」


 新太がわかりやすい作り笑いを浮かべる。その思ってもいないことをそうだとわかるように言ってみせたという様子は、背中越しにも通じたらしく、京介はぞっとしていた。


 一方で烈と日向は何ら動じない。

 まるでそんな新太を知っているかのように。


「なるほどな。新太さんのこと、ちょっとわかったぜ……」

「どうも。それよりも先に洗ってしまおうか」


 四人は再び横並びとなり、迅速に身体を洗い始めた。






 大浴槽の壁際に腰を下ろす一同。

 壁側では烈がふちに両手を乗せてもたれており、その前方に三人が胡座あぐらで座る。烈から見て左から日向、新太、京介だ。


「その名もフリーランニング」

「は?」

「あ?」


 新太が自身の画策するスポーツ名を口にした途端、日向と京介の声が重なった。


「僕はね、パルクールという文化を維持メンテすることも諦めてはいない。競技の創成に伴い、フリーランニングという紛らわしい同義語を撲滅しようと思うんだ。もののついでにね」

「ついでって……スケールでかすぎだろおい」


 京介が呆れたように苦笑する。


「新太君。私にもわかるように言ってくれないか」


 烈のくつろぎっぷりは、銭湯で見かける中年そのものだった。いつもこうやってくつろいでいるのだろう。

 ともあれ、この様子を見れば、日向の償いに関する話題は既に終えたのだとわかる。


 日向にとっては一世一代のピンチだった出来事も、彼ら大人達にしてみれば取るに足らない仕事にすぎなかったのだ。

 己の無力さを痛感する日向だったが、一方でピンチを乗り切った事実に変わりはなく、自然と顔がにやけそうになる。


「パルクールとフリーランニング。本来はどちらも同じ意味を指す同義語なんです。しかし現状はそうなっていなくて、パルクールは移動術、フリーランニングはパフォーマンス、という誤解が根強く残っています。派手な宙返りやジャンプばかりがフォーカスされて、フリーランニングというラベルを張られるんです。それ以外の側面が無かったことにされてしまう」

「ややこしいな」

「ええ、これだけで一冊の本が書けるくらい言葉の定義は右往左往してます。何しろ誕生して数十年もない、新しい活動アクティビティですからね」


 過去を懐かしむ新太からは、重厚な経験を積んだ老人のごとき重みがある。

 年齢にしては二十代前半――まだまだ若者だが、過ごしてきた時間の密度はそこいらの人間では勝てまい。それはその鎧のような、あるいはネコ科のような身体を見ただけでもわかることだった。


「それでも本質は変わりません。パルクールはただのパフォーマンスでもなければ移動術でもない。自分と向き合うこと、限界を押し上げること。そして空間を認識して、その場にある万物を労り尊敬すること――パルクールは哲学であり、文化なんです」


 見知っている内容にもかかわらず、日向も引き込まれていた。


「だからフリーランニングという邪魔者を殺します。つまり僕がフリーランニングという言葉に特定の競技を当てはめ、これをメジャースポーツとして普及させます。そうすればもう、この言葉がパルクールを侵食することはなくなる」

「そうか? むしろその競技がパルクールを飲み込むんじゃねえか?」


 烈と日向が傾聴するその横で、京介がツッコミを入れる。獲物を食らうジェスチャーがばしゃっと湯面を叩いた。


「その心配は無いよ。フリーランニング選手が取り組んでいることの筆頭がパルクール、という関係になる。いや、そうする。何なら僕が先陣を切って主張してみせよう」

「トレーサー達も黙ってねえだろ? いくら新太さんと言えど、そんな某体操連盟みたいな暴挙は許されねえと思うぜ」


 以前、国際的な体操連盟がパルクールを一競技として管理下に置こうとした騒動が起きている。パルクールは新太も言うように何にも縛られない文化であり、世界中のトレーサーが連盟に反発した。


 以来、トレーサー達は連盟や協会といった組織に対する警戒心を高めている。

 たとえ新太といえど、そもそも管理しようとすること自体がナンセンスなのである。


 もっとも新太の主張はパルクールを管理することではなく、パルクールを用いた競技を一つつくって、他のあらゆる利権を黙らせるというものだが、それでも傍目に見れば、あたかも新太が絶対神として君臨しようとする暴挙に見えなくもない。


「そうだね。さすがに反対意見がゼロというわけにはいかない。でも内輪では過半数、いや八割くらいかな、賛同してもらってるよ」


 新太は指を折りながら有名トレーサーの名を挙げていった。

 指を全部折った後、ぱっと開き、「あとは強行した後に納得させてみせるさ」と晴れやかな笑顔でしめる。


「パルクール大好きだろ……」


 即座に疑問をはさみ続ける京介も同じ穴のむじなだが、新太がそれ以上の病的な入れ込み具合であることは素人の烈にもわかる。

 それほどに新太の語り口と、その口のついた身体のインパクトは強かった。


「ああ。僕の初恋はパルクールという概念だからね」

「ブラコンの沙弥香が聞いたら泣きそうですね」


 日向も思わずコメントせずにはいられなかった。


のことはどうでもいいさ。もうじき突き放すし」

「ひどい」

「ひでえ」

「新太君も相変わらずだな……」


 この物言いには、さすがの烈も少しひく。


「とにかく、僕がフリーランニングという新しいスポーツを立ち上げることは理解したかな? 烈さんも問題ありませんよね」


 烈は腕を組み、「うむ」満足そうに頷いた。


「それで、どんなスポーツをつくる?」


 のぼせたのか、烈は縁に腰を下ろす。


 その老いた肉体を日向はまじまじと見つめる。

 数多の子供を救ってきた偉大な父親は、年相応に弱々しいものだった。

 子供たちに問うように自らも健康に気を配り、運動もしてみせる烈だが、それでも寄る年波は越えられない。


「大丈夫か施設長パパ

「問題ない」


 京介の心配に、烈が嬉しそうにはにかむ。


 そうして落ち着いたところで、新太が説明を再開する。


「烈さんの問いですが、一言で言えば、移動に関する能力を色んな角度で競わせます。ゼロコンマ秒の世界になる超瞬発的な勝負から、数時間以上を費やすマラソン的なレース、はたまたレールバランスや壁にしがみつく動作キャットリープの耐久戦まで、よりどりみどりですよ」

「パフォーマンスはねえのか?」

「無い。人の手を介さず、定量的かつ厳密に優劣を測定できるものに絞っている」

「そりゃ公正なことで」

「競技だからね。主観とえこひいきで決まる世界なんてくそ食らえさ」


 吐き捨てるように呟く新太。

 新太と言えば国内のトッププレイヤーだけでなく、芸能人と呼べるレベルで多くのメディアにも出演している。芸能界を始めとした、一般人には縁の無い世界も見知っているはずだった。


 メジャースポーツの創生。

 それが、世界を見聞きしてきた新太の出した結論なのだろう。


「メジャースポーツにすると言ったな、新太君。ならば大衆を引きつける魅力と策もあるんだろうね?」

「もちろんです」

「訊いても?」

「構いませんよ。といっても今後の展開については話が長くなるので……では、魅力について話しましょうか」


 新太が立ち上がる。

 人間とは思えない、猛々しい肉体が晒され、全員の目が釘付けになった。


 世界最高の身体能力ともてはやされる、日本人離れした日本人。その身体と雰囲気には素人であろうと、玄人であろうと、万人を引きつける魅力が詰まっている。


 そんな新太が、新製品発表を行う社長のように意気揚々と歩き出す。

 湯に浸かっているというのに、まるで抵抗を感じない。


「色んなスポーツから良いとこどりをしています。野球からはスタジアムという観戦形態や試合中にベンチで休めるというスタイルを、ロードレースからは何百キロあるいは何日と走る超持久的側面や移動競技という要素を。将棋からは個人プレーのトーナメント形式やタイトルホルダーを始めとする称号システム。競技プログラミングからはネット上で各選手が好き勝手に問題を消化していくという非同期的なリアルタイムでない対戦形式。それとeスポーツからは参加規約レギュレーションという概念を――と、挙げればきりがないですが、現代のスポーツが持つ性質や娯楽性を参考にしました」

「eスポーツや頭脳スポーツマインドスポーツも見ているのか」


 感心する烈はともかく、京介はすべてを理解できていないようで首を傾げていた。

 ちなみに日向はかろうじて追えている。志乃と佐藤のおかげだった。


「そういった諸々をパルクールで彩らせたのが、僕の提唱するフリーランニング――新時代のエンターテイメントです」


 たった三人の聴衆だが、全員が息を呑む。


 ふと烈が縁から腰を上げた。


「一本飲むかね?」


 その視線の先、大浴槽の隅には小型の冷蔵庫があった。天面には湯に浮くトレイも置いてある。

 二つとも烈専用のものだ。勝手に使えば厳しく罰せられる。


「自家製のサイダーだ。アルコールは無いぞ」


 ちなみに烈は酒を飲まない。職員や外部の人間との付き合いでも決して口をつけないという徹底ぶりだ。


「一本くれよ施設長パパ

「計画にない摂取物なのでやめておきます」

「俺は清涼飲料水は飲みません」


 各人らしい返答を受けて「ははは」烈が愉快に笑った。


 トレイの上にサイダー瓶を二本乗せて戻ってくる。「サンキュー」京介が一本を受け取り、再び湯に浸かった烈と瓶を合わせる。

 キンッと涼しげな音が鳴った。

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