第6部「能ある日向は暴かれる」
第1章
1 爪痕1
二人の戦いは見たくなかった。
見たら何かが乱されそうだったから――
新太と日向が一騎打ちを始めた後、祐理と沙弥香は一般棟四階女子トイレに逃げ込んでいた。
女子トイレであれば、彼らが入ってくることはおそらくない。それでも確率ゼロとは言えないが、少なくとも屋上よりはよほど低い。そう考えてのことだ。
無論、春子からもらったイヤホンも外している。
物静かな校舎に時折、獰猛な足音が響く。
音だけじゃない。雄叫びもついてきた。
「新太さん、楽しそう」
「……わかるの?」
個室の仕切りをはさんで会話が飛び交う。特に打ち合わせたわけでもないが、二人は最初から自然と別々の個室に入っていた。
「うん。見たことある」
「その時の相手も……アイツ?」
祐理が頷いた。もっとも沙弥香に見えるはずもない。
しばしの沈黙の後、沙弥香がぽつりと呟く。
「ねぇ祐理。この勝負、どっちが勝つと思う?」
「わかんない」
普段の沙弥香なら、そんな回答をしようものなら即行でツッコミを入れてきただろう。
何を言っているのかと。お兄ちゃんが負けるはずがないと。
「残念だけど、アタシも祐理と同じよ」
沙弥香の声質は痛々しいまでに弱々しく、しかし
「お兄ちゃんは、限界突破する場面では決まって雄叫びをあげる。だけど、あれを引き出せる男なんて、そうはいないのよ。メディアや競技でもここ数年は見たことない」
祐理の隣からぎしっと音が鳴った。便座の
ちなみに祐理は座らず、仕切り壁にもたれている。
「仮に引き出せたところで、お兄ちゃんはパワーアップするわ。そして引き出してくれた相手をぶちのめす。もちろん、同じ相手が二回以上引き出すことはない」
「でも日向は違う」
「そうなのよね」
祐理の記憶では、日向は少なくとも二回――施設時代と今現在とで新太の雄叫びを引き出している。
もっともこれは
「まったく、どこまで成長すれば気が済むのよ」
「そうだね……」
成長か、それとも潜在か。
久しぶりに本格的な勝負をした祐理だったが、日向は相変わらず底が見えなかった。
体力を振り絞り、追いかけても、追い詰めても、いとも簡単にそれ以上を発揮して、引き離してくる。
「これ以上アタシを置いていかないでよ……」
疲労がだいぶ激しい。祐理も便座の蓋を下げ、その上に腰を下ろし、体育座りを組む。
ひんやりとした感触が少し気持ち良かった。
何かを言おうと口が開きかける。しかし喉が動かない。
何を言うべきかもわからないし、何が言いたいかもわからない。
既に
どちらに転んでも、もう日常が戻ってくることはないのだ。
だったらせめて――
「……あ」
俯いていた祐理が顔を上げる。
ほぼ同時に、沙弥香も上げたのが肌でわかった。
止んでいる。
時折響いていた逃走戦の喧噪が、全く聞こえてこない。
まるでスイッチが切れたかのように。
「決着……ついたのかな?」
「報告は来てないわよ」
沙弥香の側から、かつかつと指で何かを叩く音。イヤホンをつついているのだろう。
もし新太が日向を捕まえたなら、捕まえ隊の誰かに差し出すはずだ。そうすれば報告が届く。
祐理もイヤホンを再度装着してみる。
何も聞こえてこない。報告はまだ来ていない。
にもかかわらず、この終局のような静けさ。
「まだ終わってないんじゃないかな。離れたところで戦ってる、とか……」
祐理の声が虚しくこだまする。
本当はわかっているのだ。
この静寂が何を意味しているのか。
間もなく沙弥香が口にする。
「アイツに負けたら、たぶん報告する余裕なんて無いわよ」
同級生から見せつけられる、圧倒的な格の違い。
長年真摯に取り組んできた者に。
日常的に無双してきた者に。
あるいは雲の上の住人に憧れ、恋い焦がれ、信じてやまなかった者に。
そのショックは、本気で在り続けてきた者にこそ重く響く。
「わたしは大丈夫だけど……沙弥香ちゃんはどう?」
「アタシも問題無い。アイツの凄さは何度も見せられたもの。惹かれるのもわかるわ」
物音一つさえ立たずに時が経つ。
どれほどの時が経っただろう。
一分とも、一時間ともわからない、何もかもがわからなくて、すべてを投げ出したくなるような感覚。
そんな息苦しい沈黙を破ったのは、外からの雨音だった。
「そろそろ帰るわよ。先に荷物かしらね」
「……うん」
隣の足音に続いて、祐理も個室を出る。
沙弥香が淀みなく歩き、洗面所で手と顔を洗う一方、祐理は窓から外を見た。
ざあざあと鳴くそれは、自分の悲痛を代弁しているかのようだった。
◆ ◆ ◆
「本当に申し訳無かった。気をつけて帰ってね」
校長室の前で、新太が深く頭を下げる。
目の前には、さきほど新太が脅かしたばかりの女生徒二名。恐怖の色はすっかり失せており、どころか隠しきれない興奮と申し訳なさが漏れ出ていた。
遠ざかる背中が廊下から見えなくなった後、新太は校長室に戻る。
「というわけで校長。よろしく頼む」
「はい」
学園長たる
「それでは失礼します」
校長は新太にも会釈した後、出て行った。
足音も聞こえなくなったところで新太はドアを閉め、些細な疑問を口にする。
「あのポジション、必要なんですか?」
「無くても構わないが、あれば便利さ。面倒事を押しつける役目なんだ」
春日一久は春高こと春日野高校の学園長であり、自由な経営と運営で知られているが、それでも学校教育という世界には避けられない雑事がある。
これを吸収するポジションが校長であり、重要ではないが面倒な手続きや行事を一手に引き受ける。
「死んでも御免ですね」
「ははは、私や君はそうだろうよ。でもね新太君。世の中には色んな資質があるのさ。たとえば給料や名誉があれば仕事内容にはこだわらない、というのも一つの強みさ。私にはできない芸当だ。ゆえに弾んでいる。年収は四桁、ポジションもナンバーツー」
新太は「なるほど」と感心しつつ、上質なソファーにどかっと腰を下ろす。
日向と
「それで次は何を押しつけたんです?」
「教職員や警備に邪魔されなかったことはわかるね?」
「ええ」
それは日向と勝負している最中、新太が感じたことの一つだった。
あれだけ騒げば通報や妨害の一つも入るはずだが、まるで意図的に放置させているかのように何も起こらなかった。
「私が発令したからなんだが、ついさっき取り下げたのだ。発令は絶対だが、理由までは説明していない」
「……クッションですか」
疑問や不審が渦巻く職員室に、校長というナンバーツーを放り込む。
間もなくあーだこーだと談話で盛り上がることだろう。同時に、校長という矛先のおかげで、一久への意識も逸れていくはずだ。
「面倒な世界を生きてますね。芸能界を思い出す。あぁ……」
気の抜けた声を漏らしながらソファーに身を沈める新太。
普段の新太が見せる姿では決してない。
逆を言えば、この二人はそれほどの関係になっていると言えた。
「面倒だが必要な対処だ。致し方ない。それにこうした機微は、学んでおいて損は無いのだよ。人の上に立ちたいのならなおさらな」
「僕は結構です」
「だろうな。君の人となりは何となくわかってきた。まあ、あんなことを持ちかけてくるとは思わなかったがね」
「面白そうでしょ」
「無論だ。だからこそ受諾したのだし、こうして関係も続けているのだ」
「ありがとうございます」
一久はサンダルをぺたぺたと響かせて窓際に寄る。
雨が降っていた。
梅雨らしい激しさだ。防音されているであろう、この部屋にも雨音が聞こえてくる。
「君はまだ幼いところがある。あんな軽率なことは、もう控えたまえよ」
新太はソファーから立ち上がり、深々とお辞儀をする。
「助かりました。本当に申し訳無かったです」
日向との
うち一人には怪我も負わせている。軽傷で済んだのが不幸中の幸いだったが、許されることでない。無論、放置していい事態でもなかった。
そこで新太は示談に持ち込んだのだ。一久の手も借りて、二人をあっさりと納得させることに成功する。
それで帰したのが、ついさっきの場面だった。
「……渡会日向君、か」
新太が顔を上げると、年甲斐もなく楽しげな表情が浮かんでいる。
「体育祭で見た時点でオーラが違っていたが、実際は想像以上なのだろうな」
「そうですね。想像以上に、想像以上ですよ」
「私も楽しみにしている。必ず成功させたまえ」
「はい。必ず」
新太は敬礼で応えた。
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