2 爪痕2

 職員室の応接スペースは一際華やかだった。

 長机の四辺を計六のソファーが囲んでおり、埋まっている席は三つ。


 ソファーが二つ並ぶ一辺には春日春子とその使用人、西園寺さいおんじ夏美なつみが腰を下ろす。

 春子は体操服姿、夏美はTシャツにジーパン、と二人ともラフな格好であったが、洗練とした佇まいゆえに育ちの良さが際立っている。付近の教職員が萎縮するほどだ。


 対面には夏美と同様、下半身にジーパンを着こなす女性が、足を組んで座っていた。

 司書の山下静香である。男子生徒が話題にするほどの容姿は健在で、その高圧的な態度さえ映えている。


「夏美さん。通していただけませんか」

「できかねます。ご当主様の命令です」

「突破しますよ?」


 山下の眼前は、まるで殺気でも飛ばし合っているかのようにぴりぴりとしている。


「春子様。それは三重の意味で難しいと思います」


 澄ました顔の夏美はそう言うと、わざとらしく室内を見渡した。


 職員室には多数の教員が居座っている。

 午後六時をとうに過ぎた室内は、働き方改革を推進する春高だけあって、既に四割近くが空席だった。

 残っている者についても、仕事というよりは雑談や自己研鑽に勤しんでいる様子で、今も陽気な笑い声や素早いタイピング音が聞こえてくる。読書している教員もいた。


「……」


 冷静さを欠いた春子でも、己の状況はわかっているらしい。


 まず第一に、春日家長女たる春子は、普段から相応の立ち振る舞いを期待されている。そんな彼女が、この状況下で使用人から逃げるという真似を見せるわけにはいくまい。


 第二に、この夏美という使用人は、ただ者ではない。少なくとも山下は一度、この女性が一回りも大きく強そうな暴漢を瞬殺した場面を目撃している。

 そうでなくとも、校舎に出入りする春日家の関係者は決まって戦闘力が高い。教職員の間では知られていることだ。


「無理はなさらず、お休みください」


 そして第三の理由が、疲労だった。


 山下には知る由もないが、春子もまた日向を捕まえんと走り回っていた一人である。去年まではスポーツテストで女子一位に君臨していた彼女だったが、所詮は高校級。日向の足元にも及ばず、あっさりと搾り取られていた。


 春子はぎゅっと拳を握り込み、ぷるぷると震わせた。

 普段の淑女らしさなどかけらもない。代わりに、悔恨や憎悪をごった煮したような、まがまがしい雰囲気を醸している。

 しばらく近寄りがたさ全開だった春子だが、自らを落ち着かせる術にも長けているらしい。

 特徴的な深呼吸の後、雰囲気が和らぎ――普段の真面目な令嬢が現れた。


「相変わらず無茶苦茶ね」


 山下がぽつりと、しかし使用人の方を向いた上でぼやく。


「納得いただけてないようですね」

「当たり前じゃないの。おたくの主さんは公私混同が過ぎる」


 山下の視線が職員室の出入口側、大きなホワイトボードのあたりに移った。

 大きな、しかし薄いディスプレイが一台配置されており、画面には学園長からの発令が表示されている。


 『発令ボード』と呼ばれるそれは、学園長――春日一久が全教職員に指示を出すための装置である。

 全教職員は即座に対応する義務があり、そもそも雇用契約時点でもその旨が記載されている。


「校内で鬼ごっこしている者を放置しろって? 廊下を走るところじゃない危なさなのに? 部外者もいるのに?」


 山下は少なからぬ不満を抱いていた。


 図書室からの帰り、山下は日向と部外者の逃走戦を間近で見ている。通報しようと職員室に来たところ、当の発令が既に出ていたのだ。

 発令の理由や背景は公開されていない。ナンバーツーの権力者たる校長――影では傀儡かいらいと呼ばれている――は来ていたが、教えられていないらしく、他の教職員と駄弁っているだけだった。


「ならば意見すれば良いのではないですか」


 夏美が淡々と返す。


 彼女が言っているのは教職員用ホットラインのことだ。

 学園長、春日一久は絶対者でもあるが、一方で経営者や教育者としての実力も高い。教職員向けに、ハラスメントや違法性などの問題を指摘する窓口が設けられている。


「白々しいわね。この程度なら何も通らないわよ」


 そもそも春高は一久の私物であり、実験場であり、暇つぶしのおもちゃでしかない。

 たとえ突飛な発令が出ようとも、明らかに問題がある場合――それこそ誰もが損得勘定抜きに黒だと断定できるような事柄でもない限りは、反対意見など通らない。


「でしたら、おとなしくなさることです」

「別に暴れたりはしないわ。私は運動音痴だもの」


 山下は腕を組み、苛立たしげに指をとんとんと鳴らす。


「ただね、気に入らないのよ。理事長は私達の提案に具体的な理由と数字を求めるくせに、私達には詳しいことを話さないじゃない。不公平でしょ」


 やたらあたりの強い山下を春子は物珍しそうに見ていたが、その隣の夏美は相も変わらずさっぱりとしている。

 春子の知るところではないが、山下は一久に対して何度も提案や議論を行ってきた。価値観の違いで相反するケースが多く、一蹴されたこともある。


「一介の司書が公平性を求めること自体が間違っているのでは?」

「立派なハラスメントよ、それ」

「契約を述べているだけです。貴方の役割は司書であり、貴方の裁量は図書室、図書業務および関連する人員、設備、行事のみ。発令という春高のシステムに言及する権限は与えられていません。そういう契約でしたよね」

「わかってるわよ」


 唾を吐き捨てる勢いで山下がそっぽを向く。

 足を組み替え、肘をつくと、しかめっ面のまま考え事に浸り始めた。


 私怨が入っていることに対する恥ずかしさが表出しそうになるも、目の前の使用人に謝るのもしゃくだ。山下は態度は崩さないまま、落ち着かせようと頭を働かせる。


 間もなく浮かんできたのは、唯一可愛がっている生徒――志乃だった。


(何が起きていたの?)


 図書室にこもっていた山下にわかるはずもない。

 ただ、発令から察するに、これは突発的なものであり、かつ重大な何かであることは間違いなくて。

 そしてそこには志乃の想い人――渡会日向も絡んでいる。


 彼を追いかけていた人物は何者だろうか。

 見覚えは無いから部外者のはずだが、一般人でもあるまい。もしかすると一久の客人かもしれなかった。


 となれば相当な大物か。実際、あの身体能力と雰囲気は、素人の山下にも並外れているように思える。


 そうだとして、では、そんな者から平然と逃げ回っていた彼は何者なのだろう。


「……」


 ちらりと前席の女生徒をうかがう。疲労は相当らしく、春子は身体のふらふらを隠しきれていない。


 状況から見るに、彼女も彼を追いかける側についていたのは明らかだろう。校内一の運動神経だと聞き及んでいるが、赤子の手をひねられたといったところか。


 彼女の――今は抑えられているが――溢れんばかりの攻撃性は、おそらく彼に向いている。彼には何らかの嫌疑でもあるのだろうか。

 一方で、山下が目撃した逃走風景チェイスシーンは、そんな文脈とは無関係に、ただただ楽しんでいるようにも見えた。


「……はぁ」


 まるで意味がわからず、想像も及ばない。

 山下はため息をつくしかない。


「使用人さん。おとなしそうな女の子がいたと思うんだけど、何か聞いてないかしら?」

「申し訳ありません。何も存じておりません」

「そう」


 志乃の居場所もわからずじまいである。

 さすがに志乃の無事が脅かされるような事態にはなるまい。春高の各種制度や自分との雇用契約から見ても、春日一久という男の危機回避対策リスクヘッジは信頼に値する。


 志乃本人は、そのことがわかっていた。目前の疾走感溢れる光景がどういう類のものであるかを一瞬で理解し、己の感性に従った――


 一年以上、少なくない時を過ごしてきた山下であったが、彼女のあんな心酔ぶりは見たことがなかった。


 志乃を探そうと、山下は席を立つも。


「……余計なお世話かしらね」


 独り言ちてから、もう一度腰を下ろした。


 既に悩み相談には乗っている。生徒の恋路にどうこう言うつもりもなかった。

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